元日本人で記憶喪失の既婚者ヴァンパイアバディはかくりよに出奔する
ヴァンパイアの国の革命(改訂版)
薄紫色と橙色の境目が曖昧になる時間――逢魔が時。そんな夕空の下に建つ騎士団の白い建物の中から、鬱屈した顔の青年が出て来た。
騎士団特有の白のスーツと黒のブーツ、青地のマントを靡かせながら歩いているのは、二十代前後の青年だった。
星の光を写したようなストレートの銀の短髪と端麗な顔立ちから、誰もが振り向くような美男子であるはずだが、怒りを堪えるかのように眉間に皺を寄せて、赤々しい目を細めている今の姿にそんな面影は無かった。
(あの上官……今度こそ許さん……)
ここが人目のある往来じゃなかったら、今にも叫んでいただろう。せめて居所の悪い腹の虫だけでも抑えようと、青年は歯を食い縛る。
青年の口から鋭利な牙が見えた途端、近くの通行人が顔を引き攣らせて身を引いたが、そんな様子に気付くことは無かった。
青年は足音高く、石畳の上を歩き続けたのであった。
「シオン!」
自分の名を呼ぶ声に、青年は足を止めると後ろを振り向く。夕暮れの中、家路を急ぐ人波より頭一つ分以上高い青年が、少し離れたところで手を振っていた。
青年も片手を上げて答えると、そのまま人を掻き分けるように長身の青年が近づいて来る。
青年と同じ青いマントを通行人にぶつけないように、それでも早く青年の元に辿り着こうとする姿に自然と頬の筋肉が緩む。
怒りで煮えたぎっていた頭が冷め、心が平静を取り戻すと、ようやく青年は居所の悪い腹の虫を追い出せたのであった。
「リカンか」
シオンと同じ騎士団の格好に、くせ毛気味の銀の短髪を後ろに流した同年代の青年――リカンは低すぎないテノールボイスを尖らせたのであった。
「いつになく機嫌が悪いな。追いつくのに苦労したぞ」
シオンが心を許せる数少ない親友は苦笑と共に肩をすぼめたので、シオンも意地悪く返す。
「そういうお前こそ珍しいな。こんな早い時間に仕事を終えるなんて。まだ夕陽が空に残っているじゃないか」
「おいおい……。普段は仕事が出来ない奴、みたいな言い方をするな。あとそのセリフは、さっきおれが騎士団の中で掛けただろう」
その言葉にシオンは騎士団を出るまでを振り返る。言われてみれば、誰かに声を掛けられたような気もしたが、怒りが沸点に達していたこともあってそんな余裕はなかった。
「そうだったのか? すまない。考え事をしていたから全く気が付かなかった」
「そうだろうな。今日のお前は眉間にこんなに深い皺を寄せていたぞ」
リカンは先程までのシオンの真似すると眉間に深い皺を刻む。シオンより身長が高いこともあって、それだけでも迫力があった。
「……そこまで深刻そうな顔はしていないだろう」
「してたよ。お前が気がついていないだけでさ……。で、何があったんだ。俺に話してみろ。解決できるかどうかは別として、気持ちは軽くかもしれない」
「そうだな……」
二人は並んで歩き出すと、近くを走る車や馬車に負けないように声量を上げる。
「俺の上官がまた『混血』の部下に暴力を振るった。自分の仕事が上手くいかなくて機嫌が悪いからと、ただそれだけの理由で……」
「お前の上官って、あの先祖代々お貴族様っていうあのいけすかない奴だろう。……ったく、ほんと懲りないのな」
額を押さえて呆れたように溜め息をつくリカンに、シオンも小さく頷く。
リカンの言う通り、シオンの上官は「貴族」と呼ばれている生まれながらのヴァンパイア――純血と呼ばれる生粋のヴァンパイアであった。
彼らはシオンたちが住むヴァンパイアの国の礎を作ったとされる祖先を持つ一族と言われており、ヴァンパイアの王から与えられた爵位と生活に困らない莫大な資産を持っていた。
富裕層が住む城下町で大勢の「混血」の使用人に囲まれて悠々と暮らし、何の苦労も無く先祖から譲り受けた要職に就き、「混血」の部下たちを使い捨ての道具のように使っていたのだった。
人間を始めとする他の種族の血が一切流れていないことを誇りとし、ヴァンパイアこそこの世の全てだと思っているような集団であった。
対して、シオンやリカンたちのように貴族によって他の種族からヴァンパイアになった者たちは「混血」と呼ばれていた。
貴族たちが吸血した際、本来なら失血死するまで吸われるはずが運良く一命を取り留めた際に、貴族の体液が体内に残っているとまれにヴァンパイアに転化する。
貴族より力は劣るものの、自身の血を吸った貴族の力を半分受け継ぐ同じ存在――ヴァンパイアとなるのだった。
混血たちは貴族のヴァンパイアたちが造った国に住むことを許されるものの、貴族とは違って要職にはつけず、騎士団の下っ端や役人の使い走りとして働き、時には暴力や暴言に晒されて虐げられる存在でしかなかった。
贅沢三昧な生活を送れず、下町で慎ましやかな暮らしを送る混血たちは、貴族たちが制定した理不尽な法律と不平等な税率で縛られ、それらが守れなければゴミのように扱われていた。
貴族たちは混血たちを見下し、またそんな貴族たちに混血たちは不信感を抱いていた。
ヴァンパイアによる王国が築かれて数百年が経ち、その溝は深くなるばかりであった。
「その殴られた部下っていうのが、俺の直属の部下なんだ。それでつい頭に血が上ってな……」
「まさか、上官を殴ったのか!?」
シオンよりも濃い色をした赤い瞳を見開いたリカンに、シオンは首を振って否定する。
「そんなことをしたら俺まで上官と同じになるだろう。拳を握りしめて耐えたんだ。耐えたんだが……」
その時のことを思い出して、シオンは拳を握りしめる。
「とにかく部下を引き離さなければならないと、二人の間に入ったんだ。その時、間の悪いことに上官の拳と我慢の限界に達した部下の拳が同時に飛んできた。そうしたら……このざまだよ」
シオンが首元を緩めて襟をはだけさせると、両頬の下から首元に掛けて治りかけの打撲痕が左右合わせて二箇所あった。
傷痕を見たリカンは「うわぁ……」と言葉を失った。
「顔に当たらなくて良かったな。綺麗な顔が台無しだ」
「綺麗かどうかは別として、顔への直撃は避けたからな。……ヴァンパイアだからこの程度の傷で済んだが、人間だったら間違いなく首の骨が折れていた。今頃ここにいなかったぞ」
殴られた時は骨に違和感があったが、ヴァンパイアの高い治癒力のおかげなのか、仕事を終える頃には傷痕が多少痛むだけとなっていた。
「お前の怪我について、当の二人は何か言ったのか?」
「部下は平謝りしていたな。まさか俺が間に入ると思わなかったからな。怪我については黙っているように言った。こんなことで貴重な部下を失いたくない。俺もお前以外に話すつもりはない」
偶然とはいえシオンを殴った時点でこの部下は懲罰ものだが、上官を殴りたくなる部下の気持ちもよく分かるので、この怪我については他言無用を約束させると、シオンも責任を問わないことにしたのだった。
「肝心の上官は?」
「反省の余地なし。俺を殴ったことについても何も無し。ただ俺を殴って満足したのか、機嫌は直ったな」
「その代わりに、お前の機嫌は悪くなったと?」
「……そうだな」
「……いっそのこと、お前も部下を止める振りをして、上官を殴った方が良かったんじゃないか?」
冗談なのか本気なのか分からないリカンの言葉にシオンは苦笑する。
「そうしたら怪我の数が倍になっていただろう。これ以上怪我を増やしたら、今度こそ命に関わる」
今日の上官はシオンを殴った一発で満足してくれたが、そうじゃなかったらシオンは部下の責任を追及されるところだった。蜂の巣になるまで殴られて、今度こそ命が危ぶまれることだろう。
仮に無事だったとしても、負い目を感じる部下の手前、痛がる素振りを見せられず、倒れることも出来ない。当然仕事も休めないので、怪我が悪化するのも覚悟の上で、出仕しなければならなかっただろう。
「だがこの程度の怪我なら、明日の朝までには完治する。気持ちは別としてな」
「じゃあ、今晩中にその傷痕と合わせて機嫌も直すんだな。どうだ、うちで一杯呑むのは?」
「良い案だな。それなら、一度家に戻って……」
遠くを見ながらリカンが急に足を止めると釣られてシオンも止まる。同じ方向に目線を向けると掲示板の前に人だかりが出来ていたのだった。
「何だあれは……?」
「何か新しいお触れでも出したのか? お貴族様たちは」
「リカンは何か聞いているか?」
「いや、何も……。行ってみるか?」
「そうだな。嫌な予感がする」
「いつも嫌な予感しかしないさ。お貴族様たちの思い付きとその日の気分で制定される法と税にはな」
二人は掲示板に向かうと、人垣の後ろから新たに貼られた御触書を見る。普段は誰も寄り付かず、それでもある日突然、政治を司る貴族たちで成り立つ貴族院が混血たちに不条理な法や税制度を発付した時に御触書が貼り出されるだけの掲示板。そんな掲示板を食い入るように見つめる混血を中心に怒りと困惑の渦が起きていたのだった。
「一体どうなっているんだ!? 混血院を解散!? 騎士団や政治の中心部に居る混血たちを全員地方に転属!? 更には混血に対する税率を四割上げるだと!?」
「それだけじゃないぞ。早朝以外の混血の外出を禁止。娯楽施設や商業施設、図書館や博物館への立ち入り禁止、指定した学校以外への入学も不可とするだとよ!」
「何を考えているんだ。貴族の奴ら……」
そんな混血たちの嘆きを聞きながら、シオンは御触書を何度も読む。
「どうやら、今回は相当ヤバい法律を制定したらしいな」
「そんな悠長なことを言っている場合じゃないだろう。リカン、一度騎士団に戻らないか? 騎士団の人事にも動きがあったかもしれない」
「同感だ。急ごう、シオン!」
二人は踵を返すと騎士団まで駆け出す。やはりと言えばいいのか、騎士団の入り口にある掲示板にも同じ御触書が貼られており、混血の騎士たちが動揺していたのであった。
先程の掲示板との違いは、御触書の隣に騎士団の転属一覧が貼られていたところだろう。騎士たちの狼狽は御触書よりも転属によるものが大きかった。
「嘘だろう……!? バールスト卿が辺境の砦に転属!? モルト卿も!?」
「混血たちの英雄が悉く城下を離れるのか!?」
「いや、英雄たちに限らない。オレたちの名前もあるぞ! 貴族たちは城下から混血を全て追い出そうとしているのか……?」
騎士たちのどよめきを聞きながらシオンも自分の名前を探す。自分で見つけるより先に傍らのリカンから「あったぞ」と低い声で教えられたのだった。
「お前とおれの名前を見つけた……どうやらおれたちも例外じゃないらしいな」
リカンの指が示す先を見れば、転属者の中にシオン・ヤマト、リカン・ヤマトの名前が並んで書かれていた。
こういう時、姓が同じだと探すのが楽で良いと、場違いなことを考えてしまう。
「俺が国外に住むヴァンパイアたちを相手にする治安部隊、リカンが西方の砦か」
「治安部隊なんて体良く言っているが、ほとんどはヴァンパイア化した混血の保護や、人間たちを襲うヴァンパイアたちの始末だろう。汚れ仕事も良いところだな」
治安部隊と格好つけた名前ではあるが、実際のところはリカンが言ったように貴族たちがやりたがらない汚れ仕事を請け負う部隊である。
貴族に血を吸われてヴァンパイア化したばかりの混血は、自我を忘れていることが多い。これまで感じたことがない喉の渇きを潤そうと、手当たり次第に人間や生き物たちを襲っていく。
混血に血を吸われただけならヴァンパイア化はしないが、加減を知らない分、致死量まで血を吸い尽くしてしまう。
そうなる前に混血のヴァンパイアを保護、場合によっては始末するのが、治安部隊の仕事であった。
他のヴァンパイアたちからは「同族殺し」と罵られるため、進んで治安部隊に所属を希望する者はほとんどいない。
「昼間の意趣返しかな」
「シオン……」
「お前が気にすることじゃない。そうだ。転属になるなら、サラとレイラはどうする。一緒に連れて行くのか?」
「そのことなんだが……。いや、やっぱりうちに来ないか。一杯くらい呑んでいけ」
それだけ言って背を向けたリカンから、ここでは話しづらい内容なのだとシオンは察する。騎士団の家族官舎に向かうリカンに続くように、シオンも転属一覧から離れたのだった。
騎士団から少し離れたところに建つ、混血の騎士たちの家族が住む官舎に着く頃には、空はすっかり薄墨色に変わっていた。
いつもなら帰宅した家族を出迎える声で賑やかになる官舎の中も、急に発布された御触書の話題で騒然としていたのだった。
「ただいま。サラ」
「お帰りなさい! リカン、シオン様も……」
リカンの部屋の玄関を開けると、今にも泣き出しそうな顔で乳児を腕に抱いた出迎えてくれた。
絹のようにさらりとした肩までの銀髪と柘榴のような赤い目の若い女性は、リカンの胸の中に飛び込んだのであった。
「リカン、御触書の話を聞いたの。それから、転属の話も……。官舎の中はその話で持ちきりなの」
「サラ。ごめんな。不安にさせて」
「いいえ! 私とレイラはリカンと共に行くわ。どこまでだって。それが不吉と噂の西の砦でも、どこでも……」
「知っていたんだな。西の砦の噂」
呟くようなリカンの言葉にサラはレイラを強く抱きしめながら小さく頷く。
「リカンが西の砦に転属になったことを教えてくれた奥様が言っていたの。各方面に建つ砦の中でも、西の砦は最も険しい崖の上にあって、毎年原因不明の不審死が続いているって。私、心配なのよ。リカンの身に何かあったらって……。それを考えただけで、今から胸がはち切れそうになるの……」
サラが話すように、東西南北に位置する四つの砦の内、険しい崖の上に聳え立つ西の砦では、毎年不審な死が続いていた。
初年度は砦からの転落死。しかしこれは岸壁に建つ西の砦では珍しいことではなかったので、事故として扱われた。
問題は次の年から相次ぐ謎の死。ある年はベッドの上で、またある年は武器庫で無数の武器に串刺しの状態で発見され、別の年は巡回中に行方不明になり、数日後に木から首を吊って縊死していた。
自然死や事故死、または自死の可能性はなく、亡くなった者たちに関係性や共通点も無かった。第三者による犯行とも言われたが、未だに犯人は特定されていなかった。
最初に転落死した者の呪いとも、同族殺しに快感を覚える愉快犯の犯行とも言われているが、真相は定かではない。
それでも不可思議な無差別な死が続いたことで、西の砦からの転属希望者や転属を拒否する者が増え、人員不足に陥っていたのであった。
そんな人員不足の際に真っ先に補充されるのは貴族たちから捨て駒のように扱われる混血の騎士たちであり、混血の騎士たちは自分が選ばれないように、ただただ祈ることしか出来ずにいた。
「サラは心配性だな。そんなのは偶然だよ。理由の無い死なんて、そうそうないんだから」
「でも……」
「それより、シオンと一杯呑みながら話したいんだ。用意してくれないか?」
愛妻の腕の中で、寝息を立てる愛娘の頭を愛おしそうに撫でながらリカンは頼む。
「……分かったわ。先にレイラを寝かせてもいい? 今日は官舎内が騒がしかったこともあって、なかなか落ち着いてくれなかったの」
「ああ。もちろん」
サラは顔を上げて深く頷くと、レイラを寝かせに行く。その間にシオンたちは部屋に入ると、リビング内のソファーに並んで座ったのだった。
マントを外し、襟元を緩めながら、リカンが口を開く。
「今夜はどこに行っても落ち着かないな」
「仕方ない。あんな御触書と転属一覧が出たんだ。混血たちを国から追い出そうとするような……」
傍らから物音が聞こえてきてシオンが振り返ると、ソファーからリカンが立ち上がったところだった。そのまま壁際に備え付けの戸棚を開けると、祝い事以外では口にしない、高価なウイスキーを取り出したのだった。
「それ……」
「久しぶりにこれを飲まないか」
「特別な時に開けるやつだろう。いいのか?」
「いいさ。次はいつお前と飲めるか分からないからな」
リカンがグラスを用意していると、レイラを寝かせたサラがやって来る。リカンが持ったトレーにサラが氷を入れたグラス二個とアイスペールを載せる。二、三言葉を交わすと、二人は仲睦まじく戻ってきたのだった。
「お待たせ」
「お待たせしました」
「ありがとう」
「リカン、シオン様。私は先に休ませていただきますね。なんだか今日は疲れてしまって……」
「大丈夫か、サラ」
「大丈夫よ、貴方はシオン様をもてなしてさしあげて。シオン様もゆっくり過ごしていただいて構いませんが、今日はあまり遅くならない内に部屋に戻って下さいね。きっとエンジュさんも不安になっているはずですから」
「分かった。エンジュのことまで気遣いありがとう。だがあいつは気にしていないだろうさ。今回の御触書は関係ないんだから」
どこか寂しそうな微笑を残して、サラが奥の自室に戻ると、すぐにリカンはウイスキーのボトルを開栓する。グラスに注がれる琥珀色の液体を見つめながら、シオンは最後にこのボトルを開けた時を思い返す。
前回ウイスキーを開けた時は、レイラが生まれた時だった。
サラが入院している病院から泣き腫らしたリカンを連れて帰宅すると、まだ感涙にむせぶ親友を宥めながらウイスキーを用意した。
元気に生まれてきたレイラ、出産を無事に終えたサラ、そして父親になったリカン。
何もかもが初めての中、家族の誕生という大きなイベントを達成したリカン一家を共に祝福したのだった。
次にこのウイスキーを開けるのは、リカンたちに二人目が生まれる時か、それともシオンたちに子供が生まれる時かと、そんな他愛のない話をしながら――。
リカンからグラスを受け取って、しばらく琥珀色の液体を眺めていると、グラスに口を付けたリカンが話し出す。
「今日の御触書のことだけどさ……。貴族たちの政策が変わった以上、これから先、ますます混血に対する扱いは酷くなると思うんだ」
国の中枢である政治だけではなく、守備や生活など、まるで国そのものから混血を追い出そうとするかのような新しい政策。
貴族たちからも一目置かれていた混血たちの英雄的存在であるバールスト卿やモルト卿など、これまで幾つもの武勲を立てて国に貢献した混血の騎士たちでさえ、今回の御触書では国の中心部から遠ざけられて、底辺で働く他の混血たちと同等に扱われている。
貴族は有利で混血は不利、というこれまで以上に貴族を優遇するようなあからさまな国の方針は、今日までギリギリのところで保たれていた貴族と混血たちの関係性を悪化させてもおかしくなかった。
混血たちによる暴動、または反乱が起きる日もそう遠くない。
「そうだな……」
「今はまだ良い。だがこの先はどうなるか分からない。もし他国との戦争になったら、おれたちは真っ先に戦場に連れて行かれるだろう。本来なら人間として死ぬはずだったが、貴族たちの慈悲と善意によって、畏れ多くもヴァンパイアというモンスターたちの頂点に加わった卑しい存在だ。……貴族たちの教えによるとさ」
そこでウイスキーを一口飲むと、リカンは息を吐く。
「戦って傷ついても、急所さえ突かれない限り、何度でも蘇る。おれたちは不死身のヴァンパイアとして永遠を生きていられる」
「死という恐怖を取り除き、不老不死という贈り物を与えられた俺たち混血は、仲間に迎え入れてくれた貴族に敬意と感謝を捧げて、彼らに永久の忠誠を誓う。それが道理だと、これまで散々教えられたな」
ヴァンパイアに成り立ての頃、リカンと共に連れて行かれた教会で貴族のヴァンパイアがそんな話をしていたのを思い出す。
それが当然だと言うかのように、胸を張って朗々と演説する様に、リカン共々呆れ返ってしまったのだった。
「そしてその教えは、これまで以上に遵守されるだろう。戦場の最前線に行き、自ら盾となって貴族たちを守らなければならないと。そう教えられるんだ。何度も……。言い換えれば、洗脳されるんだ。国のため、安全な場所から高みの見物を決め込む貴族たちのために、戦って死ねと」
覚えがあるのか、グラスを握るリカンの手がわずかに震える。見られていることに気づいたリカンがグラスをテーブルに置いて隠そうとしたので、シオンはさりげなさを装って目を逸らす。
「だが、これがこの国の現状だ。この体制を変えるには国を簒奪するしかない。貴族たちから国の主導権を握るか……」
「あるいは、国を興すか……な」
「そうなる前に貴族たちによって制圧されるだろう。手っ取り早いのは、この国から移住することだ」
「当てはあるのか?」
「あるにはある。東にあって、現世と呼ばれる人間たちが住む世界から逃れたモンスターたちが住む国……かくりよだ」
「かくりよ、か。だがあの国は西洋系モンスターの移住以前に入国さえ禁止していたはずだ」
「おれたちがヴァンパイアになった頃はな……。だが今は違うらしい。数年前から西洋のモンスターたちの移住も受け入れるようになったと聞いた。あの国のモンスター……あやかしたちも、考えを改めたらしいな。おれたちがヴァンパイアになってすぐの頃、在住を希望した時は拒否されたものだが」
人間たちの時間で今から何十年も前。ヴァンパイアになったシオンとリカンが保護されたのは、かくりよの裏側にあると言われている人間たちが住まう国――日本であった。
二人がヴァンパイアになったばかりの頃は、人間たちが住む現世とあやかしたちが住むかくりよは行き来が盛んであった。しかし、あやかしが他のモンスターや異種族と交流することは禁止されていた。
当時は西洋などの外国からやって来るモンスターは、誰もが凶暴であやかしを喰い殺し、未知なる病を持ち込む危険な存在だと考えられていた。
例え、モンスターになる前は日本に住んでいた現地人で、保護された場所がかくりよと深い繋がりがある日本だとしても、モンスターという理由で在住どころか入国さえさせてもらえなかったのだった。
「レイラが生まれた頃からずっと考えていた。おれたちはこのまま貴族連中の顔色を伺いながら生きていくしかないのだろうかと。勿論、誰かの言うことにただ唯々諾々と従って生きていくのも悪くない。だけど、自分の子供にもそんな肩身が狭い生き方をさせたいかと聞かれるとそうじゃない。望んだかどうかは別として、おれたちはヴァンパイアにしてもらった側だから、貴族に従うのは仕方がないと思ってる。でも子供は違うだろう。混血側に生まれたからといって、貴族に従う必要はない。もっと自由に生きて欲しいと思ってしまうんだ……」
背中を丸めて、項垂れるようなリカンの姿にシオンは見入ってしまう。
出会った頃は考え方が自分とそっくりだと思っていた親友は、父親になって随分と変わったらしい。
このまま安全な国で貴族に従属する生き方ではなく、愛する子供のために国を捨て、新しい生き方を選ぶだけの覚悟を持っていたとは思わなかった。
「そんなことを考えていたんだな」
「レイラが生まれてからこの国や自分の生き方に対して、気づくことや思うことが増えただけだ。もしかしたら、前から思っていたことが表に出て来ただけかもしれないが……」
「それでも自ら思考を放棄しなかっただけまだマシだ。何も考えず、貴族に縋り付き、気に入られるためなら同じ混血さえ平気で害する……まるで家畜のような生き方をしている混血だっているんだ」
貴族のおこぼれを貰おうと、自らをヴァンパイアにした貴族に取り入ろうとする混血も多い。反対に、貴族たちに逆らおうとする者も。
そういった貴族と混血の衝突の緩衝材となるのも、シオンやリカンたち混血の騎士の役割だった。
「これも良い機会だと思うからはっきり言う。シオン、おれはサラとレイラを連れてかくりよに行く。お前も一緒に来ないか?」
「俺も?」
「ああ。ヴァンパイアになってからの幾年、おれたちは共にいた。同じ貴族の保護者に保護されたというのもあるが、おれたちは共通点が多い。お前のことは他人とは思えないんだ」
リカンに両肩を掴まれると、シオンと同じ真紅の瞳でじっと見つめられる。
「お前のことはずっと親友か兄弟か、それ以上の関係だと思っている。そんなお前にこれからも側にいて欲しい。危険を冒す旅になるかもしれない。それでもおれたちと一緒に来てくれないか?」
「リカン……。お前の気持ちは分かった。が、少し考えさせてくれ。俺にも家族が居るんだ。形だけの家族だが……」
「エンジュのことだろう。彼女のことはお前に任せる。連れて来るなとは言わない。おれたちはかくりよ行きの船のチケットが取れたらすぐに出発する。もし一緒に来てくれるなら……」
「分かってる。またな」
シオンは自分のグラスを空にするとテーブルに置いて立ち上がる。いつもなら玄関まで見送ってくれるリカンはいないが今夜は仕方がない。
そう自分に言い聞かせて、シオンは親友の家族部屋を後にしようとした時、リカンの呟きが耳を打ったのだった。
「これから先も共に行こうぜ。……相棒」
リカンと話している間に騒ぎは落ち着いたのか、官舎内は静まり返っていた。
シオンが住む部屋はリカンの部屋の一つ上の階なので、いつもなら階段で戻っているが、なんとなく今夜は早く帰りたくない気分だった。
シオンは階段を通り越してエレベーターフロアにやって来ると、エレベーターを待つことにしたのだった。
「かくりよか……」
エレベーターの到着を待ちながらシオンは独り言ちる。
「まさか、戻ることになるとはな……」
今日何度目になるか分からない深いため息を吐いた直後に、軽い音と共にエレベーターが到着する。誰もいないエレベーターに乗り込むと、シオンは一つ上の階のボタンを押したのだった。
シオンがヴァンパイアになったばかりの頃、行く当ても無ければ、誰がヴァンパイアに転化させたのかも分からず、ただ日本を彷徨っていた。
手当たり次第に動物を襲って生き血を啜って飢えを凌いでいたところ、現世に住むあやかしから通報を受けて、かくりよの治安を守るかくりよ警察に保護された。
そうして一度はかくりよに連れて行かれたものの、西洋系モンスターであるヴァンパイアであることからかくりよに住まうことを禁じられて、ヴァンパイアの国に送られた。その時にシオンと同時期に保護されて、共にヴァンパイアの国に行くことになったのがリカンであった。
当時からリカンはどこか明るく、面倒見が良かった。ヴァンパイアになったからといって悲観するのではなく、ヴァンパイアである身の上を楽しもうとしていた。同じ共通点を抱えていることもあって、二人はヴァンパイアの国に向かう道中で打ち解け合うと親密な関係になった。
ヴァンパイアの国に着いてからも、二人の後継人にして、保護者兼教育者となってくれた貴族の元で共に生活を始めた。
ヴァンパイアとしての生き方、国での暮らし方に慣れ、騎士として仕事を始めて生活の基盤が整ってくると、二人は貴族から独立して別々に暮らし始めた。
それでもお互いに相手の元を頻繁に行き来して、他愛のないことを話し、笑い合い、酒の肴とした。
三年前にリカンが仕事で保護した元人間のヴァンパイアの女性――サラと結婚し、半年前に二人の娘となるレイラが誕生してからは、会える時間が限られるようになった。だがレイラが生まれたのとほぼ同時期にシオンも結婚して、住まいを家族官舎に移してからは互いの家が近くなった分、通いやすくなった。
これからは今まで以上に会える機会や家族ぐるみの付き合いも増えるだろうと思っていた。
今回の御触書は、まさにその矢先の出来事であった。
「シオンさん」
エレベーターを降りたシオンが呼び止める声に振り向くと、隣部屋に住む若い騎士に声を掛けられた。
「どうした?」
「その……実はオレと一部の混血の騎士なんですが、この国を出て自分の故郷に移り住もうと思っているんです。あっちに住むモンスターたちが受け入れるかどうかは別として。やっぱり今回の貴族のやり方にはどうしても納得がいかなくて……」
騎士が指す「今回」というのが、御触書のことだと気づくとシオンは頷く。
「そうだな。さすがに今回の貴族もやり過ぎだと思う」
「それで、シオンさんはどうするのかと思って……。シオンさんは故郷に戻られますか? それとも転属にしたが……」
「まだ何も考えてないんだ。……故郷も無くてな」
何とも無いように言ったつもりだったが、騎士は言葉の意味に気づいたのか、何度も謝罪すると自分の家に戻ってしまった。一人残されたシオンは、きまりが悪い顔になると肩を竦めたのだった。
(故郷は滅びて存在しない、という意味に取られでもしたか……)
誤解を解くことも考えたが、反対に故郷について聞かれても答えられないので、そのまま放っておくことにして自分の家のドアを開ける。
「ただいま」
少ししてリビングルームから軽い足音が聞こえてくると、シオンと同年代の女性が出迎えてくれる。
「あ、お……」
腰まで伸ばした長い銀髪と目を隠すような野暮ったい前髪が特徴的な女性は、蚊が鳴くような小さな声でぼそぽそ話そうとするものの、言葉尻になるにつれて口を開閉するだけとなった。
シオンは眉を顰めると、深く息を吐きたくなるのをぐっと堪えて話しかける。
「変わりはなかったか。エンジュ」
怯えるように及び腰になっていた女性――エンジュは、シオンの言葉に何度も頷くと手を伸ばしてくる。恐らくシオンが身につけているマントを預かってくれようとしているのだろう。だが何も言わないので、シオンはわざとエンジュの手を避けると、マントを剥ぎ取るように乱暴に外す。
殺風景なリビングルームに行くと、全く使われた形跡の無い食器類や日用品、娯楽品の類が目に入り、次いでシオンの分だけ用意された夕食に、ますます顔を歪めたのだった。
「今日も一日中自分の部屋に籠っていたのか?」
「……」
「リビングルームに置いているものは共同で使っていいと言っている。食事も自分で用意するから必要ないと。君は君のことだけすれば良い。俺に遠慮することはない。自由に外出してもいい」
「……」
シオンの質問にエンジュはただ無言のまま俯いてしまう。その様子が困っているようにも、話す気は無いという拒絶にも思えてしまい、シオンの苛立ちはますます大きくなる。
「御触書は知っているか? 貴族の娘である君には関係ない話ではあるが……」
「……っ!」
エンジュの頭がわずかに上がるが、長い前髪で隠された顔からはどんな表情をしているのか全く想像が付かなかった。驚いているのか、悲しんでいるのか、戸惑っているのか、それとも――喜んでいるのか。
初めて出会った時から、エンジュにはそういった感情の表現が無かった。話しかけてもただ俯いているか項垂れているだけ。口数も少なく、ようやく話しても消え入りそうな声で必要最低限の単語を訥々と呟くだけだった。
その態度が拒絶されているように感じられて、最近ではエンジュと顔を合わせるだけで虚しい気持ちにさせられた。
「俺にも転属命令が降った。転属先は治安部隊、一年の大半は国外だ。俺に気兼ねする必要はなくなる。良かったじゃないか」
「……っ!」
「だが一部の混血たちはこの国を出て、新しい国で生活を始めるらしい。リカンもそうだ。俺も誘われた」
「え、あっ、の……」
「俺はリカンと共に行こうと思う。サラとレイラもだ。だが君は無理して来る必要はない。それどころかこの機会に離縁してもいい。実家に帰りたいだろう。俺のようなただの混血と、愛のない結婚を続けなくてもいいんだ。君も嬉しいだろう」
「……」
自虐的に吐き捨てるような言い方をしたから、またもや怯えるようにエンジュは胸の前で両手を握ると、床を見つめたまま黙ってしまう。
「……好きにしろ」
背を向けると襟元を緩めながら逃げるように自室に入る。扉を閉める前にそっと振り返ると、エンジュはその場で呆然と固まっているようだった。その姿が傷ついているようにも見えるが、掛ける言葉を持たないシオンは音を立てて扉を閉めたのだった。
(最悪だ)
最低限の物しかない無機質な持っていたマントを乱暴に椅子に向かって放り投げると、そのままベッドに座る。
(これでは貴族共と何も変わらない。あの娘があの態度なのは、今に始まった話ではないというのに……)
シオンは大きく息を吐きだすと天井を見つめる。
エンジュとの結婚は、シオンを殴ってきたあのいけすかない上官からの紹介だった。
知り合いの貴族が娘の嫁ぎ先を探しており、無償で「引き取ってくれるなら」混血でも誰でもいいと言ってきたのだった。
知り合いの娘とはいえ、まるで引き取り先の無いゴミのように話す上官の口振りが気に入らなかったのと、断る理由が無かったから迎え入れた。
そうしてやって来たのがエンジュだった。
引き取り先を探しているということだったので、どんな問題児か覚悟していたが、思っていたのとは別の意味で問題がある娘だった。
初めて会った時からほとんど話さず、話しかけても頷くか頭を振ることしかしなかった。前髪で顔を隠し続けて、顔を見ようとシオンが少し触れただけで怯えられてしまう。
共に暮らし始めても、シオンが指示するまで部屋の隅で微動だにせず立っており、諸々の家事を頼んでもシオンの分しか用意しなかった。自分の分はどうしたのかと聞いても、俯いたまま沈黙してしまうのだった。
ほとんど身一つで嫁いできたエンジュに洋服代や日用品代などのお金を渡しても、それも使われないままシオンの手元に戻って来てしまう。
それなら何もしなくていいと言っても、エンジュはシオンの分の食事や洗濯、沐浴の用意などを続けた。
仕事でいない間は自由に過ごしていいと言っても、何をすることも無く、ただ自分の部屋でじっと座っているだけだった。
これでは夫婦ではなく、主人と小間使いのようだと自分でも呆れてしまう。
リカンたちのように子供が産まれるどころか、幸せな夫婦生活さえ縁遠いものであった。
(故郷か……)
先程、隣部屋の混血の騎士が言っていた「故郷」の二文字が頭の中に渦巻く。
さっきの騎士には無いと言ったが、もしシオンにも「故郷」あるとしたら、それはかくりよのことだろう。
ヴァンパイアになった際、髪や目の色は貴族のヴァンパイアと同じ銀髪と赤い目に変化する。顔形や体型も同様に整った容姿に変わるが、その元となるのはヴァンパイアとなる前の――人間の時の姿であった。
混血のヴァンパイアは数多く存在するが、東洋人の血を引いていると思われる者は二人だけ。シオンとリカンだけであった。
リカンと親しくなった理由は同じ人種というのもあるが、それ以外にもう一つあった。
他の混血のヴァンパイアには人間だった頃の記憶があるにも関わらず、シオンとリカンだけはヴァンパイアに転化してからの記憶しか無かった。
ヴァンパイアとして蘇った時、人間だった頃の自分に関する記憶を一切無くしていたのだった。
保護された場所が二人揃ってかくりよの裏側にある日本であったことや、最低限の生活に関する記憶は残っており、それが日本の生活様式と当てはまったところから、二人がヴァンパイアになる前は日本に住んでいたのは間違いなかった。
ただどこで生まれ育ち、どんな経緯で貴族と出会ってヴァンパイアになったのかは、未だに分からないままだった。
二人を吸血した貴族も判明しないまま、ただ二人はヴァンパイアの国で生活を送っていたのだった――。
シオンが転属に従うにしても、リカンたちと共にかくりよ行くにしても、エンジュの故郷はこの国だ。
実家のある故郷から出たことがないエンジュに一緒に来るように無理強いするつもりは無かった。それどころかシオンとの生活に嫌気が差しているのなら、本当に離縁して実家に帰すつもりだった。
胸襟とまではいかなくても、いつまでも心を開かないエンジュとの生活には息が詰まるものがあった。それは恐らくエンジュも同じことだろう。
貴族の娘であるエンジュに御触書は関係ない。エンジュはこの国で生きていくのに支障は無い。シオンやリカン、サラたちだけが、この国での未来が無いだけであった。
明日にでももう一度聞いて、本人の好きなようにさせよう。
(このままこの国に居ても、将来的には貴族たちによって全ての混血が国を追われるだろう。それだけならまだいいが、迫害が悪化すれば大量虐殺もあり得る。それならまだ規制が緩い内に、この国を出るのが得策だ)
人間たちの歴史を紐解けば、国民たちからの支持を集め、国家を団結させるために、国民共通の敵を定めて国家で迫害した話は多い。
貴族たちが何を考えているのかは分からないが、おおよその予想はつく。
貴族たちはヴァンパイアの国を広げようとしているのだろう。
シオンがこの国に来た時から、一部の貴族たちは叫んでいた。ヴァンパイアこそこの世界に生きる全てのモンスターたちを統べる覇王に相応しいと。
貴族たちの間で何があったのかは分からないが、それを実行する時が来たのだろう。
ヴァンパイア以外のモンスターの国やモンスターたちを制圧し、最終的には西洋圏に住むモンスターたちの頂点に君臨する。やがて力をつけて、かくりよを始めとする東洋に住むモンスターたち――東洋ではあやかしというらしい。をも圧伏し、この世界を手に入れる。名実ともにこの世界の統治者になるつもりなのだろう。
問題なのは、全ての貴族が混血を排除し、自分たちだけの世界を作ろうと考えている訳ではないというところだ。
貴族の中には、現状の体制に満足している保守的な者や混血との共存を唱える者たちもいる。他のモンスターたちを圧倒し、西洋圏で主権を握ろうとしているのなら、全ての貴族たちから支持を得たいと考えるだろう。そのためにはそういった反対派を減らさなければならない。
反対意見の者を賛同させるか、または納得させる方法の中で、最も手っ取り早いのは同じ目的意識を持たせることだ。
それにうってつけなのは、自分たちの生活を脅かす脅威の存在にして、排除しなければならない共通の存在――敵を定めることであった。
貴族たちの誰もが敵と思える存在を定め、プロパガンダによって国民の心を誘導する。そうして同じ目的を持つ集団にする。
その貴族たちにとって最初の敵に相応しく、最も近くにいる存在は――他ならぬ混血しかいない。
今回の混血を排除するような御触書や転属は、この足掛かりに過ぎない。
次はどうなるか、誰にも分からない。
(奴ら貴族の思惑に巻き込まれるのだけはごめんだ。それなら転属を蹴るべきだ。騎士を辞めてこの国を出る。それはリカンも同じ考えなのだろう……)
そして帰り際にリカンが縋るように呟いた「相棒」の一言。
ヴァンパイアになってから今までリカンとは共に生きてきた。これまで息が詰まるような、この国の制度に耐え続けられたのも、リカンの存在が大きい。
リカンさえ居れば間違いは無いとさえ、断言出来る。
――もう心は決まっていた。
(かくりよ行きの船の着港日時を調べないとな。騎士団に出す辞表の用意もしなければ……)
騎士団には何も未練が無い。生活するのに必要な金稼ぐためだけに入団したようなものだ。混血向けの仕事でも、人間の記憶が無いシオンには就ける仕事が限られていた。その中でも騎士団がうってつけなだっただけだ。
騎士団ではシオンやリカンが身に付けていた技術が役に立った。記憶が無くても、身体に染み付いたものは自然と使えた。それは沐浴や食事、排泄なども同じであった。
どのような目に遭ってもシオンが仕事を辞めなかった理由の一つが、この技術によるところが大きい。
だが、技術ならこの国の外でも役立てるだろう。何もこの国に拘る必要は無い。
シオンは胸に付けていた騎士団の紋章を外すと、ベッドの上に投げたのだった。
◇◇◇
かくりよへ(改訂版)
その日、船は汽笛を鳴らしながら、ヴァンパイアの国を徐々に離れていった。
今にも雨が降り出しそうな厚い雲で覆われた灰色の空と、小さくなっていくヴァンパイアとしての自分を育てた国を展望デッキから眺めていたシオンだったが、そっと後ろを振り返る。
「本当に一緒に来て良かったのか?」
その言葉に頭まですっぽりとフードを被ったエンジュがこくりと小さく頷く。
純粋なヴァンパイアである貴族たちはわずかな日差しや聖水などが苦手だが、それはエンジュも同じらしい。曇りではあるが、さっきから日向に出てこようとしなかった。船に乗船するまでも、なるべく建物やシオンの影を歩き、陽の下に出ないようにしていた。日陰が無い場所は仕方なく陽光に当たったが、やはり身体が辛いのか苦しそうな顔をしていたのだった。
乗船人数の関係上、同じ部屋を取るしかなかったので、展望デッキに出る時は一応声を掛けた。部屋で待っていて良いと話したものの、エンジュはシオンの後について展望デッキに出て来たのだった。
シオンが口を開こうとした時、エンジュの後ろからリカンが顔を出した。
「 二人ともまだここに居たんだな」
「どうしたんだ?」
「ようやくレイラが落ち着いたからさ。お前たちの様子を見に来た。最初、部屋に寄ったら誰もいなかったから、もしかしてまだここかと思ってな」
最初こそリカンやサラたちも展望デッキで小さくなっていくヴァンパイアの国を見ていたが、慣れない船上に戸惑ったのか汽笛に驚いたのか、レイラが大泣きし始めた。その時にはシオンたち以外にも展望デッキに乗船客がいたので、周囲に気を遣ってリカンはサラたちと共に部屋に戻ってしまったのだった。
「他の乗客は部屋に戻ったんだな」
「ああ。なんだかここから離れがたくてな……」
他の乗客の大半はシオンたちのような混血だった。やはりシオンたちと同じことを考えたのか、自由を求めて他国で新たな生活を始めるつもりなのだろう。
知っている顔の者はいなかったが、同じ混血同士、どこか親近感が湧いてしまう。
「おれもだ。サラに断って出て来た。あんな国、思い入れが無いと思っていたんだがな……」
一際強い海風が展望デッキに吹く。上着を押さえていると、後ろで大きく布地がはためく音が聞こえてきたのだった。
「エンジュ、先に部屋に戻ってくれないか。俺は少しリカンと話してから戻る」
これ以上、陽光が苦手なエンジュを無理に付き合わせたくないのもあって、シオンは戻るように勧める。
やはり辛かったのかエンジュは無言のまま首肯すると、そのまま部屋に帰ったのだった。
後ろ姿を見送っていたシオンだったが、やがて姿が見えなくなるとリカンが小声で尋ねてくる。
「本当に連れてきて良かったのか?」
「本人が来たいと言ったんだ。断る訳にいかないだろう」
御触書が出た次の日、もう一度シオンが聞くと、エンジュは消え入りそうな声で「一緒に行く」と言ってきた。
国内の情勢が落ち着くまで一時的に実家に戻ることも提案したが、それでもエンジュはシオンと一緒に行くと言って聞かなかったのだった。
「騎士団を辞めることについて、何も問題は無かったか?」
「ああ。こんなにあっさり抜けられるとは思わなかった。もう少し、引き留められると思ったんだけどな」
かくりよ行きの船の船のチケットが取れた後、辞表を持って上官の元に行ったが特に何も言われなかった。小言の一つや二つは覚悟していた分、あっさりと受け取られてしまったので拍子抜けしてしまったのだった。
「怪しまれる前に辞められたのはいいが、これまでの苦労は何だったのか問いたくなったな」
「いいじゃないか。おれもそうだっだ。これからはお互に無一文だな。お前たちさえ良ければ、しばらくは共同生活をしないか?」
「それはこっちの言葉だ。俺も同じことを考えていた」
シオンの言葉にリカンは相合を崩すと、肩を何度も叩いてくる。
「そいつは良かった。レイラを理由に断られるかと思ったからな。最近こそ夜泣きは減ったが、まだまだうるさいからさ」
「何を言っている。レイラはお前の大切な家族だろう。 お前も知っているかもしれないが、俺とエンジュは上手くいっていないんだ。この先二人きりで、どうなることか……」
周囲に誰もいないと知っていつつも、なんとなく小声になってしまう。こんなことを打ち明けられるのも、相手が信頼の置けるリカンだからこそ。他の奴らにはこんな話は到底話せない。
シオンにとってはかなり深刻な悩み事だが、この親友にとっては大した問題では無いようで、からりと笑い飛ばされてしまう。
「結婚してまだ半年過ぎただけだろう。そんなもんだって。おれとサラは結婚する前から面識があったが、お前たちは紹介されて初めて顔を合わせて結婚しただけだろう。これからお互いを知っていけばいいだけじゃないか」
確かに、リカンとサラの出会いは三年前に遡る。当時人間たちが住む国の近くで、複数の人間がヴァンパイアに襲われる事件が発生した。治安部隊が出動して犯人と思しき貴族を捕らえたことで一時は解決したものの、その数ヶ月後に同じ場所で事件が再発してしまった。今度は前回の倍の速さで被害者が増加してしまい、治安部隊だけでは解決が困難な状況になってしまったのだった。
そこで治安部隊の応援として、二人を含めた複数の混血が騎士団から派遣された。ヴァンパイアに襲われて転化した元人間たちを保護していく中で出会った一人がサラであった。
その頃のサラはヴァンパイアに襲われたショックや転化した衝撃で塞ぎ込んでいたが、リカンが甲斐甲斐しく世話を焼き、話し相手になることで、徐々にヴァンパイアとしての自分を受け入れられるようになった。想いを交わした二人は結婚し、そして生まれたのがレイラだった。
「だがもう結婚して半年だぞ。それなのにこの状況なのは、端から俺のことが嫌いなんだろう。何の取り柄もない、ただの混血だ」
「お前はすぐそうやって卑屈になるのな。せっかくの機会だ。新天地で心機一転する中で、エンジュとの仲も改善したらどうだ?」
どこか呆れたように肩を竦めた親友は、そのまま展望デッキから立ち去ろうとする。シオンも後に追いつくと、「待った」と幅広の肩を掴んだのだった。
「これからは共同生活って言っていただろう。ということは、当然お前も手伝ってくれるな?」
「えっ……。いや〜、おれにはサラとレイラがいるし……。第一、以前から道ですれ違えば挨拶くらいしてくれるぞ」
「そうなのか!?」
「おれは挨拶しかされないが、サラなんてちょっとした会話もしてるぞ。内容はありきたりな雑談程度らしいが」
外出している姿が思い浮かばず、ずっとエンジュは家から出ていないものだと思っていた。
もしかするとシオンが知らないだけで、交流関係は広いのかもしれない。
「やはり俺は嫌われているのか……」
「仕事もあったし、お互いに生活リズムが合わなかっただけだろう。深く考えていないで、これから親しくなれ。じゃあまた夕食の席でな」
チケットと共に取った船室の前に着くと、リカンは隣の部屋に入る。偶然隣り合わせになっただけだが、何らかの意思が働いているような気がして勘繰ってしまう。
シオンは溜め息を吐くと、エンジュが待つ船室の扉を開けたのだった。
★
急に目の前が明るくなったかと思うと、眼下では城から煙が上がっていた。
ヴァンパイアの貴族たちが住んでいるような、均等に切られた石が積み上げられた豪奢な城ではない。大きさも疎らな石が隙間なく組み合わされた石垣の上に建てられた白い外壁と茶の屋根瓦の本丸。
その本丸の至るところで、火の手が上がっていたのであった。
「本丸に戻ろう。他の隊と合流して体制を立て直せば……」
「いや今から言っても無駄だ。こちらも先程の戦いで死傷者を出してしまった。今だって山道がやっとの者もいる。この状況で合流しても足を引っ張るだってだけだ。出来るわけがない……」
シオンの目の前で言い争う着物姿の少年たちは、どちらも返り血と土埃で汚れていた。
腰に差した刀と薄灰色の袴に赤と黒の模様が飛び散っているところから、ここに来るまで二人は敵と戦い、斬り合いをしてきたのだと分かった。
そんな二人を囲むように見守る少年たちも同じ格好していた。全員がシオンよりやや若く、いかにも武士といった出で立ちをしていた。
それはシオンも同じようで、首だけ動かして下を見れば、少年たちと同じ汚れた姿をしていた。同じ姿をしていると気づいた時、急に黒い着物が重く、袴が足に纏わりつくように感じられた。雨にでも当たって水を吸ったのだろうか。濡れた布地に体温を奪われていくように、身体から熱が引いていったのだった。
誰もが疲労困憊といった顔で煙が上がる城と少年たちを交互に眺めていると、少年たちの輪から誰かが発した。
「ここで話している間に敵に捕まって捕虜となった方が主君や先祖に合わせる顔がない。それならここで武士としての主君に殉じようじゃないか」
その言葉に少年たちは互いの顔を見やると頷き合った。
全員、同じ結論が出たらしい。
「そうだ。それがいい。それならおれは先に逝かせてもらう。黄泉路で会おうじゃないか」
そう言って、少年の一人は刀を抜くと自らの身体に刺す。身体から流れたおびただしい量の血が袴に垂れ、そのまま少年は動かなくなったのだった。
その少年に続くように、他の少年たちも刀を抜くと自らの身体に突き刺した。ある者は城を見ながら、またある者は家族が待つ生家の方角を見ながら、それぞれが主君の元に逝ったのだった。
「お前も早く来いよ」
「あ、ああ……」
最後に残った少年が腰から刀を抜いて刃を自身の首に向けた時、枝葉が揺れる音が聞こえてきた。木々のざわめきに混ざるようにどこからか艶かしい声が辺りに響いたのであった。
「血の匂いに惹かれて来てみれば……。勿体ないことを……」
「誰だ!?」
少年が短く誰何すれば、近くの茂みが揺れたのと同時に目の前から少年の姿が消える。
「離せ! 離さぬか!!」
その声に首を動かせば、少し離れたところで少年が地面に押さえつけられていた。
少年の髪を掴み、地面に縫い付けるように押さえつけていたのは、星の光を写したような長い銀髪と濃い赤い目の男――ヴァンパイアだった。
少年たちとは違い、如何にも西洋人といった顔立ちと白い肌をしたヴァンパイアは、浮浪者のように襤褸を纏い、汚れた姿をしているものの、どこか育ちの良さを感じられたのだった。
「地面に落ちた血は旨くない。土に含まれた人間共の汗の味までするからな」
「何を言っている! 離せと言っているだろう!? この異邦人が!」
「黙れ」
ヴァンパイアは少年が握ったままになっていた刀を奪うと、髷を結っていた髪から手を離す。少年の上に馬乗りになったまま刃先を下に向けると、少年の喉笛を斬ったのだった。
少年の首から血が飛び散り、ヴァンパイアの顔に掛かる。ヴァンパイアは顔に付いた血を舐めると、少年の喉に口を付けて流れ続ける血を吸い始めたのだった。
「……ん、んんっ」
ヴァンパイアはよほど喉が乾いていたのか、数日振りに水を飲んだ時のように、咽喉を鳴らしながら恍惚の表情を浮かべて少年の血を飲み続ける。
その様子を呆然と眺めていたシオンだったが、不意にヴァンパイアが馬乗りになっている少年と目が合う。
最期の力を振り絞って、少年は乾いた唇をわずかに開いて合図をする。その意図に気づくと、シオンは音を立てないようにそっと自分の刀を抜く。
両手で刀を構えると、そのままヴァンパイアに向かって斬り込んだのだった。
血を吸って油断していたのか、ヴァンパイアの反応がわずかに遅れた。ヴァンパイアは少年の身体から避けたものの、その前にシオンが振り下ろした刀が頬を掠めたのだった。
「……っ!」
袈裟懸けの勢いのまま、シオンは振り返ると再びヴァンパイアに刃先を向ける。そのまま土を蹴って突っ込んで行くが、ヴァンパイアは身体を捻ると難なく逃れたのだった。
「ほう、家畜の分際で我の顔に傷を付けるか。今の内に逃げれば良かったものを……。そこまで仲間が大切なのか、人間?」
「当たり前だ。失せろ、化け物が!」
今の自分より幾分か高い声で叫ぶと、ヴァンパイアは興味深いというように眉を上げたのだった。
「その潔い返事は気に入った。このまま死なせるのは勿体ないな……」
さっき斬ったのが嘘のように、ヴァンパイアは傷一つ無い美麗な顔を歪めると、嫌な笑みを浮かべる。そしてヴァンパイアは跳躍したかと思うと、瞬く間にシオンの背後に回ったのだった。
「この姿になっても、家畜を仲間と言えるか試してみようか」
囁くようなその言葉を皮切りに、ヴァンパイアはシオンの首筋に牙を立てる。
「ぐうっ……!」
首元に深く刺さった牙の痛みに呻いていると、やがて音を立てながら自分の血を呑む音が聞こえてくる。
耳元から聞こえてくる嫌な音に、シオンの背中が総毛立つ。
「は、離せ! 離せ、この……!」
「その高い声は耳障りだな」
ヴァンパイアの長い指先がシオンの喉仏を軽く叩く。その瞬間、シオンの喉は詰まったように声が出なくなった。
それなら最後の手段として刀を持った手を自分に向けて自分ごとヴァンパイアを貫こうとする。けれどもヴァンパイアは片手で刀を掴むと、放り投げてしまったのだった。
(なにっ……!?)
弧を描きながら飛んで行く愛刀を眺めていると、吸血する量を増やしたのか、肩に鋭い痛みが走る。
傷口を舐められると、ついにシオンは声にならない絶叫を上げたのだった。
身体から血の気が失せていくと、シオンの手足に力が入らなくなる。ヴァンパイアに寄り掛かってされるがままになっていると、ようやくヴァンパイアはシオンから離れたのだった。
その場に膝をついて荒い息を繰り返していると、ヴァンパイアは先程息絶えた少年を引き摺ってくる。
少年の喉から溢れる血に気づいた瞬間、シオンの胸が激しく脈打ち始める。
シオンの喉が何故か強烈な渇きを覚えたのだった。
「これが気になるか? まだ辺りに沢山あるぞ」
その言葉にシオンが辺りを見渡すと、仲間たちの骸が目に入る。血の気が失せたその身体と――傷口から溢れる血が。
生唾を飲み込んで喉を鳴らしたところで、一瞬だけ正気を取り戻すと、ヴァンパイアの甘言から顔を逸らす。
けれどもシオンの目だけは、血が流れ続ける少年の傷口から離れなかった。
「気になるのだろう。さあ、とくと味わうがいい……」
ヴァンパイアは少年の傷口から乾ききっていない血を掬うと、シオンの口に入れる。
少年の血が舌に触れた途端、極上の蜜のような甘味とこれまで味わったことのないうま味が口の中に広がって、何も考えられなくなる。
シオンはヴァンパイアを跳ね除けると、自ら少年の傷口に貪りついたのだった。
血を吸う度に自分が人間から遠ざかり、ヴァンパイアになっていくような気がして、胸が張り裂けそうになる。
やがて涙を溢し、嗚咽混じりに同胞の血を吸っていると、ヴァンパイアが片手でシオンの両目を覆ったのだった。
「なぜ悲しむ? 家畜を超越し、我らの仲間になれたのだぞ。家畜を屠り、喰うことさえ出来る。其奴らを超える存在になれたのだぞ?」
「……」
ヴァンパイアの言う通り、シオンは自分の意思とは関係なく、ただ身体が欲するがままに、苦楽を共にした仲間に喰らいついて血を吸っていた。それは彼と同じように、人間を家畜と見做して捕食しているのと何も変わらなかった。
仲間と豪語していながらも、欲望に負けて仲間の血を吸ってしまった罪悪感と、今後は彼と同じように人間を襲わなければ生きていけない化け物になってしまった絶望感に打ちひしがれていた。
ヴァンパイアは息を吐くと、幼子を慰めるようにシオンの耳元で呟く。
「家畜の記憶が邪魔をするか。ならばそれさえも奪ってしまおう。次に目覚めた時は産まれたての赤子に近い、無の状態となる。其奴らはただの血肉だ、生きるための餌だ。家畜に情など不要だ。何も考えずに喰うがいい」
ヴァンパイアが何か唱えると、シオンの頭から何が抜けていく。それが家族や仲間たちの声や顔、思い出、そして自分だと気づいたものの、シオンはその場で意識を失ったのだった。
★
「……て、起きて……」
近くでか細い声が聞こえてきて、シオンはそっと目を開ける。
目の前にはシオンの顔を覗きこむように、エンジュの鬱陶しい前髪があったのだった。
「エンジュ……」
身体を起こせば、そこは船室のベッドの上だった。どうやらリカンたちと夕食を食べた後、船室に戻ってからの記憶が無かった。どうやら寝てしまったらしい。額や身体が寝汗を掻いているところから魘されていたのだろう。
気を遣って、エンジュが起こしてくれたのだろうか。
「魘されていたのか……。煩かっただろう。邪魔したな」
聞き慣れた自分の声で礼を述べれば、エンジュは何度も首を振る。掛布を跳ね除けながら起き上がればベッドが軋む音が聞こえてくる。
「少し夜風に当たってくる。俺のことは気にせず、先に寝ろ」
ひと息に言うと、何か言いたげなエンジュを置いて船室から出る。すると目の前の廊下には、壁に寄り掛かるようにして、青い顔をした親友の姿があったのだった。
「よぉ……」
昼間とは打って変わったリカンの姿に驚愕したものの、すぐに事情を察する。
「もしかして、お前も?」
「ああ、サラに起こされた……珍しいな、お互い魘されるなんて」
「そうだな……」
リカンと出会ったばかりの頃、リカンは寝る度に悪夢に魘されていた。そんなリカンを起こすのは、同室だったシオンの役目だった。
本人が話さないので悪夢の内容は分からないが、おそらくヴァンパイアになった前後の記憶を見ているのだろう。
これまでシオンも断片的ではあるが、ヴァンパイアになった前後の記憶を夢に見ていた。今晩のように魘されるまででは無いが、身体に刻まれた恐怖と絶望、そして悲嘆が代わりに覚えているのだろう。
たとえ、本人が覚えていなかったとしても――。
「このまま寝てもまた夢見が悪そうだからと、気分転換に出てきた。展望デッキに行こうと思っていたところにお前も出て来たからさ……」
「俺も同じだ。魘されていたところをエンジュに起こされた。邪魔にならないように部屋を出たのは良かったが行き先が無くてな……」
「そうか……見たのは、人間の頃の記憶?」
「そうだな。俺自身は覚えていないが、どうも身体が記憶していたらしい」
そのまま二人の足は自然と展望デッキに向かう。時間帯が遅いからか船内の明かりは点いておらず、月明かりでわずかに見える程度だった。
他の船室からは寝息しか聞こえてこないので、二人の話し声と床板を踏む足音だけが辺りに響いていた。
「シオンはさ。人間だった頃の自分を考えたことはあるか?」
「いや。考えたことないな。過ぎた日を思い返しても意味が無いだろうと思っていたが……お前は違うのだろう?」
静かに問いた言葉にリカンは頷く。
「前はそう思ってた。お前やサラ、レイラさえいれば、過去なんてどうでも良かった。けれども今はさ……おれにも親兄弟がいて、友がいて、故郷があったんだろうな……って。そいつらはどうなったのか気になるようになったんだ。おれも親になったからな」
御触書が出た日、リカンはレイラが生まれてから考え方が変わったと話していた。人間の頃の自分が気になり出したのも、レイラの父親になったからであろう。
「人間からヴァンパイアになった混血は沢山いる。けれども人間の頃の記憶が無いのはおれたちだけ。もしかして過去も故郷も名前さえも、忘れてしまいたくなるような出来事でもあったのだろうか。偶然忘れたんじゃなくて……」
「例えば?」
「悲しみや怒り、悔しさ、恥ずかしさ、不安、罪悪感、そして絶望。負の感情に押し潰されて、全てから逃げ出したくなったのかもしれない。人間だったおれはさ……。本当のおれは大して強くないからさ」
頭を掻きながら力無く笑うリカンの姿を、シオンはただ見つめる。
「日本によく似たかくりよに行ったら、人間だった頃のおれを取り戻せるかもしれない。でもさ、それって良いことなのか。今からでも目的地をかくりよ以外に変えた方がいいんじゃないかって。次の経由地で船を乗り換えてさ」
「リカン。すぐに弱気になるのがお前の悪い癖だな。決めたことなら最後まで貫き通せ。妻子はお前を信じてついて来ているんだ。……俺だってそうだ」
普段のリカンは思慮深く冷静沈着だが、考え過ぎて後ろ向きになる時がある。自分のことになればなる程、その傾向が大きい。
そんなリカンの思考を前に向かせるのは、シオンの役割だった。
「人間だった自分に不安を抱いているのは俺も同じだ。全てを思い出した時、今の俺はどうなるのだろうと。だが記憶を取り戻しても、俺たちが出会い、苦楽を共にした日々は消えない。それどころか過去に囚われて、今を疎かにするのは良くない。今が過去に変わった時、疎かにした今を後悔する」
思い出は過去の積み重ねから出来ている。良い過去も悪い過去も。
その思い出から成り立っているのが今の自分だ。そして未来の自分を形作るのは、他ならぬ今の自分だ。
「人間だった頃の自分を取り戻しても、ヴァンパイアとしての今の自分は残り続ける。人間だった頃の自分がヴァンパイアの自分に蓄積されるだけだ。失うものは無いだろう。それなら不安に思わなくていい。取り越し苦労になったら悩んだ時間が勿体ないだろう」
「そうだな……」
「もし人間の頃の記憶が悪いように左右するなら俺が受け止める。殴るなり蹴るなり泣きつくなり、気持ちが落ち着くまで俺に当たればいいさ」
「つい最近も上官に殴られて不機嫌だったお前が?」
いつもの調子に戻ったのか、意地悪い笑みを浮かべたリカンにシオンも鼻で笑う。
「あれは相手が相手だったからな。相棒が相手なら話しは別だ」
リカンは目を見開いて瞬きを繰り返すと、「相棒か……」と小さく笑みを浮かべる。
「良い響きだな。かくりよでも頼むぜ。相棒」
「勿論だ。相棒」
互いの拳を突き合わせたところで、何かに気づいたようにリカンは見渡す。
「それにしたって随分と静かじゃないか。海上なら波音や海風の音がしたって良さそうだ」
「言われてみれば……」
話していて気づかなかったが、先程まで聞こえていた近くの船室の寝息がいつの間にか途絶えていた。波音や海風の音どころか、船のエンジン音まで聞こえてこないのはおかしい。
「一度、部屋に戻らないか?」
「そうだな。サラとレイラも心配だ」
二人が早足で船室に戻ると各々に入っていく。シオンも自分の船室に入るが、隣のベッドを使っていたはずのエンジュの姿がどこにも無いことに気づく。
「エンジュ?」
「シオン、サラとレイラの姿が見当たらない! そっちにいないか!?」
息せき切って入って来たリカンの言葉で、シオンは弾かれたように船室に備え付けのシャワールームを見に行く。しかしサラたちの姿どころか、エンジュの姿さえ無かったのだった。
「この部屋にはいない。エンジュもだ」
「おれたちが話している間に、三人で散歩にでも行ったのだろうか……」
「それなら戻る途中で会っていなければおかしい。この船に階段は一つしか存在しないんだ」
シオンたちが乗船している船は、ダイビング船を小型客船に改造した三階建ての船である。三階は展望デッキとなっており、二階にはシオンたち乗客の船室と操舵室があった。一階にはレストランと船員の部屋、今は使われていないダイビングデッキがあるだけだった。
船員の安全上、一階に繋がる階段は船の消灯時間後に立ち入り禁止になるので、散歩に行くにしても二階か三階のどちらかになる。
船内に階段は一つしかないので、もしサラやエンジュたちが三階の展望デッキに向かったのなら、通路の途中で立ち話をしていたシオンたちと会わなければおかしい。
「ということは、サラたちは二階のどこかに居るのか?」
「そうなるが……。二階は船室と操舵室しか無いぞ。別の船室に居るのか? それもこんな時間に……」
「……っ! シオン、頭を下げろ!」
考え込んでいると、急にリカンが叫んだので反射的に身を屈める。次いでシオンの頭上を、黒を帯びた茶色の弾丸が二発通過する。
振り返ると茶色の炎に包まれて、蝙蝠が灰に変わっていくところだった。
「間一髪だったな」
自身の得物である銃を腰に戻しながら、リカンが手を貸してくれる。
「助かった……が、なんで愛銃を持ち歩いているんだ?」
「サラとレイラが居ないと分かった時に持って来た。お前も持った方がいい。どうやら三人は散歩に行った訳では無さそうだ」
「そうだな……」
床の上で未だに燻っている茶色の炎を見ながらシオンは眉を顰める。さっきシオンを襲おうとした蝙蝠は、貴族のヴァンパイアたちが使役している蝙蝠の一匹だろう。
純粋なヴァンパイアである貴族たちは、自分たちと近い存在である蝙蝠を使役出来ると聞いたことがある。
実際に使役しているところを見たことはないが、野生の蝙蝠が海上を彷徨っていると考えられないので、貴族が使役する蝙蝠で間違いないだろう。
シオンも自分の荷物の中から自身の得物である日本刀を取り出すと、船室の入り口で警戒していたリカンの元に近づいて行く。
「船室に貴族は居なさそうだ。となると、残りは……」
「操舵室だな。行くぞ」
狭い船内で動きに制限が出てしまうシオンを先頭に、身長が高く、小回りが利くリカンを殿にして、二人は操舵室に向かう。
先程からエンジン音が聞こえないと思っていたが、どうやら船は海上で停泊しているらしい。チケットを買った時に見た工程表では、昼夜関係なく船は走行ことになっていたので、船内の異常を察して船長が船を停めたのか、蝙蝠を放った貴族に動力部を制圧されてしまったのだろう。
国を出奔したといっても、しばらくは貴族たちの力が及ぶ支配圏内にいる。本当は混血たちが国外に脱出しているのを貴族たちに気付かれる前にここを離れたかったが、こうなった以上、船が揺れがない今の方が身動きが取りやすいので丁度良かった。波も穏やかなのは好都合である。
足場が安定していなければ、刀を振るうシオンだけではなく、リカンまで銃の狙いが定まらなかった。船内を傷だらけ、または穴だらけにしてしまう。そうなれば、貴族を追い払う前に海の藻屑と消えてしまうだろう。
警戒したまま二人が歩を進めると、誰も襲ってこないまま操舵室の前まで辿り着く。
耳聡いシオンが扉に耳をつけるが、すぐに離して首を振る。
「何か聞こえるか?」
「いや。無音だ。物音どころか息遣いさえ聞こえない」
「出入り口はここだけ、周りは海だ……。突入するならこの扉しかない」
「やってみるか。……俺が先陣を切る。お前は援護を頼む」
「ああ。いつも通り、おれたちでやってやろう!」
シオンは持っていた愛刀を抜くと、反対の手に鞘を握る。リカンも腰から愛銃を抜いて弾を確認すると構える。
ドアノブを回して鍵が掛かっていないことを確認すると、二人は頷き合う。
リカンが扉を蹴破ると同時にシオンは操舵室に飛び込んだのだった。
操舵室の中は薄桃色の煙が充満していた。その中からは貴族が使役する無数の蝙蝠が、シオンたちに向かって襲い掛かって来る。
「煙で前が見えないな……。何なんだ、この煙は?」
「話しは後だ。気を抜くなよ!」
「お前もな!」
話しながらも、シオンは愛刀で蝙蝠を斬り捨てながら前進し、逃した分は後ろからリカンが放つ弾丸が撃ち落とす。
またリカンの的確な射撃によって、蝙蝠を撃ち抜いた弾が遮蔽物に当たるまでの距離や時間から操舵室の奥行や広さまで判明した。
周囲の警戒やサポートをリカンに任せることで、シオンは目の前の蝙蝠と煙を掻き分けて進むことだけに専念したのだった。
操舵室の最奥に行くと、舵や計器類のところに薄桃色の球体が置かれていた。掌サイズほどの大きさの薄桃色の球体からは同じ色の煙が出ていたのだった。
「貴族の姿は見当たらないな」
辺りを見渡すが、操舵室内には二人以外に人の姿は見当たらなかった。
「何か聞こえるか?」
「……いや、俺たち以外の物音は聞こえない。そっちは? 何か匂うか?」
シオンの耳が良いように、鼻が利くリカンにも操舵室内の気配を探ってもらうが、お互いに何も見つけられなかった。
「こっちも何も感じられない。ただこの部屋に充満する煙は嫌な予感がする。早く壊してしまおう……」
「触るな!」
素手で球体に触れようとしたリカンを短く叫んで止めると、操られたようにリカンの手が止まる。
「ここを見ろ」
球体から溢れた煙の流れを辿ると、煙は操舵室内の通気口の中に吸い込まれていく。
「サラやエンジュたちが居ない理由……もしかしてこの煙が関係しているんじゃないか?」
「この煙に姿を消されたとでもいうのか?」
「確証は無い。ただこの煙を止めた方がいいのは同感だ。……俺にやらせてくれ」
リカンは「頼む」と呟くと、自分の得物を構えてすぐに反応できるように体勢を整える。シオンが球体を破壊した際に、不意を突いた貴族が襲ってくる可能性を考えたのだろう。
俊敏なリカンなら、どこから貴族が襲い掛かってきても先手を取れる。余程のことが無い限り、遅れを取ることは無いので安心して背中を任せられる。
シオンは両手で愛刀の柄を握ると構え直す。少しだけ自分のヴァンパイアの力を流せば、愛刀全体が紫の光を帯びる。
「はああ!」
掛け声と共に刀を振り下ろせば、刃先は薄桃色の球体を真っ二つに割く。球体が溶けるように霧散したのと同時に操舵室を満たしていた薄桃色の煙も消えてしまう。
操舵室内を見渡して愛刀を鞘に収めた時、微かな羽音がシオンの耳を打つ。
「リカン!!」
その声でリカンは瞬時に銃の引き金を引く。
静寂を切り裂くようにリカンが放った弾丸は、通気口から飛び出してきた蝙蝠を撃ち抜いたのだった。
「悪い。急所を外した」
「いや、先手を取っただけ充分だ」
さすがのリカンも気を抜いてしまったのか、通気口から飛び出してきた蝙蝠を一発で仕留められなかったらしい。だがリカンの弾丸は羽根を撃ち抜いたようで、飛行能力を失った蝙蝠は床で呻いていた。
止めを刺そうとシオンが刀を抜いた時、嘲笑する男の声が蝙蝠から聞こえてきたのだった。
「お見事と言うべきかな。ただの混血だと思って油断していたよ」
「お前がこの船を襲った貴族か? 連れ去った人たちを返してもらおう」
「連れ去ったというのは心外だな。通気口から特製の睡眠ガスを流すことで混血たちは眠らせただけだよ。幸せだった頃の記憶を見ながらね。まだ混血になる前の……」
「だが船室に姿は無かった。おれの妻子はおらず、ベッドはもぬけの殻だ」
「君たちが居る場所は現実じゃない。私が作ったレム睡眠の中。他の混血は現実で幸せなノンレム睡眠の中にいるよ」
「混血じゃない者も乗客の中に居たはずだ。混血の間に産まれた者も」
暗にエンジュやレイラのことを聞けば、「我々の同胞には幸せな夢を見せている。ただの混血にも」と事も無げに続ける。
「夢を見ている間は起きられないはずなのに効かない者が居たとは盲点だった。全員が寝ている間に捕らえてしまおうつもりだったのに……。ただ壊された以上、この空間も終わりのようだ」
「何を……!」
「シオン!」
目の前の景色が歪む。立っていられなくなって身体が傾くと、親友が腰に腕を回して支えてくれる。
「では、いずれまた会おう。遥か東にある国で」
「それはっ……!」
かくりよのことだろう、と続く言葉は、激しい立ちくらみで消える。リカンが蝙蝠に銃を向けたところで、目の前が暗転したのだった。
★
目を覚ますと、そこは船室の自分のベッドの上だった。隣のベッドではエンジュが静かに寝ていたのでそっと安堵する。
邪魔しないように、ベッドから出てカーテンを開けると、どうやら船はヴァンパイアの国から離れたらしい。海上を滑るように、静かに走行していたのだった。
船室の扉を開けたのと同じタイミングで、隣の船室から人が出てくる。
「おはよう。今度の目覚めは良かったか?」
「まあな。お前も朝の散歩か?」
「なんとなく、お前も出て来るような気がしたからさ。せっかくだ、一緒に朝陽でも浴びに行かないか?」
「そうだな」
昨晩とは打って変わって英気に満ちたリカンと並んで展望デッキに足を踏み入れる。
まだ朝も早い時間帯なのか、白く霞んだ朝空と輝き始めた陽気に照らされた展望デッキには誰もいなかったのだった。
「昨晩は嫌な夢を見たな」
「夢にしてはリアルだったけどな。今でも指先には引き鉄を引いた痕が残ってる」
そう言って、わずかに赤くなった人差し指を見せてくるリカンに釣られて、シオンも愛刀を握っていた掌を見つめる。シオンの掌も先程まで愛刀を握っていたかのように、赤く染まっていたのだった。
「どこまでが夢だったんだろうな」
「俺たちが見た悪夢も、ヴァンパイアの仕業だったのかもしれないな」
エンジュや他の乗客たちは今回の騒動について何も気づいていないだろう。昨晩は誰もが幸せな夢の中にいた。
気づいたのは、シオンとリカンだけ。
――ヴァンパイアになる前の幸せな記憶が無い、二人だけ。
「あのヴァンパイアと会ったら、今度こそ決着を着けないとな」
「その時はおれもやるからな。これ以上、サラとレイラを危険に晒すものか」
「だったら、俺はお前を守らないとな。背中は任せてくれ」
「おれよりもエンジュを守ってやれ。お前の嫁だろう。こういう時は本人が頼まなくても守るものなんだ」
「そうなのか……?」
妻帯者としては先達の親友に首を傾げれば、肯定されるように背中を叩かれる。
「その辺はおいおい教えてやるよ。かくりよに着くまで、まだまだ時間があるからな。とりあえず何か飲まないか?」
「部屋に備え付けのコーヒーがあっただろう。朝食の時間まで俺の部屋で話さないか」
展望デッキに背を向けた二人の近くをカモメの群れが飛んで行く。船を追い抜いたカモメの群れは、かくりよに向かって一足先に大きく羽ばたいたのだった。
小さくなって行くカモメを見送っていた二人は、やがて顔を見合わせるとどちらとも無く笑みを浮かべる。
互いの背中を叩きながら階段を降りたのだった。




