其の肆:読み返し
小説を書く上で、ある設定の裏付けをしたくて蔵書の掘り起こしを始めた。
一時期“断捨離”をしたこともあり、目当ての本が残っているか定かではなかったが、それは何とか見つけることができた。
しかし、それ以上に自分でも呆れたのは、積読の量だった。
想像以上に未読の本があった。いや、もしかしたら読んだのかもしれない。内容を忘れたのではなく、読んだかどうかすら分からない…。
いや、正直に話そう。買った覚えすらない本がいくつも出てきたのだ。
SNSにもこのことをポストしたが、こんなのはきっと本好きの“あるある”だろうと思い、AIにこの現象に名前がないか尋ねてみた。
AIの回答によれば、
「読書コミュニティやSNSでは『本棚の妖精が置いていった』とか『本棚ガチャ』と冗談めかして呼ぶ人もいるようです。」
やはり、本好きにはよくある話らしい。
なろうに小説をアップし始めてちょうど一年が経とうとしている。
人生のイベント全般に言えることだが、始めたのがついこの間のようで、それでいて遠い昔のような感覚だ。
“遠い昔”であれば細かい設定を忘れることもあるだろうと思い、初期の話を読み返してみたところ驚いた。
細かい設定どころか、大筋さえ書いた記憶がない…。
これが蔵書なら他人が書いたストーリーなので、「忘れても仕方ない」と開き直れるだろう。しかし、自分で書いた話をこんなにも忘れるものだろうか?
前章でキャラが勝手に話を進めることがあると書いたが、ここまで来ると私はただの代筆者であり、この物語は他の誰かの創作なのではないかとすら思えてくる。
そんなことを考える日々、何気なくYouTubeのショート動画を観ていたところ、晩年の鳥山明氏がドラゴンボールのストーリーをほとんど覚えておらず、「この先どうなるんだろう」とワクワクしながら読み返したという話を知った。
あぁ、天下の鳥山氏でもそんなことがあるのか…。氏とは年齢もさほど離れておらず、自分も加齢による物忘れなのだろうと納得させた。
加齢といえば、健康診断の結果から生活習慣についてカウンセリングを受けることになった。基礎代謝が落ちるため、今までと同じ食事量でもカロリーオーバーになり体重が増える。そして運動不足も相まって体重は三桁目前…。
カウンセリングでは間食を控え、会社で夕食を摂る場合はパン類ではなくおにぎりや野菜にするよう指導された。また運動不足解消として毎日プラス千歩(約10分)歩くことを目標にした。
昼休みには昼食後に会社近辺を歩いてみた。同じ職場で30年近く勤めているにも関わらず、数ブロック離れるだけで通ったことのない道ばかりだった。知らない寺社や需要が疑わしい店、不思議なビルなど、大袈裟に言えば別世界に迷い込んだような気分だった。そして知っている路地に戻った時には安堵すら感じた。
帰宅時には自転車を引いて一駅分歩いてみた。昼とは異なり何度も通った道だったはずなのに、不意に知らない店が目についた。
「こんなところにオーダーメイドのテーラーなんてあったっけ?」
その佇まいからして新しい店ではなく、下手をすれば昭和時代から営業しているようにも見えた。
普段は自転車で通り過ぎていたから気づかなかっただけなのだろう――その時はそう思っていた。しかし次の日も同じ道を歩き、そのテーラーを探してみたものの見つけることはできなかった。
加齢による物忘れ――そう自分をごまかしてきた。しかしここまで来ると、“ある仮説”について話さざるを得ない。それは、
「人間の意識は別世界線に存在する自分との入れ替わりを繰り返している」という仮説だ。
この仮説は私オリジナルではないし、多くの人々が類似した考えを持っていると思う。そしてこれによって全て説明できる――買った覚えのない本、自著なのに知らないストーリー、存在したりしなかったりする店舗…。これらはもう一人(あるいは複数)の自分との記憶や体験がシャッフルされている混乱から来ていると考えれば辻褄が合う。
この仮説は「世界五分前仮説」と同様に否定することも証明することもできない。「中二病的な世迷いごと」と揶揄されるかもしれない。しかし私はこの説を本気で信じたいと思っている。そしてもう一つ信じたいこと――それは、自著のキャラクターたちが実在する世界線があるということだ。それについては次章で語りたい。
(続く)