ワインレッドの矛盾
ワインレッドの矛盾をはがした。
それはかさぶたという名のついた人体の矛盾。はがしたらダメなくせに痒くなるってなんなわけ? あーあ、意味不明、バッカみたい、付き合ってらんない。きらいきらい。かさぶたも、矛盾ばっかりなこんな世の中も。
だから私はかさぶたをはがす。
ほんのちっぽけでしかない非力な矛盾を、はがして、指で粉々にして、教室の床にパラパラと捨てる。上履きの底でぐりぐりと踏みつけたりなんかして。わっはっは。どうだ。勝ってみせたぞ。と腹の奥底でいっぱいに笑ってやった。気持ちいいなあ。こんなに気持ちいいのに。気分は晴れない。私の心は世界の外側で宙ぶらりんのまま。
守ってくれるものが無くなった剥きだしの膝小僧は少しだけジンと痛んで、真っ赤な綺麗な血が滲む。
こっちの方がましだ。だってこっちの方が、よっぽど自然なんだもん。
「柏木……!」
うるさいなあ。
「おい聞いてるのか? 柏木!」
聞いてねえよ。ループもののアニメみたいに何度も同じ言葉を繰り返すだけの顧問の説教なんて。これって何周目ですか? つってね。あーおもしろ。
「聞いてますけど」
ループの循環どおりに、私も同じことを繰り返す。
「あのなあ、柏木。何度も言うが、人と人の繋がりってやつは切っても離せないものなんだ。チームメイトにもそんな態度のままじゃ、おまえいつか社会に出たときにやっていけなくなるぞ?」
このおっさんの言う社会とはどこのことだろう。もし、さすがにありえないと思うけど。もしも学校の外の世界を指しているなら笑っちゃう。私が見るだろう社会はあなたのとは違うんです。どうして自分は全て分かっているみたいな顔で語ってしまうのかしら。
そんなんだから、社会を知らない人間が社会を説くな。なんて身も蓋もない戯言を言われるんだ。
「いいか? 俺はおまえのためを思って言ってるんだぞ?」
はいでました。ずるいよね。その便利な言葉って。まるで子供が泥団子を親にプレゼントするような無邪気な良心。それを無下にした側が悪となってしまう必殺技。自分が正しい。そう思いこんでいる頭でっかちにしか使えない台詞。
「あの、もういいですか?」
「おまえ……!」
2秒睨み合ってから、顧問は大きな鼻の穴から息を抜いた。このパターンはルートC。一番楽勝なやつ。ラッキー!
「今日はこのへんにしておく」
私は何も言わず立ち上がると、スクールバックを背負い、さらに部活用のバックを肩にかけた。部活用の黒いバックの方が、何倍も思い。
矛盾。私がソフトボールをしているという矛盾。
「今日の柏木さんの担当って誰だっけ?」
「昨日はうちがやったよー」
「げっ! じゃあ私じゃん!」
「うわ。いまの顔ちょーうけんだけど」
「それおもった!」
けらけらと笑う声がドアの向こう側から漏れ聞こえる。この馬鹿どもは部室の壁の薄さを理解していないらしい。こんなとき、ふつうの女の子なら引き返すのかしら。でも私はドアを開けちゃう。なんなら、いつもより勢いよくね。
しんと静まり返った部室で、ロッカーに荷物を詰め込んで、ユニフォームに着替えていく。
あれあれ。どうしたのかな? 黙っちゃって。ほら。さっきの会話続けなよ。私はへっちゃらだから。顧問に言いつけたりなんてしないから。さっきまであんなに大声で話してたんだからさ、私にも聞こえてたに決まってんじゃん。変わんないよ? ここで私を笑うのも、うすい壁を挟んで笑うのも。
ジロジロと私の顔色を窺う目線が気持ち悪い。
聞こえてなかったよね? セーフ? とか思ってるんだろうか。だとしたら、そのおめでたい頭を『ハレルヤコーラス』で称えよう。自分の声のでかさなんて、今まで何も考えずにのうのうと生きてきたんだろうな。それはさぞかし幸せなことじゃないか。
私が着替え終わったあとも、部室は静まり返ったままだった。なにも言ってこない。
だっせーの。
「今日はだれ?」
部屋の中心に向かって雑に言葉を放り投げると、馬鹿どもの視線は一点に集まっていく。
「あ、わたし……」
「そっ」
行こっか。と私は背中で語りながら、部室を出た。とたとた、と重そうな足取りが後ろに続く。
なに自分だけが不幸みたいな顔してんだか。言っとくけど、私だって嫌なんだから。ノーセンキューだから。文句は全部あの糞顧問に行ってくださいよっと。いやマジで。
キャッチボールの時間にひとりで壁当てをしていた私をみかねたのか、顧問はありがた迷惑な制度を導入した。
毎日交代制で私のキャッチボールの相手をすること。
なにそれ罰ゲームですか? あ、もちろん私にとってもね。
チーム一丸を勝手に部のスローガンに掲げたあのバカ顧問は、チームの輪の中心に無理やり私をはめ込もうとする。
おかげさまで見栄えはよくなりましたよ。外面の見栄えだけね。地球のような美しい円の中心で、私だけが歪に、ぽっかりと浮いているという事実は、円を構成する私たちだけにしか分からなくなった。それだけなんですけどね。
これが今の社会の正解らしい。これがテストに出る問題だったら、私は一生答えにたどり着かない。よかった、よかった。テストにならなくて。はーあ、ふざけてる。
ナイボール。ナイキャッチ。
空っぽの掛け声がボールと一緒に飛び交う。
私の投げたボールはグラブに吸い込まれて、スパン、と空気の塊を潰したような、ミクロな粒子が弾け飛んでいくような音が鳴る。
この音が好き。静かな空間で、この音だけを聞いていたい。壁に当てたら、もっといい音が鳴る。
ナイボール。ナイキャッチ。
邪魔な声が飛び交う。言わないと顧問が口うるさく怒るからみんな言ってるだけだよね? いらなくない? どう考えてもさ。この掛け声が必要な理由を顧問が鼻の穴を膨らませながら語っていたこともあるような気がするけど、私の脳に到達する前に鼓膜のところで全部弾かれちゃったから、正直なんも覚えてないんだよなあ。
私がソフトボールを始めたきっかけ、それはお姉ちゃんがやっていたからというありきたりな理由でしかなかった。ソフトボールをしているお姉ちゃんの目は輝いていたから、私もあんなふうに目をキラッとさせたいと思ってしまったんだ。
去年の夏。お姉ちゃんが引退したとき、私も一緒に辞めればよかったのかも。なんて、ふと思う。けっこー頻繁に。
お姉ちゃんがまだ部活にいた頃は、お姉ちゃんがキャッチボールの相手をしてくれた。私とチームメイトの仲も器用に取り持ってくれて、ぎりぎりで私が浮くこともなかった。
「柏木!」
バックネット裏から声が飛んできた。そこには仁王立ちで練習を眺める顧問がいる。
「ちゃんと声出せ!」
チッ。またかよ。
「会話のキャッチボールもちゃんとしろ! いつもそう言ってるだろ!」
「はあい」
「返事の声もでかくだ!」
うっざ。
「はい!」
「いいぞお。その調子だ。やればおまえは出来るんだから!」
ぶたゴリラめ。あの贅沢に膨らんだ腹にドロップキックでも一発かましてやろうか。
周りの部員らが、いっせいにグラブで口元を隠し始めた。目は爪楊枝みたいに細くなり、ニタニタと笑っているのが分かる。気持ちよさそうにしてんなあ。私が怒られるのを見れて。ほんといい性格してるよな。こいつらも。わたしも。
矛盾。私がまだ、ソフトボールを続けているという矛盾。
空に漂う昼間の余韻までもが、ゆっくりと暗闇に浸食されていく。部活が終わると、私は一目散に着替えて部室をあとにした。正門をくぐった瞬間に、ようやく私は解放される。学校という、けっして大きくもない単位で構成された社会から。
私が歩みを速くするほどに、ぐんぐんと学校は遠ざかっていく。そして、すぐに見えなくなると「やっぱりちっぽけじゃんかよ」と吐き捨てるように悪態をついてやった。
線路沿いの真っ直ぐに伸びる道に出ると、つい走りたくなる。その気になれば簡単に乗り越えられちゃうフェンスの向こう側で、私を追い抜いていく電車と同じ速度で走って、走って、『時をかける少女』みたいに時空さえも超えちゃって、一年後の世界にスキップできたらいいのにな。そしたら、もうこんなちっぽけなしがらみに囚われなくていい。あ、でもあれだと過去に戻るからダメじゃね? やっぱなしで。
「おかえり。妹よ」
「ただいま……」
家につくと、リビングでお姉ちゃんが迎えた。そこで私の鼻腔をくすぐったのはなれなれしく、特徴的な香辛料の匂い。
「今日はカレー?」
「残念! 今日と明日もカレー、が正解!」
「なにそれめんどくさ。先にシャワー入ってくる」
「うい! おつかれー!」
だいたい私が帰る時間にはお姉ちゃんしか家にいない。両親は共働きで帰りが遅いから、晩御飯はたいていお姉ちゃんが作ることになっている。お姉ちゃんの帰りが遅いときや、私の部活が休みのときは私が作ることもあるけど、お姉ちゃんほど上手くないから、正直言ってあんまりやりたくない。
シャワーを浴びてから部屋着に着替えた。わたしの私服のほとんどはお姉ちゃんからのお下がりだ。年々傾向が変わっていく服たちを鏡で見ると、お姉ちゃんが女性として洗練されていく過程を追いかけている気持ちになる。まるでドキュメンタリー映画みたいじゃね? てなる。
リビングに向かうと、テーブルにカレーが用意されていた。ご丁寧にグラスに水まで注がれている。
私が席に着くと、対面に座るお姉ちゃんは直前まで視聴していたタブレットの動画を止めて「いただきまーす」とスプーンを握る。
「ねえ聞いてよー。今日さ、大学でサークルの先輩がさー――」
と私の知らない世界の話をする。お姉ちゃんは大学でダンスサークルに入ったそうだ。ソフトボールじゃないんかい。て最初は思ったけど、実は心のどこかでそうなる気もしてた。
お姉ちゃんはどんな社会にも溶け込むのが上手い。正確に言うと、溶け込もうとする必要すらない。価値観とか、思想とか、嗜好とか、性癖とか、とりあえずいろんな全てのものにおいて多数派に属しているから。それってつまり、生きづらさとは無縁の人生を歩んでいるってこと。『普通の女の子』の天才。それがお姉ちゃんだ。
協調性が皆無なわたしと正反対の人間。
姉妹なのに、同じ子宮からオギャーって産まれたのに、どうしてこんなにも私と違うんだろう。生命って神秘だよなあ。ほんといい加減にせえよな。
「あんたは最近どうなの?」
話の主導権が私に移った。
「いつもどおりかな」
とその主導権をへし折った。
「そっかー。もうすぐ大会でしょ?」
「うん。来月だね」
「うわっ。緊張するじゃん!」
「別にしないかな」
あんたらしいわー! とお姉ちゃんは笑う。
「それにしても意外だったなー。私が引退したあとも、あんたが部活を一年も続けるなんて」
意外。そう思ってたんだ。お姉ちゃんも。
「でもやっぱり、あんたにはソフトボールの才能があるんだからさ。これからも続けなよ」
ずん。と何かが背中に乗っかった。それは、これまで一年かけて膨らんできた。大きな大きな、なにか。どうしてソフトボールなんだろう。この世にひとりでできるスポーツなんていくらでもあるだろうに。どうして。
矛盾。私にソフトボールの才能があるという矛盾。
「柏木。昨日は部室の鍵を閉め忘れたんだってな?」
「は?」
またいつもみたいに教室に呼び出したと思ったら、急に何を言ってんだか。このマヌケ顧問は。
「嘘は通用しないぞ? 他のやつらから聞いてるからな。おまえが最後まで残っているのを見たってな」
ははーん。ピンときた。部の決まりで部室の戸締りは最後に残った人がすることになっている。おおかた鍵を閉め忘れた誰かが責任逃れに私を利用したってところか。それで他のメンバーも口裏を合わせていると。
こんな程度の低い嘘すら見抜けないのか。このあんぽんたんは。
「違いますけど。私じゃないです」
いいか? と駄々をこねる子供をあやすような目が私に向けられる。
「信用を無くすのは簡単だが、取り戻すのは大変なんだぞ?」
あー、イライラする。見当違いな推測をしたうえに、どっかのショート動画で流れてそうな借り物の言葉を利用しやがって。どうせ聞きかじっただけですよね? その言葉。だってあなたの半分も生きてない私でも言うだけはできちゃうんだから。
ていうか、まだ信用ある前提なんだ。これで? うけるんだけど。
「謝るつもりはないんだな?」
「だって私じゃないし」
みんながそうと言ったのだから、それが正しい。そんな社会の仕組みを、このおっさんはきっと何も問題なく生きてこれたんだろう。多数決で良し悪しを、善悪を決める。それは人間の社会で合理的だと思う。でも同時に非情でもあることに、こいつらは気づくことさえできないんだろうな。
顧問はハトみたいに胸を張って腕を組んだ。うわー、やだやだ。これはルートA、長い説教が始まる合図だ。
私は視線を落として、膝小僧に新しく誕生したばかりの非力なかさぶたを見つめた。
その日の部活が終わったあと、顧問はバックネットの傍に部員達を座らせた。わざとか知らないけど、やけに重々しく咳払いをする。これから何が行われるかなんて、その手に持っている数字の書かれた布を見れば分かるのだから、さっさと進行してくれない?
ピリッと緊張した空気を周囲から感じる。どうでもいいから早く終わらせろよ。なんて思ってるのはどうやら私だけらしい。
顧問は長々としょうもないことを語ったあとに、ようやくゼッケンを一枚めくった。
「1番。柏木」
私は立ち上がると、流れ作業のようにゼッケンを受け取った。
「いろいろ厳しいことも言ったが、おまえには期待しているからな」
うぜえ。と思いながら元の位置に戻った。
気持ち悪い視線を周囲から感じる。どうしておまえが1番なんだ。そう言いたげな視線を。毎度のとおりだけど、どうしてこうなるのかね。実力を考えれば、私がエースになるのは当然なのにさ。
顧問は全てのゼッケンを配り終えると「明日の練習試合は大会と同じメンバーで挑む。以上。解散!」と告げて、どこかへ消えていった。
私は1番のゼッケンを握りながら立ち上がると、部室へと歩いた。
「怪我しろ」
たしかに聞こえた。後ろから。
振り返るが、みんな不自然なくらいに平然としていた。まるでカルピスを薄めるみたいに、つい零れ落ちてしまった悪意を日常の中に溶かす。見事な連携力でカモフラージュする。なにこれ。すごいじゃん。これがチーム一丸ってやつ? おめでとうございます顧問。あなたが勝手に決めたスローガンはここに体現されましたよ。
ふざけんな。
私は早足で部室に戻った。着替えて、部室を出ると、鍵でドアを閉めてから、その鍵を真下に叩きつけた。正門を抜けると、走った。走って、走って、振り返った。校舎は見えなくなった。
ふざけんな。ふざけんな。
あーあ、スマホのアプリみたいにさ、むかつく人間をみんな、わたしの人生からアンインストールできたらいいのにな。あいつとあいつを消して、それとあいつとあいつも、それとそれと……。うわっいそがし! 思ったよりも大変だわ、これ。あ、そうじゃん。わたしを消したらいちばん楽じゃね? わお天才!
ふざけんな。ふざけんな。ふざけんな。
線路沿いに、真っ直ぐに伸びる道。電車が背中からやってくる。
私の真横を、通る。
「ああああああああああ!」
さけんだ。なるべく声を低くして、電車の音と重なるように。電車が私を通り過ぎていくまでずっと、さけび続けた。
電車が去っていくと、ピタっとさけぶのをやめて、いつもどおりに歩く。まあ落ち着けって、わたし。分かってた、分かってた。しょせん人生ってこんなもんじゃん?
そういえば今晩もカレーだっけか。そんなにカレー好きじゃないんだけどなあ。どうしてみんな好きなんだろう。あんなものが。
翌日。部員が円を囲む中心で、顧問がスターティングメンバ―を粛々と告げていく。4番、ピッチャー、柏木。その単語だけを耳に入れると、あとは適当に聞き流した。
どうしてまだ、私はこの円の中にいるんだろう。ソフトボールをしなきゃいけない理由なんてないのに。才能があったから? お姉ちゃんが続けろと言ったから? 辞めたら逃げたみたいで悔しいから? どれ?
どれでもいいか。なんか考えるのめんどくさくなってきたし。
試合は投手戦になった。スコアボードには0が並ぶ。
投げたボールがキャッチャーミットに吸い込まれる度に気持ちのいい音が鳴る。バットは空を切り裂き、相手バッターは悔しそうな顔を見せる。いいね、その顔もっと見せてよ。基本的にピッチャーは退屈じゃなくていい。外野守備なんてやってたら退屈すぎて今ごろ寝てたわ。間違いなくね。
相手バッターは腰を引き、バットを水平に寝かせた。えー、セーフティバントかよ。空振りの方が気持ちいいのに。ボールはバットに当たると地面に落ちることなく、ふわりと宙に浮いて返ってきた。いやいや失敗するんかい。いちばんないわー。
ボールを追いかけてグラブを出すと、別のグラブが視界に入った。え? と思ったときには誰かと衝突していた。
地面に転がったあとにグラブの中を見つめた。大丈夫。ボールは離してない。さすが私だ。立ち上がって振り返ると、倒れているチームメイトがいた。どうやらサードとぶつかってしまったらしい。たしかにちょうど中間に落ちるフライだったけどさ、私の後ろからやってきて、前にいた私が見えなかったなんてことある? 視野狭すぎじゃない?
チームメイトがサードの子に駆け寄ってきて「大丈夫?」と声をかけている。おおげさだっつーの。あのくらいでさ。
「声出さんからだあ!」
突然大きな声がグラウンドに響いた。
「声かけしろといつも言ってるだろ!」
ここぞとばかりに顧問は鼻を大きく膨らます。はいはい分かりましたよ。たしかにああいうときは声かけ大事でした。はんせーはんせー。でもキャッチボールのときはいらないよね? 絶対。
サードの子が立ち上がると、みんな守備位置に戻っていく。
「おまえは立つなよ」
は?
私の横を通り過ぎていく影に混じって誰かが言った。その声は他のかけ声に混じって消えていく。零れた悪意が円の中で溶けていく。グラウンドを見渡した。チームが一丸となってわたしを指差して『おまえは異物だ』と言っている。はたからみたらそう見えていないのが不思議なくらいだ。
怪我しろ。
その言葉も蜃気楼のように現れては消えていく。
やっぱりおかしいよな。あの位置の捕球でサードとぶつかるなんて。なんだ、そーいうことね。やってくれるじゃん。きのう部室の鍵を閉めてやったことが相当ご立腹のようじゃん。ついにここまでやるようになるなんてね。
ふーん。そっかそっか。むかつく。
ふざけんな。ふざけんな。ふざけんな。ふざけんな。ふざけんな。
攻守交替すると、私はバッターボックスに立った。
憂さ晴らしに、ベンチにファールボールを思いっきり打ってビビらせてやろうか。なんてね冗談。さすがの私でもそんな危ないことはしな――。
ぎり攻めのインコース。絶好のボール、来ちゃった。
あ。気づけばバットを振っていた。ボールは勢いよくサードベンチに向かっていき、ひとりの子の顔面にぶつかった。そいつは鼻から血を流しながら顔を手でおおった。私はその様子をしばらく眺めたあと、なにくわぬ顔でバットを構え直した。審判も動揺はしていたが試合の続行を優先させた。
あーあ。やっちゃったな。このあとすっごく面倒なことになるんだろうな。みんなが私に謝れって言って、でも私はみんなが先に謝れって言って、そしたら顧問はみんなの側について、私が一方的に悪いみたいな感じになって、それからどうなるんだろう。うわあ、考えるだけでだるいなあ。全部どうでもよくなってきたなあ。ていうかあのくらい避けろよな。反射神経ザコすぎだろ。顔面にボール当たって鼻血出すなんてギャグ漫画かっつーの。はは。なんだか笑えてきた。なんか知らんけど、体は軽くなったんだよなあ。これを気分が晴れたっていうのかな。かさぶたを剥がしたときよりも何十倍も気持ちいいなあ。
今だったら、どんな矛盾にだって真正面から向き合えそう。
私がソフトボールを続けている理由。考えるのがめんどい? ちがう。気づかないふりをしてるんだ。ソフトボールを辞めても、時空を超えて一年後にスキップしても、どうせ私はべつの社会で同じしがらみに囚われる。世界の外側なんてどこにもないという事実を気づかないようにしていただけなんだ。
世界は偽物の円で全部を囲ってしまった。個性という言葉ひとつで全てを受け入れたふりをする。全ての人間をすくいとろうとする。無理しちゃだめだよ。仲間外れは排除したくなるのが人の本能なんだからさ。わたしにはよく分かるよ。
矛盾。とっても大きな矛盾。
どんな社会も全ての人間に協調性を求めることを前提に構成されている。私は私として生まれた以上、生きづらいのは確定してるんだ。もうそれはいいよ。しかたない。だったらさ、生きづらいまま私を殺して生きるよりは、生きづらいまま私のまま生きてやる。こんな世界なんて糞くらえって顔しながら生きてやる。
謝れって言われたら「当ててやったんだよ」と中指を立てよう。そんで怒った顔をした顧問に「部活辞めます」と笑顔で言ってグラウンドを去ろう。なにそれ最高じゃん。そうしよう。ああ。とっても体が軽い。たぶん、人生で一番。
思いっきり、フルスイングした。バットは快音を響かせて、ボールは彼方へと飛んでいく。
行け。飛んでいけ。どこまでも。願わくは世界で一番、矛盾の少ないところまで。




