猫
猫は猫である。
二本の足で立つわけでも、よくわからぬ鳴き声で意思の疎通を図るわけでもなく、毛無の獣のようによくわからぬ命無き巨大な物を操るわけでもない。
路傍の石と変わらず、ただそこにあるだけの存在である。
己を養ってくれるものもなく、己ひとりで生きると決意したのはまだ目も確りと開かぬ頃であった。
親の顔は知らない。記憶があるころには既にひどく狭く埃っぽい場所に居た。
猫の縄張りであるこの場所にも、毛無の獣は現れた。彼らは、猫が縄張りを主張するように話しかけると、ショバ代として飯を置いて去っていく。
ひょっとしたら、自分の子分なのかしらん。猫は時折そう思うが、縄張りを入れ替わり立ち替わり訪れる毛無は、誰も彼もが一度訪れるだけで、何度も訪れるものはない。
それならば、自分の子分ではなく、自分を崇める信者なのだろうか? 猫は自問自答するが、結論は出ない。
毛無の中にも時折、同じ個体が何度も猫の所を訪れ、飯を置いていくことがある。
その毛無は、他の毛無のようにこちらへと高く不愉快な声で長々と話しかけ来ることはなく、ただ静かに飯を置いて去っていく。
猫はよく来る毛無のそんなところが好きであった。
話は変わるが、猫には同胞と呼べる存在がいた。
彼は、茶色と白と黒の毛皮をしていて、猫らしく好奇心旺盛で物おじしないやつだった。
同胞との出会いは、劇的なものでも、ロマンチックなものでも、奇跡でもなかった。
いつのことだったか、記憶力に自信はないが、たしか茹で上がりそうなほどに暑い日だった気がする。
同胞は暑さを気にも留めず、悠々と猫の方へ歩いてきた。
この頃には、辺り一帯に住む他の同族たちを伸して自分の縄張りとした猫へ話しかけるものは居なくなっていた。
猫のうわさも聞いていただろうに、同胞は臆することなく話しかけてきたのだった。
「君はいつもそうやって、しかめっ面をしているね。いったい何を考えているんだい?」
同胞はそう言うと、しっぽをゆらりと動かしながら、こちらを見つめた。
「何も。何も考えていないさ。
ただ、この繰り返す日々がどうやって続いているんだろう、毛無はどこからきてどこへ行くのだろう。このうす暗く埃っぽい世界はどこまで続いているんだろう。
…………そんなことを考えていただけだ」
同胞は不思議そうに眼を瞬かせると、猫に近づいてきた。
「ふうん、君は難しいことを考えるんだね。ボクには分からないや。
ボクがボクとしてここにある。ご飯がおいしい。それだけでいいと思うんだけどな」
同胞はそう言うと、猫の前にそっと何かを置いた。
「これは?」
どうやら、いい匂いの石のようだった。石から漂う濃厚な魚の気配が鼻孔をくすぐった。
「ここのボスに献上しようと思ってね。
まあ、それを口実に君と仲良くなれたらって思ったんだけど……
ボクはいつもひとりぼっちなんだ。だから知り合いがいたら楽しいと思って」
そう言った同胞は母猫や兄弟を失った子猫のような瞳をしていた。
いったいお前に何があったんだ。出会ったばかりの同族にその言葉はどうなんだろうと思いながら、猫はふうん、と相槌を打った。
「でも、他の同族は言うんだ。君と仲良くするのはやめておけって。ここの縄張りのボスと仲良くするのはずるいぞって」
普段はボクのことを爪弾きにして虐めているのに、現金だよねぇ、と同胞はどこか居心地が悪そうに笑った。
同胞以外の気配を感じ、周囲へと視線を巡らせる。どうやら、この縄張りに住む他の同族たちはこちらの様子をうかがっているようだった。
何かにおびえるような、それでいて何かに期待するような目で、彼らは猫の方を見ていた。
「……なるほど、虐めていた同族からすると、権力にすり寄って報復されるんじゃあないかって恐れているってことか。
酷く、くだらない。
あの同族たちは、私と必要以上のかかわりを持とうとしないやつらだ。
それに比べたら、お前のように臆せず話しかけてくれる者のほうが心証が良いに決まっている」
それが同胞との出会いであった。
あの後、猫たちは互いが孤独であることだけでなく、存外気が合うことを知った。
あの日から、猫は、孤独ではなくなった。
そうだった、はずなのに。
同胞は、毛皮の無い大きな飯のタネを見つけて出て行ってしまった。
愛想の一つでもふりまけば、自分も彼のようにパトロンが見つかったのかもしれぬ。
考えても詮無きことだ、と猫は思った。
あの時の同胞はひどく悲しそうな瞳をしていた。
「ボクを連れて行くのなら、彼も連れて行ってよ!」
同胞がそう言いながら、ここを去っていったことは今でも覚えている。
毛無の獣は、同胞の声に耳を貸すことなく、去っていったことも。
それから少しだけ、世界が色あせて見えたことも。
たとえその他のことを忘れたとしても。
同胞との思い出だけを、猫は忘れず、ずっと覚えている。
それから何度も、暗くなって、明るくなった。
待てど暮らせど、同胞はもう、帰ってこない。
いつかは同胞のことを忘れるのではないか、猫はそれだけが怖かった。