後編
退院してから初めての日曜礼拝である。誰もいなかったらどうしよう、と心配していたが、これまでにないほどたくさんの聴衆が集まった。
正直なところ、彼はひしめき合う信者を前にして、かえって気後れした。
それでも壇上に立つと、神が手を差し伸べてくれたような高揚を感じ、満足のいく説教を行うことができた。
彼は銀行で人質となって射殺されそうになったこと、彼を撃った銀行強盗が、人々の目の前で心臓発作を起こして死んだことを、巧みに織り込んだので、聴衆も満足して最後まで聞き入った。
全ては神の御心の業であることを、彼も信者も一体となって得心した。
礼拝を終えても、信者はすぐに帰途につかず、顔見知りを見つけては挨拶を交わした。
常と変わらぬ光景であった。ただ、諸般の事情で礼拝から足が遠のいていた人が久々に出席したため、この日は立ち止まる人も多かった。
それでも漸く帰り始めた聴衆を掻き分けてまで、教会へ戻る人はいなかった。ただ一人を除いて。
その老婆は、礼拝に来たとは思えない乱れた髪型で、服装も手入れを怠っていた。生地の具合などを観察すればむしろ、元はそれなりの家庭であったことを思わせた。老婆は好奇の眼差しをものともせず、とうとう彼の前までやってきた。
「あんた」
「どうなさいましたか」
彼に慢心が兆さなかったとは言えない。
信者の賞賛を一身に浴びている最中であった。それでも彼は、異様な風体の老婆に温かな調子で応じた。
「あんたのせいで、わしの身内が死んだ。どうしてくれる。何が神の僕じゃ。人の命を奪って生き延びるなら、悪魔と同じじゃないか」
彼ははっとした。周囲に群れていた信者も一瞬固まった。老婆は怒りに任せて、彼に掴み掛かった。彼は床に倒された。
「この婆さん、あの銀行強盗の親せきだよ」
誰かが鋭く言った。途端に、信者の手が老婆に伸びて、彼から引き剥がした。その銀行強盗事件では、他にも犯人に撃たれて怪我をした人が何人もいた。
「この人が手を下して、あんたの親せきを殺した訳じゃないだろ」
「八つ当たりもいい加減にしろ」
信者達の罵りは、老婆の耳に届かなかった。ぐったりとした老婆は、既にこと切れていた。
「神がご判断を下された」
「でも、ここ教会の中だぞ」
人々は顔を見合わせた。
「この婆さんが、銀行強盗した訳じゃないものな」
「強盗した親せきのせいで、相当苦労したらしい」
誰かの一言で、その場の空気が変わった。
そもそも教会の中での死に、善なり悪なり特別な意味を見いだすべきか、迷いが生じたのだ。
彼らは答えを求めて、老婆に襲われた彼に目を向けた。
彼は気を失っていた。
教師が教科書から目を上げ、笑顔で言った。
「みなさん。このように、あんまり悪い事をすると、神様がみなさんから命を取り上げてしまいます。そうして、良い事をし続けていれば、間違って死にそうな目に遭っても、神様が命を継ぎ足してくださいます。ですから、みなさん。悪い事をしないで、いつも良い事をするように心がけましょうね。わかりましたか」
「はーい」
同級生が明るく返事をする中、彼は一人手を挙げた。教師が笑顔のまま、指名する。
「はい、先生。悪い事ってどんな事ですか」
「お父さんやお母さん、それから先生の言う事を聞かない事ですよ」
彼には他にも質問が残っていたが、チャイムが鳴って授業の終わりを告げた。児童は教師を取り囲んで教室の外へ連れ出してしまった。教師の笑い声が外から聞こえた。
「あらあらみなさん。そんなに押しちゃいけません。言う事を聞かないと、神様に言いつけますよ」
彼は一人教室に残って、窓に目を向けた。外の景色は見ていなかった。心の中で別のことを考えていた。
昨日、彼は母親から叱られた。妹を泣かせたからだ。妹が、彼の持っていたお気に入りの色鉛筆を欲しがったのに、渡さなかった。彼は他に色鉛筆を持っていないし、いずれ学校でも必要になるから買ってもらったのだ。
それに、以前、彼のお気に入りの筆箱を妹が欲しがったので仕方なく貸したら、壊されて返された。だから妹には色鉛筆を渡さなかった。
でも、母親が彼を叱ったということは、彼は悪い事をしたということである。妹を泣かせたこと。色鉛筆を渡さなかったこと。それが悪い事だったのだ。
ところで、妹が兄の持つ色鉛筆を欲しがるのは、悪い事ではないのか。欲しいものが手に入らなかったから泣くのは、悪い事ではないのか。兄の筆箱を壊して謝りもせず返したのは、悪い事ではないのか。
神様が、これまで妹を生かしているということは、悪い事ではないのだ。
そんなことを考えた彼は、また一つ悪い事をしたような気がした。
では、悪い事をした彼は、神様に命を取られるのか。そう考えるだけで、もう心臓がどきどきしてきて、彼は今にも死にそうな心持ちになった。
しかし、休み時間が終わっても、彼はまだ生きていた。体の具合も悪くない。
彼は神に許されたのだ。
すると別の心配が持ち上がった。今ごろ妹が、危険な目に遭っていないだろうか。それとも、神に許された彼を叱った母親が、今度は罰せられるのではないか。
早く学校から帰りたい。彼は授業が始まっても、残された家族を心配し続けた。
雨上がりの道でブレーキをかけた途端、自転車のタイヤが滑って、もろともガードレールに突っ込んだ。そのままガードレールの上ででんぐり返しをするように、彼は道の端を飛び越えた。
崖の切り立つ山道である。あちこちから大木の枝が伸びているのに、まるでひっかからない。枝の間を縫うようにして、彼は落ちて行く。物理法則からいってもせいぜい数十秒しかないのに、ひどく間延びして感じられる。これはひょっとして死ぬかもしれない、と思った途端、彼は喜びがこみ上げた。
これで神の御業を体験できる。これまで彼が積み重ねてきた善行が、神の御手によって証明され、報いられる時が来たのだ。
彼は自分の善行を数え上げた。礼拝を欠かさないのは当然として、礼拝に行く度に寄附も怠りなかった。道行く人には笑みを絶やさず、婦女子には特に親切を尽くした。
彼は商売をしていたが、決してごまかしたこともなければ、生活と寄附に必要な分以上の金を儲けようとしたこともなかった。子ども達には菓子を与え、抱き上げたり膝の上に座らせたりして、一緒に遊んでやった。そうすることで彼は、危害を加える大人達から子どもを守る役目も果たしていた。
家に帰りたがらない子どもがいると、彼は家に泊めてやった。親の温もりを代わりに与えるべく、同じベッドに入りさえした。
子どもたちは成長すると彼のもとから巣立っていき、思春期には彼を避ける者も出たが、彼は温かい眼差しを返し続けた。
彼は商売をしながら、常に新たな庇護すべき子ども達を見いだすので忙しく、離れていく子を無理に追いかける暇などなかった。
子どもが巣立つのと入れ替わりに、新しい幼子が次から次へと現れた。
彼は孤児院にもしばしば寄附をした。孤児の養子受け入れ先探しに奔走し、特に見込みのありそうな子どもについては、自ら引き取って親代わりに可愛がった。
大きくなった孤児には就職の世話もした。寄る辺のない子どものために、墓を建立したことまであった。
これほどまで弱き者たちに愛情を捧げてきた彼に、神は今こそ恩寵を与えるべく、こうした事故を起こされたに違いない。
彼は薄れゆく意識の中で、わくわくしながら神の御手が現れる瞬間を待ちわびた。彼の意識が地上で戻ることはなかった。
彼の死後、自宅の裏庭で、子どもの白骨が複数体分埋められているのが見つかった。




