銃と願い (1)
ことが起きたのは、突然だった。
いや、必然という者もいるかもしれない。
エスターの暮らす村は、人口が百人にも満たない小さな小さな村だ。修道女として、数人の神父とともに、神の――聖会の教えを広めることが、エスターの仕事だった。
小さな村とはいえ、やることはたくさんあった。
学校の代わり、病院の代わり、新しい薬の開発に、薬草園の手入れ。
それに――朝夕のミサ。
そこまで考えたところで、エスターはきゅっと目元を強ばらせた。
決定的な事態となる全てが起きたのは、ミサの行われる聖堂の中だった。朝の掃除をしていたエスターと神父たちの前に、村人の集団が現れた。
目に浮かべた凶暴な色と、押し入るようなその様子から、尋常でないことは明らかだった。
そして、村人たちの後ろで笑顔を浮かべる、でっぷりと肥えた姿――ここ半年前から、不思議な力で大きな勢力をもつようになった新興宗教の教祖の姿だった。
聖堂を明け渡せ、という村人たちの主張と、神父たちの抵抗が交錯し、業を煮やした村人が、神父に殴りかかり――
そこから、取り返しのつかない事態に発展するのは、本当に、そう本当にまたたく間だった。
激しい喧騒と、怒号と、悲鳴と。
耳をつんざくような雑多な音の中、エスターはただ、すくみ、今にも崩れ落ちそうな足を抑えつけていることしかできなかった。恐ろしくて、まるで、小さな子供に戻ってしまったかのように、目元に涙を浮かべてエスターは立ち尽くしていた。
人が獣のように見えた。
意識の片隅で、逃げろ、と自分自身が叫んでいた。訴えていた。
それでも動けないでいたエスターを抱え上げてくれたのは、一人の神父だった。派遣されてきたばかりの、若くて頑丈な体をした男だった。
こんな状況にも関わらず、普段と変わらないどこまでも真っ直ぐで、真面目な印象が消えていないのが不思議だった。
追え! 逃がすな! そんな怒鳴り声を背に、神父はエスターを抱いたまま、外へと出た。
小ぢんまりとながら広がる薬草園がエスターの目に入ってくる。
間に、合わなかったのか――
エスターのため息と同時に、神父の体がぐらりと揺れた。荒い呼吸を耳にして、ようやくエスターは横抱きにされたままの自分に気づいた。
「……ひでえ旧式だな」
小さく呟く神父のその言葉の意味は分からない。そもそも、問い返す余裕などなかった。
下ろしてもらえるように頼みこみ、神父の声に従い、力一杯に走り出す。近づいてくる足音と、取り乱した声と、金属の触れ合う音は、エスターの体の芯まで震え上がらせる。
だが、それに負けている余裕さえもエスターにはなかった。
神父の声が聞こえない。
足音も、息づかいも――そう気づいたのは、息が切れるほど走ってからだった。
「――神父さま!」
エスターは振り返り、それから叫んだ。
神父は倒れていた。神への誓いを示す純白の衣装を赤く染めて。
エスターの叫び声に気づくと、神父は顔を上げて、苦い笑いを浮かべた。
強気な表情が浮かぶ。
生意気そうな光も目に映る。
「行け」
短く言う。
すでに、後ろからはたくさんの村人たちが押し寄せてきている。
エスターが神父に駆け寄るよりも先に、倒れた神父の体が村人たち――今や暴徒と化した彼らに覆われてしまうだろう。
だが――エスターは足を止め、駄々をこねるように首を振る。
「いや、です」
「行くんだ、エスター=ミシェル」
有無を言わせないその声と目の光に、エスターは弾かれたように走り出した。
「逃げて、助けを求めろ、声を上げろ」
背後で神父がさらに声を上げていた。
その声に背中を押されながら、不甲斐ない思いに胸を締め付けられながら、エスターは走る。
――結局。
汗と涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭うことさえ思いつかずに、エスターはきゅっと下唇を噛んだ。
結局、私には何もできないのか。他の誰かに救われた命を、誰かを助けるために使いたい、捧げたいと思っていたのに、やっぱりダメなのか。
冷たい、悪意の塊のような黒い靄が、自分にかぶさって来るような気がする。
錯覚だと思いながらも、覚えのあるその感覚はエスターの胸を締めつけた。
思い出せないほどの過去、自分はこの感覚にとらわれ、覆い尽くされた。つい先日も、感じたはずだ。激しくて、それでいて静かで濃い悪意の塊を。
「あっ……」
黒い靄が足に絡まった――ような気がした。
その瞬間、エスターの太腿に鋭い痛みが走り、足がもつれた。前へ進みたいという上半身の重いと相反するように、エスターは地面に転げる。もうもうと立ちこめる土煙りがエスターの視界を濁らせた。