其の壱:メタ表現がきら…苦手だ
単行本で追いかけている某漫画の新刊が出たことを知ったのは、刊行から二週間ほど経ってからだった。
この作品を知ったのは、何年か前の『次にくるマンガ大賞』で一位になったと帯に書かれているのを見かけた時だ。それ以来、一巻から電子書籍ではなく紙の本で購入している。
加齢を言い訳にしたくはないが、漫画に限らず小説も含めて、近年の読書量はめっきり減ってきた。
現在購読している漫画は十指にも満たない。その中でもこの作品は、新刊を心待ちにしている数少ないもののひとつだ。今回も満足のいく出来栄えで、ストーリーも作画も申し分ない。ただ一点を除けば。
それは、話の流れの中で主人公の一人が発する心の声(雲フキダシ)の中にあった。
『こんなマンガだっけ』
自分はこの手の、いわゆる「メタ表現」が嫌いだ。
いや、「嫌い」という言葉は強すぎるので「苦手」にしておこう。これが枠外、つまり作者自身の言葉ならば、ギリギリ許容できたかもしれない。
物語を書くようになって分かったことがある。
古今東西、多くの作家たちが言及している「作中の人物が勝手に動き出す」という現象だ。
自著『エクセレンター』シリーズでも、当初は一エピソード限りのゲストキャラだった男“薔薇筆”が、どうしたわけかお気に入りキャラ“育美”と付き合い始め、ちゃっかりサブキャラにまで昇格してきた。
だから『こんなマンガだっけ』というセリフも、おそらくキャラが暴走し始め、作者が想定したストーリーから逸脱してきたことへの自戒だったのだろうと想像する。しかし、それをキャラクター自身に言わせる形にはしてほしくなかった。
漫画の世界では昔からこの種のメタ表現が多用されてきた。その代表格は他ならぬ“漫画の神様”手塚治虫氏だろう。
繰り返しになるが、この手法そのものを否定するつもりはない。ただ私個人として「苦手」なのをご承知いただきたい。
手塚氏といえば、「スターシステム」と呼ばれる同じキャラを異なる作品に登場させる手法も有名だ。これも私には冷めてしまう要因だった。物語はフィクションであり、キャラはその世界で役を演じているだけだと言われているようで感情移入しづらくなるからだ。
メタ表現はアニメでも頻繁に見かける。「さぁ〜て、来週のサザエさんは…」というキャラ達が語る次回予告など、その典型例だろう。このような表現には、視聴者がキャラへの感情移入をし過ぎないようフィクション性を強調する意図があるようにも思える。
一方、小説ではメタ表現をあまり見かけない気がする。それについて考えた末、AIに尋ねる事にした――
(続く)