其の伍:実在する世界線
この章を書き始める前に述べておかなければならないことがある。
今これを書いている私は、前章を書いた私とは別の世界線の私かもしれないという可能性だ。
もちろん前章の私が述べているように、それを証明する術はない。
ただ、今の私が前章を読み返して「こんなこと書いたっけ?」という若干の違和感を感じているだけだ。
フィクションの小説世界のキャラクターが実在する世界線――。
メタ表現を避けたいがために盛大な嘘をでっち上げているとも言える。仮にその世界線があるとして、なぜそちらの私はキャラクター当事者でもないのに“神の目線”で小説を書くことができるのか。その答えは「実在する人物をモデルにしたフィクションだから」という他ない。
…何だそれ。結局フィクションじゃないか。
そんな声がこれを読んでいる人だけでなく、別の世界線に無数にいる私からも聞こえてきそうだ。
何年か前、バラエティ番組で見た話。
声優の田中真弓氏がゲスト出演し、役の声をリクエストされていた。声優あるあるだと思うが、私はあれもメタっぽくてきら…苦手だ。
声優がテレビに顔出しすること自体は嫌ではない。しかしそこで演じる様子を見るのは子供の頃から苦手だった。先のバラエティでは滝沢カレンがセリフをリクエストする際、「ルフィさんのモノマネを…」と失言(?)した。田中氏は「モノマネ…本物!」とツッコミながら演じていたが、私は滝沢カレンを擁護したい気持ちだった。
例えば時代劇では、織田信長や徳川家康など実在した人物を演じる俳優は当然ながら武将本人ではない。それは“モノマネ”と言ってしまうと語弊があるが、その役を演じているだけであり、田中氏もルフィというキャラクターの声を演じる演者であってルフィ本人ではない。
洋画の吹き替えならもっと分かりやすいかもしれない。歴史上の人物を演じるハリウッドスター、その声だけ日本語で演じ直す声優。その声優がバラエティで披露するとき、本物と言えるだろうか?本物のナポレオンではないし、ホアキン・フェニックスでもない。本物とは何なのだろう?
実をいうと声優さんが注目される風潮自体は嫌いではない。アニメのエンディングで声優一覧を見るために一時停止することもある。同好の士には理解してもらえるだろう。また、自著の登場人物に声優さんの名前を付けることも少なからずある。それは当て書きではなく、モブキャラ名を忘れないようにするためだ。
なんだか話がとっ散らかってきたな…。言いたいことが伝わったかどうか分からない。別世界線の私ならもう少し上手くやれたかもしれない。
――
昼休み。健康維持のため今日も見知らぬ路地を歩く。
雑居ビル裏手で革ジャンとレザーパンツ姿の若者が小走りで出ていく。その後ろ姿からは男性か女性か分からなかった。「何かアキラみたいな人だな」と思った。アキラは私の小説に登場する人物だ。
薄暗いエントランス奥に照明が消えた店舗看板が目に入る。
『snack Enter』
全身が痺れ、胸の鼓動が早くなる。“カタカナ”ではなく“英語”表記だが、『Enter』という名のスナックだった。先ほどの若者が店主なのだろうか?今夜店が開いている時間に確かめてみようか――。
刹那、一瞬意識が遠ざかった。立ち眩みで目の前が暗くなる。そして再びビル奥を見ると、店名は『Center』になっていた。
(完)