揺れる覚悟
生後三か月のアルムは母乳を飲み終えると静かに眠りに就く。
「お休み、アルム」
母親のレイナは起きないようベッドに寝させて一階の仕事場に戻って行った。
「ようやく行ったか……」
扉が閉まるのを確認してからすっとアルムの目が開く。
(食べられる物が無いから仕方なく飲んでいるが……精神的にきついな)
これまでの食事風景を思い出し苦虫を嚙み潰したような顔を浮かべる。
アルム=ライタードに転生した当初は状況が理解できず成るように行動してきたが、この三か月で現状を理解し始める。
まず前世の俺が生きていた時代から数十年、もしくは数百年ほど経っているということ。そして恐らくかつて住んでいた土地では無いということだ。
立つことも難しいこの肉体ではそれぐらいの情報しか集められなかったがそれはこれからで良い。
「……ってそうじゃない。そんな事よりも考えるべきことがあるだろう」
独り言で自分を咎める。
現状を理解することよりも大切なこと、それはこのまま生き続けるのかどうかだ。
俺は生きるのを諦めて死んだからこそ、幸か不幸か転生を果たした。人生をやり直す絶好のチャンス、そう考える者は多いだろうが《《死神》》だった俺にそんな権利なんてあるはずがない。
仰向けから四つん這いになってベッドの柵に寄り掛かる。
「ここから落ちれば、多分死ぬ……」
赤ん坊から発せられないであろう単語を次々と発する。
何度も刺殺された俺がなぜあの時だけは死ねたのか、理由は分からないが今では意図も容易く死ねるだろう。
柵に体を押し付けながら何とか立ち上がる――――。
「……⁉」
居間から父親のロイドの声が聞こえてすぐに横になる。
それと同時に寝室の扉が開けられ、音を立てないよう穏やかな足取りで俺の方へ向かって来た。
「やっぱ仕事前は可愛い息子を眺めるのが一番だ。ほっぺた柔らけぇ」
気色の悪い声を漏らしながら俺の頬を指で突いた。
普通の赤子であれば起きてしまうだろうが、もうすぐ午後の仕事が始まるためそのまま狸寝入りを続ける。
「良しッ! 父さん頑張るからな」
元気を得たロイドは意気揚々に寝室を飛び出した。
「……危うくバレるところだった」
そっと胸を撫で下ろすも自身の言動に疑問が生じた。
何故おれは正体がバレるのを恐れた? これから死ぬというのなら他人にどう思われようと関係ないじゃないか。まさかこの世界に未練があるとでも言うのか……。
「無い、あるわけが無い!」
短い期間とは言え、この温かな家庭の空気に影響を受けたようだ。
間違った判断を起こさないようさっさと死のう。
俺は再び柵に寄り掛かりながら立ち上がると、微弱な力でよじ登って柵の外に上半身を晒した。
投身自殺には高さが物足りないが赤子には十分な高さだ。
「ようやく、俺は――――」
自重に任せて身を乗り出したその時、棚に飾ってあった家族写真がふと目に付いてこんな考えが過ぎる。
アルムが死んだら両親はどう思うのだろうか……。
「ッ⁉」
抑えつけていた生存本能が目覚め、両手で柵にしがみ付いて重心を下半身にずらして再びベッドに横たわる。
「何やってんだ、おれ……」
飛び降りることも出来ない情けない自分に腹を立てる。
「俺は……ギールじゃない!」
否、何の罪も犯していない服屋の息子を殺しかけたことに腹を立てたのだった。
「自分の子供が死んでしまったらどれだけ辛いのか、知っているだろう……!」
俺は過去のトラウマを思い返す。
正確には生まれる前に母体と共に死んでしまったのだが、それでも俺は顔も見た事が無いその子に深い愛情を向けていた。
そしてその感情はあの二人も変わらない、その愛を注がれてきた俺だからこそ理解できる。
子供のために仕事を頑張ってきたのに、その子供が死んでいたらどう思うかなど考えるまでも無い。
妻子を失った俺のように身を引き裂かれるような思いを知ることになるだろう。
そんな苦しみを経験させたくない、そして何よりもう人を殺したくない。
「……でも、それじゃあ俺はどうすれば良いんだよォ‼」
昂る感情を抑えきれず大声で泣いてしまう。まるで本当の赤子のように。
数秒後、居間から駆け足で誰かが近づいて来る。
「はいはーい、どうしたのかなぁ?」
レイナの両腕が優しく、温かく俺の体を包み込んだ。
「アルムが泣くなんて珍しいな!」
「怖い夢でも見たのかな? 大丈夫。お母さんが傍にいるから」
一階からロイドが心配しながら声を掛けるも無視して俺に語り続けた。
「おじゃじゃ、どうずじゃじゃあ……」
(俺は、どうすれば……)
俺は泣きながらレイナに尋ねる。
こんな事を聞いても答えられるわけが無い、それ以前に伝わりもしないだろう。
しかし他者に生き方を教えてもらえなければならないほど自分を見失っていた。
「お父さんもお母さんも一緒に傍に居る、だからそんな不安にならないで」
聞き取れなかった問いに答えられる訳も無く、レイナは俺の頭を撫でるだけだった。しかし昂っていた感情は終息し落ち着きを取り戻す。
再び寝たふりをして仕事場へ戻そうとするもしばらくの間、彼女は俺を抱きかかえたまま寝室を歩き回っていた。
早く行って欲しいと思いながらも優しく包み込んでくれる彼女の腕の中はとても居心地がいい。
彼女の腹から生まれたからなのか、それとも亡き妻と同じように心を許した人だからなのか、答えを見つけ出す前に本当に眠ってしまう。




