1 さようなら、私の世界
「ごめんなさい」
薄暗い地下室に、懺悔の囁きが反響する。若くか細く可憐な声。壁面に語りかけるかのような姿勢で俯いているため、その女の顔には陰が差し面立ちは判然としない。
石積みの壁が、室内に圧迫感をもたらしている。一つしかない壁掛けランプの上で小刻みに揺れる灯が、女の手に握られた曰くありげな小瓶を淡い白色に照らし出した。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
女はうわごとのように繰り返し、全身を震わせながら、小瓶を開栓する。ふっくらとして形の良い唇が瓶の口に触れてもなお、女の声は止まらない。
「ごめんなさい」
小瓶が傾き、底面が天井を仰ぐ。ごくり、と喉が上下して、内容液が女の体内に吸い込まれていく。
徐々に四肢が脱力する。白魚のごとく指先から小瓶が滑り落ち、甲高い音を立てて床を転がった。
「ごめんなさい、私は」
吐き出された最後の呼気に、言葉が混じる。
「あなたのことを愛せない」
自らの境遇を嘆き人生を手放した女の最期の言葉は、誰に聞かれることもなく、石壁に吸い込まれて消えた。
※
――蒲原さんっていい大人のくせに、ぬいぐるみを集めているんだってさ。
人間関係良好、福利厚生充実。絵に描いたようなホワイト企業で快適なオフィスワークを送っていたはずの私、蒲原リサはその日、自分がいかにお気楽だったのかを痛感していた。
オフィスの端に位置する給湯室。女性社員の溜まり場だ。定時過ぎ、いつも通り退勤。日中に紅茶を入れていたマグカップを洗浄して帰宅しようとしていた私の耳に、心無い噂話が忍び寄る。
――集めるだけじゃなく、自分でも作っているらしいよ。それも尋常ない量。
――えー何それ。一個や二個ならともかくね。
――買うんじゃなくて作るってところにも執着を感じるなあ。ほら、自分好みに作りたい拘りがあるってことでしょ。
――あ、もしかしていつも鞄に付けている黒い犬みたいなキーホルダーも?
――やだ! ちょっと気持ち悪く見えてきた。
十中八九、彼女らの噂話の対象は私だ。くすくすと楽し気な声が反響している一画に何食わぬ顔をして乗り込むほど、私の心は強くない。私は、デフォルメされたインコのイラストがプリントされた水色のマグカップをぎゅっと胸に抱きしめて、そのまま踵を返してトイレに向かう。手洗い場で軽くマグカップを洗い、洗剤を使うのは明日にしようと諦めた。
何事もなかったかのような顔を取り繕い、「お疲れ様でした」と頭を下げて、エレベーターを呼ぶ。ちん、と到着の音がしたはずだけれど、ショックを押し隠す私の耳には届かない。それほどに上の空だったのだ。
私は子供の頃から、俗に言うオタクだった。何の、と問われればモフモフの、と答えるしかない。
犬、猫、小鳥など、世の中にはモフモフが満ちているのだから、自ずと守備範囲が広くなる。二次元三次元問わず、好きなものにはとことんハマり、時間もお金も趣味のために惜しみなく注ぎ込んだ。そうこう過ごすうちに気づけば今年で三十歳。ワークライフバランス重視の平社員。彼氏なし。ただただ趣味に生きる地味女。それが私、蒲原リサなのだ。
だがしかし、オタクであることは巧妙に隠し続けてきた。
というのも中学生時代、当時ハマっていたモフキャラのグッズを、観賞用、利用用、布教用の各三つずつ収集していたことがクラス中に知れ渡り、以降数か月間に渡り揶揄われた過去があるからだ。当時の教訓を元に、趣味は心の内に留め、親しい人にしか打ち明けたことがない。
それなのにどうして、私のぬいぐるみ収集・製作癖が社内で話題になっているのだろうか。
「スミレだわ。だってあの子にしか言っていないんだから」
停止して開いたエレベーターから出て、私は呟いた。
スミレは同期の女性社員。公私ともに仲が良く、私の趣味趣向についても知っている。
スミレが私の趣味を社内の同僚に漏らしたとすればそれは、悪意があってのことではないのだろうけれど、結果として私は笑い者にされてしまったのだ。スミレを恨む訳ではないが、彼女の軽卒さに失望したのも確かだ。
「スミレの馬鹿」
ぶつぶつと独り言を垂れ流しつつ、会社のビルを出る。
季節は梅雨。じっとりとした生温い風が全身を包み込む。腕を打つ冷たい物に気づき、藍色がかった夕方の空を見上げる。薄い灰色をした雲からぽつぽつと、雨粒が落ちてくる。
なんだかいっそう気分が暗くなる。私は折り畳み傘を開き、布地の紺色に隠れるようにして溜息を吐く。
雨は嫌いだが、傘は好きだ。誰にも顔を見られることがなくなるから。私はぼんやりとした頭のまま交差点へ向かう。
「誰にも言わないでねって、お願いしたのに。はあ、明日の出勤、気が重いなあ」
こういう日には、好きな音楽を大音量で聞くに限る。私はワイヤレスイヤホンを取り出し耳に突っ込んで、お気に入りのアニメ音楽を流した。
途端に世界が色づくように、気分が一段明るくなる。
「まあ明日のことは明日考えよっと。今日はあのドラマの最終回があるし……」
音楽に合わせ足を進めながらも、顔面を傘で隠し、駅へと向かう。その瞬間。
ゼロが四つ付く値段のイヤホンが発揮する高性能ノイズキャンセリング機能すら突破するほどの、強烈な警笛音が耳を打つ。傘をずらし、驚き顔を上げる。私は、信号のない横断歩道の真ん中にいた。
そして。
左側から突進してくる大型トラックのライトが真っ白な閃光となり目を刺して、運転手さんの驚愕の面持ちが脳裏に焼き付いた。次の瞬間、私の意識は暗転した。