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10 揺らぐ心、交差する視線


 灰簾宮の小さな書斎。

 壁いっぱいの本棚に並ぶのは、王女がほとんど読まない恋愛小説やマナー本、哲学書――耳障りの良い本ばかり。

 だが、本棚は二重構造になっており、その裏側には魔導研究書がぎっしり詰まっていた。


 エレノアは小さな机に向かって座り、横の質素な椅子にはセドリックが静かに腰を下ろしている。


 小窓から差し込む日差しが、すみれ色の絹壁を柔らかく照らし、室内に上品な光の層を落としていた。


「エストリア共和国の魔導戦闘機というのは、わが国にもあるのか?」

「ありません」


 セドリックが軽く首を振ると、エレノアは驚いたようにわずかに身を引いた。


「……本当にないのか? 軍事機密として隠されているから、私の耳に入らないだけかと思っていた」

「魔導動力の飛行船や大型飛空艇はあります。軍でも騎士や隊員、物資輸送に使っています。

 魔導機関車と役割を二分している、と言っても良いかと。

 ですが――“戦闘機”は、アルトルミナには存在しません」

「……兄上が危惧する理由も、よく分かるな」


 エレノアはペンを置いた。

 銀髪が肩で揺れる。


「セドリック。気づいていると思うが、この灰簾宮には使用人が少ない。まして、私と同世代など一人もいない。

 社交の場にも私は出ていない。

 だから、同世代の友人がいないのだ」


 セドリックは穏やかに微笑み、小さく頷いた。


「どう接したらいいのか分からん。

 お前とは魔導という共通点があるから話せる。

 だが、アレクと何を話せばいいのかわからん」


 エレノアは背もたれに身を預け、足先を組む。

 セドリックは眼鏡の奥の翡翠の瞳を、細く優しく和らげた。


「リーベル卿は懐の深い方です。殿下のお話なら、魔導の話でもきっと耳を傾けてくださると思いますよ」

「話してはいる。むしろ、それしか話していない。なんでも楽しそうに聞いてくれる。いい奴だ。

 ……だが、私はアレクと“親しくなりたい”のだ。

 彼は……なんというか、ガードが固いだろう?

 アレクは私を“守るべき王女”として見ていて、距離を詰めるべき“婚約者”とは思っていない」


 セドリックは苦く笑う。


 ――王女殿下は、本当によく人を見ている。


「彼はあの美貌だろう? 初対面で、私はついあの美貌を褒めてしまった。あれがいけなかったのではないか?

 あの一言で、彼にとって私は“その他大勢の一人”になってしまったのではないかと……思ってな」

「僕は、こういうことは疎いので的外れかもしれませんが……」


 セドリックは慎重に言葉を選ぶ。


「そのまま、話してみたらいかがですか?」


 エレノアの銀髪が揺れた。


「なんて言うのだ?」

「“アレク、私はお前のことが知りたい”と」

「……言えるだろうか?」

「少しずつでいいのです」


 エレノアが小さく頷くと、セドリックも柔らかく笑んだ。


「セドリック」


 王女が突然立ち上がる。


「ついて来い」


 踵を返したエレノアを、セドリックは慌てて追う。

 本棚の横、絹壁に紛れた一角に手を置くと、カチリと音がして壁が開いた。


「隠し扉……ですか」


 エレノアはわずかに口角を上げる。

 扉のそばで控えていたヴェラが、エレノアを見た。


「……殿下」

「セドリックは、信頼できる」


 一拍の沈黙。


 ヴェラは一礼した。


「……承知いたしました」

 

 ヴェラをセドリックが見ると、彼女は静かにもう一度、頭を下げただけだった。

 観念して、セドリックは王女の後に続く。


---


「……ここは?」


 部屋に入ったセドリックは、思わず足を止めた。


 奥行きだけ深い空間。灰紫色の絹壁には、真鍮のポールが横に渡され、かつて衣装をかけていた名残が残っている。


 一方の壁際には、廃材を用いた簡易実験台、手作りの工具棚、小型魔導炉。

 反対側には魔導器具がいくつも吊り下げられていた。


 魔導炉に刻まれた魔導陣が淡い青光を脈動させ、吐き出された蒸気が細いダクトを巡っている。


「衣装部屋を改造した魔導工房だ」


 エレノアは実験台をそっと撫でた。


「ここで、オルゴールも造った」


 セドリックはゆっくりと歩きながら、吊られた工具と炉に目を走らせる。


「……よく、ここまで揃えられましたね。大変だったでしょう?」

「大変だったな」


 エレノアの声が、わずかに和らぐ。

 見えない瞳もきっと細められているのだろう。


「ここに、リーベル卿は招いたのですか?」

「アレク? いや。

 ここにはヴェラでさえ入室を許していない。入れたのはお前が初めてだ」


 セドリックは息を呑む。


「……お近づきになりたいのでしたら、ぜひ、リーベル卿にも教えて差し上げたらよろしいかと」

「そうか? 引かないか?」

「リーベル卿ですよ。おそらく大丈夫です」


 セドリックは小さく笑う。


 ――これは、アレク卿も苦労しているに違いない……。

 殿下が、どれほど無自覚に人の心をかき乱しているかを、きっと、彼だけが真正面から受け止めている。


---


 セドリックがふと顔を上げた。

 城の鐘が、遠くで小さく響く。


 フロックコートのポケットから懐中時計を取り出し、時刻を確かめる。


「……殿下。講義のあと、リーベル卿とのお茶のお時間ですよね?」

「そうだが……。――いま何時だ?」

「三時です」


 エレノアが息を呑む。


「……時間だ」


 王女はセドリックの袖をむんずと掴み、早足で歩き出した。


「で、殿下!」

「アレクは遅刻しない。急がねば」

「しかし、手をお離しください……」

「お前はここからの出口を知らないだろう」

「それは……そうですが……」


 セドリックは成す術もなく引っ張られ、まず書斎へ戻り、さらにそのままティーサロンへと連行される。


 ――そして、セドリックは絶望した。


 ちょうど入室したばかりのアレクが、ティーテーブルの前に立っていたのだ。


 昼の光を受けた白金の三つ編みがゆるく揺れ、澄んだ碧の瞳が柔らかく光る。

 高い上背、均整の取れた体。濃紺の第一騎士団制服がその美貌をさらに引き立てていた。


 “美貌の騎士”は穏やかな微笑みを浮かべたまま、エレノアに引かれているセドリックの袖口へ視線を落とす。

 続いて、扉のそばに控えるヴェラとオズワルドへと、静かに――しかし確実に――視線が滑る。


 察しのよいアレクは理解する。


 ――二人きりで……どこかに行っていたのだな、と。


「アレク。良かった。

 セドリック、間に合ったな」


 エレノアはどこか嬉しそうにセドリックを振り返った。


(間に合っていません!!)


 セドリックが青ざめて首を振るが、エレノアには一切伝わらない。


「――お二人で、どちらへ?」


 “エレノアとセドリックは似ている”

 王太子の言葉がアレクの脳裏をよぎる。


 ――惹かれ合って当然、ということか……。


「魔導工房へ行っていた。アレクも今度招待するからな」


 エレノアの声がわずかに固い。


 セドリックには分かる。

 この固さは“後ろめたさ”ではなく、“アレクを誘うことへの緊張”だということが。


 だが、その不器用な理由は、アレクには届いていない。

 理解しているのは、セドリックだけ。


「“魔導工房”とは?」

「衣装部屋を改造して造ったんだ」


 アレクの拳が、ぎゅっと握られる。


「“衣装部屋”……ということは、失礼ながら――さして広くはない密室に、男性と二人きりでいた、という認識で合っていますか?」


 セドリックはうつむき、片手で額を押さえた。


 エレノアは首を傾げる。


「そうだが?」


 その瞬間、アレクの微笑みが音もなく消えた。

 空気がひやりと冷える。


 アレクは歩み寄り、まだセドリックの袖を掴んでいるエレノアの手をそっと持ち上げた。


「殿下。貴女は未婚の女性なのです。……あまりに無防備すぎます」


 見上げるエレノアはぽかんと口を開き、やがてぎゅっと引き結ぶ。

 頬が、ほんの少しだけ色づいた。


 アレクは視線をヴェラに向ける。


「ヴェラ殿も、なぜ二人きりを許したのです」

「申し訳ございません」


 侍女は静かに頭を下げた。


「ヴェラは叱らないでくれ。魔導工房はヴェラに入室を許していない。止めようがなかった。

 悪いのは私だ」

「……殿下」


 アレクの碧の瞳が細くなる。


 彼はエレノアの手を自らの額にあてた。


 ――どうしようもなく、イライラする。


 ――殿下は、俺の婚約者なのに。


 片目だけで、セドリックを見やる。


 ――価値のある男。

 ――アルトルミナの“頭脳”。

 ――穏やかで、余裕がある。

 ――俺では、一生かなわない。


 アレクは瞳を閉じ、細く息を吐いた。


 そしてゆっくりと目を開き、エレノアの手を離すと、セドリックをチラと見て、視線を外した。


「なぁ、アレク。

 アレクもセドリックと仲良くなりたいのか?」

「え?」


 アレクは目を僅かに見開く。

 エレノアは横でクスクスと笑った。


「ならば、ボードゲームで親善試合をしようではないか」


 二人は同時に眉をひそめ、王女を見た。


「戦術ゲームなら、アレクも馴染みがあろう? どうだ、楽しそうだろう?」


 アレクはセドリックへ碧い瞳を向けた。

 僅かに光を含んだそれは、少し揺れていた。


「セドリック殿……」


 セドリックはその視線を受け、――観念した。


「……分かりました。お受けします」


 こうして、王女殿下の婚約者と家庭教師は一戦を交えることとなった。

 ボードゲームで。



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