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前編

 殴っている殴っている殴っている。

 みしりと骨の(きし)む音がこだまし始める。殴る手は止まない。その先には太い棒が握られている。

 棒は唸りを上げて振り下ろされる。上から下に。右から左へ。左から右へ。


 始めは立て続けに聞こえていた悲鳴も、次第にか細く途切れがちになる。手足を縛られているので、もとより抵抗することはできない。


 不意に、殴打が止んだ。からからと棒が床に転がる音と、どさりと重い音の後には、咳一つない静寂ばかりが残る。やがて、微かなうめき声が起こる。殴られていた者が意識を取り戻したのだ。


 彼は呆然と目を見開いて、密やかに呼吸を始める。静寂に気づくまで時間がかかる。ゆっくりと、縛られた手足を動かしてみる。既に与えられた痛みが彼を襲う。


 しかしながら、新たな衝撃は訪れない。涙も枯れ果てた彼の目に、小さく希望の光が灯る。

 痛みを堪えながら、体を動かして周囲を窺う。思いがけず間近で、迫害者と目が合い、手足が硬直する。それも一瞬のこと。彼は大きく安堵の息をつく。


 相手は間違いなく死んでいた。外傷もなく、急に魂を抜き取られたかのように、ただ床に横たわっていた。




 彼は目を覚まして、周りに集う人々を見回した。

 一様に笑顔である。起き上がろうとすると、誰かの手で寝かされた。


 「よかった。気がついた」

 「まだ、安静にしていた方がいい」


 それで彼は、自分が生きていることを知った。てっきり崖から落ちて、死んだものと思っていた。


 ぐいぐいと迫る岩の尖り具合が、今でも目と鼻の先に見えるようだった。

 それでいて、突き刺さる痛みは覚えていない。激突の瞬間から記憶が途切れている。


 こうして生きているところから推すに、途中で木の枝にでもひっかかって軌道が変わったのだろう。岩に刺さる、と思って意識を失ったまま、落ちたのだ。でなければ、生きている筈がない。


 「助かって、本当によかった。まさに、神の御業だ」


 彼の師の声がした。師は医術を生業としていた。彼の村ばかりでなく、四方から病人を治して欲しいと引く手あまたであった。彼は師に弟子入りし、及ばずながら師を手伝っていた。

 この度も、急斜面にしか生えない貴重な薬草を採りに出かけ、誤って足を滑らせたのであった。


 「あの」


 彼は必死に掴んだ薬草の行方を尋ねた。師は微笑んだ。


 「ありがとう。お前のおかげで、赤ん坊を助けることができたよ。今は、安心してお休み」


 彼はほっとして目を閉じた。誰かが額に手を当てた。綿を取り替えているらしい。額がずきずきと(うず)いた。




 ぼんっ。どーん。がしゃん。

 派手な音を立てて自動車が止まった。赤信号を無視して右折しようと横断歩道にいた人をはね、そのまま歩道に乗り上げ、店舗のガラス壁に突っ込んだ。


 たちまち野次馬がたかる。車の運転席に座っていたと思しき人物は、上半身でフロントガラスを突き破り、うつぶせになっていた。血まみれで、既にこと切れている。


 横断歩道を渡っていた人も、車に跳ね上げられたままこと切れていた。こちらも血まみれである。辺りには割れたガラスを手始めとして、車内にあったものか骨付きチキンや果物、トイレットペーパーに食パン、作り物の鴨や積み木など、さまざまな物が散乱していた。


 「さあ、警察を呼んだからね。野次馬は散った、散った」


 車に突入された店から出てきた人が、手を振って叫ぶ。車の近くにいた野次馬が後じさりするが、厚い層に阻まれて遠くまで退却できない。野次馬同士、仕方なさそうなジェスチャーを大げさにしてみせて、その場に留まる。店の人も、しつこく追い払いはしない。


 「あっ。こいつ、この間の強盗事件で防犯カメラとかに映っていた奴だ。ネットで見た」


 野次馬の一人が、車に乗り上げて死んでいる人物を指す。野次馬の塊が動き出す。代わる代わる件の人物に近づき、顔を確かめる。


 「インターフォンのカメラじゃなかったっけ」

 「それ、俺も見た。そっくりだ」

 「強盗犯人だったのか」


 ひとたび死人の顔を確認すると、野次馬は順次散っていく。警察が到着するまでには、野次馬はほとんど残っていなかった。




 火の手は天井にまで回っていた。彼は煙を吸わないよう、手近にあった花瓶を倒してタオルを濡らし、鼻と口を覆いながら部屋を出た。


 廊下も火の海である。妻の部屋の扉は閉まっている。逃げていれば、開いている筈だ。彼は髪の毛の焼ける臭いを感じながら、ドアノブを握った。反射的に手を離す。熱くてとても握れなかった。


 「おーい。大丈夫か」


 妻の名を呼びながら、ドアに体当たりする。背中が焼けるように熱い。体当たりするまでの(わず)かな合間に耳を澄ますが、生きた気配は感じ取れない。


 何度目かに、木製のドアがめりめりと音立てて割れた。彼は部屋に転がり込んだ。

 煙が充満する部屋の中、妻は暢気(のんき)にベッドで寝入っていた。彼は怒り半分、安心半分で揺り起こした。妻は全く目を覚まさない。それどころか、体の動きが奇妙な具合だった。


 「もしかして、死んでいる?」


 遅まきながら脈を取ろうとする彼の耳に、鈍い爆発音が届いた。続いて視界がオレンジ色に染まり、彼の意識は途切れた。


 彼が目を覚ましたのは、病院だった。独特の景色と臭いですぐにわかった。


 全身がひりひりちくちくと、その他形容し難い痛みに襲われる。少しでも動くと、新たな痛みが生じる。彼は痛みを堪えながら少しずつ首を動かして、妻の姿を探し求めた。


 妻は隣にいた。じっと観察すると、胸が(かす)かに上下するのが見えた。彼は喜びで満たされた。

 妻は生きていた。死んだと思ったのは、間違いだった。ドアが開いて、看護師が入ってきた。患者の目が歓喜の涙にまみれていることに気づき、にっこりとした。


 「もう大丈夫ですよ。あなたも、奥様も命に別状ありません。学校の生徒さん達も随分心配していましたよ。一度にたくさんの人に会うと疲れてしまいますから、もう少し元気になってから、顔を見せてあげてくださいね」


 彼は声を出す事も、わかるように頷くことも難しかったので、目で精一杯応えた。生徒達が元気にしているかどうか、自分の容態もそっちのけで、心配を始めていた。

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