1 灰簾宮の朝、運命の歯車が動き出す
明かり取りの小さな窓から差し込む陽光が、幾筋もの細いリボンのように彼女の手元を照らす。
銀色に鈍く光る台の上には、真鍮製の小さな箱。
冷たい青を宿した淡い銀髪をした彼女――エレノアは、そっと手を添えてその箱を開いた。
蓋の内側に刻まれた魔導紋様がゆっくりと青白く脈打ち、続いて、基盤の上に並んだ小さな歯車が滑らかに回りはじめる。
そして、それは音を奏でた。
オルゴール。
彼女自身が作った、魔導式の小さな機械。
狂いなく歌う箱を大切に抱えると、エレノアはほんの少しだけ笑みを浮かべた。
そのまま、秘密の魔導工房を出る。
スミレ色のシルク壁紙の部屋には、朝の柔らかな光が入り込み、質素ながら品ある静けさが漂っている。
箱の音を響かせたままテーブルに置き、窓辺へ歩み寄り、灰紫色のベルベットカーテンを手で払った。
長い前髪に隠されていたその瞳が、窓の向こうの街を見下ろす。
――アルトルミナ王国、王都ルミナリエン。
産業革命から半世紀。
蒸気機関と魔導結晶が融合し生まれた新時代――魔導スチーム文明。
ルミナリエンも、その渦中にある。
整然と並ぶ黒い尖塔からは灰煙が絶え間なく上がり、空には白い雲と魔導飛空艇がゆっくりと流れていく。
街を行き交う人々の動きが、魔導流路の脈動のように規則的で、美しく光を反射していた。
スライド式の窓を一気に押し上げると、霧の匂いを含んだ風が銀髪を揺らし、青紫の瞳が露わになる。
背後では、オルゴールがまだ静かに旋律を奏でている。
「……いい朝だ」
アルトルミナ王城の片隅にある、小さな宮殿。
――灰簾宮。
ここは第三王女、エレノア・アルトルミナに与えられた宮殿。
彼女はそこでひっそりと、息を潜めるように暮らしていた。
側妃腹の娘であり、政治的価値のない――“無才の王女”。
父王をはじめ、人々は彼女をそう呼ぶ。
それでも構わない。
この小さな世界さえあれば。
少しずつ集めた魔導工学の本と工具。
自ら改造した魔導工房。
少ないが信頼できる使用人たち。
それだけで十分だった。
――ノックの音。
扉脇に控えていた侍女ヴェラが応じる。
彼女は一度小さく頷き、滑るようにエレノアの側へ寄ると、瞳を伏せて告げた。
「殿下。陛下がお呼びです」
「……そうか」
エレノアがドレッシングルームへ歩み出ると、ヴェラは音も立てずに従った。
---
王城、王の執務室。
深い赤茶の木製パネルで囲われ、窓には深紅のベルベッドのカーテン。朝陽を和らげ、部屋に静けさと重厚感をもたらしていた。
艶のあるマホガニーの執務机。
天板の角には浅く、王家の紋章が彫られている。
直線的なフレームに深紅のダマスク地が張られた王のための椅子に、父王は氷の表情のまま足を組んで座っていた。
王族らしい風格と品を兼ね備えた部屋。
しかし蒸気式時計の一つさえ置かれない、スチーム文明に取り残された場所でもあった。
エレノアは毛足の長い深い赤の絨毯の上をゆったりと歩き、彼の前でカーテシーをする。
ほとんど下ろしたままの癖のない髪が、肩からさらりと落ちた。
地味な灰紫のドレス。指にも首元にも装飾は最低限しかつけておらず、かろうじて彼女が王族であると信じられるのは、その髪色と、髪を飾る銀の小さなティアラだけだ。
「面をあげよ」
時間をかけてカーテシーを解き、うつむきがちに、父王に顔を向ける。長い前髪が彼女の顔の半分以上を覆い、眠たげな瞳も伏せられたまま。
父王アルフォンス三世はため息をついた。
「お前がもう少し美しければ、使えたものを」
執務室には、彼の従者や専属護衛達が静かに壁際に控えている。
冷たい呼吸だけが執務室に落ちる。
衣擦れの音。
父王が机上の書類を手に取る。従者が受け取るために動くが、アルフォンス三世はそれを無視して、紙束をエレノアに向かって投げた。
それは彼女の肩にあたり、柔らかい絨毯の上に音もなく落ちる。
張り詰めた空気。
エレノアは少しだけ屈んでそれを拾いあげると、父王が鼻で笑った。
「お前の縁談が決まった。“無才の王女に”、我ながら良い相手を見繕えたものだ。感謝しろ、エレノア」
「……はい。ありがとうございます、陛下」
エレノアはそっと身上書に視線を落とす。
「これで肩の荷が下りた。下がれ」
紙束を抱えたまま、カーテシーをし、踵を返す。扉口で控えていたヴェラに身上書を渡し、エレノアは部屋を後にした。
---
騎士団旗が一度、強くはためいた。
アレクがそれを見上げると、一本に編んだ三つ編みが背で揺れる。昼下がりの光を受けて白金色に輝く髪。澄んだ、柔らかい碧の瞳が空へ向けられた。
その仕草だけで、第一騎士団訓練場には黄色い声が上がった。
アレクのそばにいた騎士が、「お嬢さん方は今日も熱心だな」と笑って背を軽く叩く。
見学席を埋め尽くすのは、彼を見るためだけに集まった女性たち。アレクが視線を向けると、さらに歓声が大きくなる。
アレクは白い歯を見せ、彼女たちに笑いかけて小さく手を振った。
「いつもありがたいよ」
朗らかに笑うと、同僚は肩を揺らして笑った。
アレク・フォン・リーベル。
アルトルミナ王国の華形、第一騎士団“蒼輪騎士団”所属の中堅騎士。
訓練場に女性が押し寄せるほどの“美貌の騎士”として名高い男だ。
「アレク! 団長が呼んでるぞ!」
遠くから声が飛び、アレクは同僚に軽く頭を下げて駆けだした。
――その瞬間だけ。
誰の視線も離れた時、彼の澄んだ瞳に、ごく僅かな影が落ちる。
だが、それに気づいた者は一人もいない。
---
団旗に施された金糸の刺繍が、開け放たれた窓から差し込む光を眩しく弾いていた。壁に貼られた地図には無数の書き込みとピンの跡。
魔導式の歯車時計がジーッと低く刻む。
使い込まれた黒壇の執務机には書類が山積み。
格式と実直さが混ざり合った第一騎士団団長室。
アレクが入室すると、団長ガレス・ハルトマンは執務机の脇でスクワットをしていた。
「きたか! アレク!」
「はい。お呼びと伺いましたが」
執務机の前で姿勢を正し、嵐のような男――ガレスを見つめる。鍛え上げられた体躯に騎士団服が今にもはち切れそうだ。短い金髪には白髪が混じり始めているが、肌にも声にも衰えはない。
ガレスは運動を止めると、机の上から紙束を掴み、アレクに差し出した。
「お前に婚約話が来た! いい話かどうかは……まあ、難しいところだが……」
そして大きく息を吸い込み、いつもの調子で続ける。
「断れん! 受けろ!」
アレクは思わず眉を上げ、書類に視線を落とし――ビクリと肩を震わせた。
「……っ! 王女殿下ですか!?」
再びスクワットを始めたガレスは、汗を滴らせながら笑顔で頷く。
「そうだ!」
「お……俺の爵位は“騎士爵”です。とても王女殿下を娶れるような身分では……!」
「そうだ! だからだろうな!」
「え……」
「少し話したことがあるがな! 噂ほど悪い女性でもない! ……気がする! 分からんけど!」
アレクは苦笑しつつも眉を寄せる。ガレスは大雑把だが悪意とは無縁の男だ。女性を貶すようなことは決してしない。
身上書を持つアレクの指がわずかに震えた。
「とにかく! 騎士団経由で“わざわざ”打診してきたんだ! 断れん! 受けろ!」
アレクは息をのみ、小さく頷いた。
そして――いつもの朗らかな仮面を滑らかに整え、白い歯を見せて笑う。
「身に余る光栄です。謹んでお受けいたします」
深く頭を下げると、肩からさらりと金の髪が落ちた。
ガレスは少しだけ眉を下げ、スクワットを止めてアレクの肩に静かに手を置いた。
「何かあれば相談しろ。役に立つかどうかは……分からんがな!」
「……はい。ありがとうございます」
アレクは微笑んで一礼し、踵を返して部屋を出た。
――こうして、“美貌の騎士と無才の王女の婚約”が、静かに整えられた。




