13番 筑波嶺の 峰より落つる 男女川 恋ぞつもりて 淵となりぬる
[ 筑波嶺の 峰より落つる 男女川 恋ぞつもりて 淵となりぬる]
<山の頂で生まれたかすかな水脈が、やがて奔流へと姿を変え、深い淵をつくって静かに澱むように。
あの日胸の片隅に芽吹いた思いは、時の流れに育まれ、重なり、今では底知れぬ深みを湛えた淵のように、私の心にとどろいている。>
『来週、空いてる日ある?また振られちゃった。』
簡潔なメッセージを見ただけで、心臓が大きく跳ねた。
今回こそは、と意気込んでいたのにものの数ヶ月で上手くいかなかったらしい。
雄大の胸にほの暗い喜びが広がった。
*
さやかと雄大の出会いは中学生の時だった。
親が転勤族で小さい頃から転校を繰り返していた雄大に、とある中学校で最初に話かけてきたのが彼女だった。
2人とも図書委員かつ読書が趣味であったことから、更に仲が深まった。
どうせすぐに転校するから、と必要以上に人と関わることを避けていた雄大だが、何故か彼女のことはより深く知りたいと思うようになった。
お互いにおすすめの本を貸しあい、放課後は窓の外が茜色に染まるまで教室で語り合った。
ある小説に出てきた、手紙をよく書く登場人物に憧れたさやかの提案で、文通もした。
いつも明るく人気者のさやか。
暗いイメージを持たれ、殆ど友達のいない雄大。
普通なら関わることのなかった彼女と、まるで秘密を共有するように手紙のやり取りをすることは、雄大にとって恋を知るのに十分な理由だった。
高校生になり雄大が東京の学校に転校してからも、文通は続いた。
読んだ小説の話や学校の話など他愛もない話ばかりだったが、さやかの丸く可愛らしい字を見るたびに雄大の思いは膨らんだ。
大学で都内の大学の文学部に進学することになり、それをさやかに報告するとすぐに返事が届いた。
『私も同じ大学なの!すごく嬉しい。』
お互いに志望校は明かしていなかったため、予想外の出来事に雄大は夢のような心地だった。
そして、大学入学前の3月。
桜が風に乗って空を舞う中、2人は東京で再会した。
久々に見たさやかは、あの頃より髪が伸びて大人っぽくなっていたものの、花の綻ぶような笑顔は記憶そのままだった。
最初はぎこちなかった2人だが、ものの数十分で昔のように会話が弾み、連絡先も交換して。
さやかとの新生活に胸を躍らせた雄大だったが、大学が始まって3ヶ月。
同じ大学といえども広大なキャンパスでさやかと出会うことは一度もなかった。
ただ、メッセージのやりとりはふとした時に続いた。
名物教授の話や通学路の紫陽花の美しさなど、共通の話題も増えた。
どちらかが会おうと言い出すことはなかったが、雄大にとってはさやかの存在を身近に感じられるだけで十分だった。
そんな風に過ごしていたある日。
さやかからのメッセージの最後に、『最近、彼氏ができたの』と軽く添えられていた。
それを見た瞬間に、心臓が締め付けられたような気がした。
しかし、関係が壊れることを恐れて想いを伝えることを避けてきた雄大に、何かを言う資格はない。
『そっか、良かったね』
何でもないことかのように無難な返事をした。
その日を境に、やりとりは少しずつ間延びしていった。
*
変化が訪れたのは、さやかに初めての恋人ができてから2ヶ月ほど後のことだった。
さやかは、恋人と揉めるたびに雄大へメッセージを送ってくるようになったのだ。
『聞いてよ、またケンカしちゃって』
『どうして上手くいかないんだろう』
『雄大なら分かってくれるよね?』
最初は軽い相談だったはずが、いつの間にか甘えるような文章が送られてきて。
突然電話がかかってきたと思えば、泣きながら「少しだけ話してもいい?」と囁く声。
まるで感情をぶつけられるのは雄大しかいないとでもいうように。
初恋の時のように明るく天真爛漫な彼女は、もういない。
画面の向こうにいるのは心の傷を男に埋めてもらおうとする、弱い女だ。
ただ、そのことに失望する気持ちは全くと言って良いほどなかった。
—— 彼女は自分に依存しつつある。
雄大は、心の奥底がどす黒い何かで満たされるのを感じた。
雄大は、さやかを長年想い続けている。
だからこそよく知っている。
さやかが自分に抱いているのは恋情とは程遠い、兄に対するような親愛の情であることを。
それでも良い。
自分ではない“誰か”に向けた恋心が、少しずつ壊れていく音を聞くたびに。
傷ついた彼女の宿木に選ばれるたびに。
—— どうしようもなく、嬉しかった。
さらに何ヶ月か経ち、さやかはその恋人と別れた。
しかし季節が巡るとまた彼女には新しい恋人ができ、そして別れた。
その度に雄大の心は軋み、戻れないほどに形を変える。
恋人役が変わっても、さやかが揉めた時に連絡をするのは決まって雄大だった。
そして、さやかが 『会おう』 と言ってくるのは、彼女が恋人と別れた時だけだ。
そんな時、さやかはいつも別れた恋人の好みに合わせた服装や髪型になっていて、彼女がいかに恋愛に翻弄されているかが一目で分かった。
都合の良い時だけ、利用されている自覚はある。
それでもさやかとの関係を壊したくなくて、自分の想いを伝えるという選択肢はなかった。
*
酔った時に、人に言うつもりのなかったさやかとの関係を文学部の友人に話してしまった。
健全とは言い難い2人の関係性を心配した面倒見の良い彼は、雄大に知り合いの女性を紹介した。
紹介された手前無下にもできず、数回会ううちに相手から告白された。
さやかとの関係に苦しさも感じていた雄大は、それを受け入れた。
その女性は優しく、よく笑い、雄大にまっすぐ好意を向けてくれた。
彼女のことを心から愛そうと、雄大は努力した。
しかし、どれ程愛を囁いたとしても、そして何度身体を重ねたとしても —— ふとした時に頭に浮かぶのは別の人の面影だった。
ある晩、彼女は言った。
「雄大……もうやめにしよう。」
彼女は微笑んでいた。
けれど、その目の奥には諦念が滲んでいた。
「多分ね、あなたの心ずっと違うところを見てる。」
雄大はただうつむくばかりだった。
否定しても嘘になるのが分かっていたからだ。
*
ある夜、ふいに電話が鳴った。
「……ねえ、雄大くん」
迷子の子供のような、頼りない声が聞こえた。
「どうしてだろうね。
恋人とはうまくいかないのに……君の声を聞くと、落ち着くの。」
「……それは、俺も同じかもしれない。」
ぽつりと雄大が呟いた。
一瞬の静けさの後、さやかが口を開いた。
「ねぇ、私達付き合ってみる?」
その声は、とても軽い口調だった。
雄大は答えられず、ただ沈黙した。
ずっと待っていた言葉に、身体中が喜びで満ちて ——でもそれ以上に感じたのは落胆だった。
雄大がさやかを想う気持ちは、さやかが雄大に向ける気持ちの何倍も重くて暗い、もはや”執着”と呼ぶ方がふさわしいものだ。
こんなに軽く付き合う提案ができるさやかが、恨めしくてたまらない。
しかし、その奥に隠れたわずかな震えを雄大は敏感に察した。
本当に軽い気持ちで言ったのか?
それとも、傷つくのが怖くてそう装っているだけなのか?
自分に都合の良い妄想かもしれない。
それでも——
「さやか」
名前を呼んだだけで、空気が震える。
次の言葉を間違えば、何もかもが壊れてしまうような予感がした。
静寂の中、窓の外で街灯に照らされた桜の花片がひとひら、空へと舞い上がった。
「会おう、また今度。ちゃんと話そう」
それだけを告げると、電話の向こうで息を呑む気配がした。
「—— そうだよね。私も本当はそう言ってほしかったのかも」
涙なのか、微笑みなのか分からない声だった。
その瞬間、胸の奥底に沈んでいた濁りが、少しだけ透明になっていくのを雄大は感じた。
夜の風が、静かに吹き抜ける。
冷たい夜風のはずなのに、何故か暖かい気がした。




