序章
書き溜め分放出です。
これが完了する前に、どうにか新作を完成させたいものです。
何故――
エスター=ミシェルはあえいだ。
何故、このようなことが起こったのか。いや、今起こっているのは何なのか。
「大丈夫? ごめんね、変な体勢で苦しいかもしれないけどもう少しだけ我慢して」
エスターをおぶった男がいたわるように言った。
そうではない、エスターは今も大事に、慎重に扱われていて、不平を言うどころではない。
泣いているのは、嗚咽のわけは――
「こんなの、殺されることを思えばなんてことないわよね」
前を走る女が振り返って、意地悪そうな笑みを浮かべた。
男の優しい声とは対照的に、突き放すような、鋭い口調である。
単刀直入な女の声に、エスターはひゅっと息を吸った。
乱れに乱れた呼吸、鎮めようと体中が必死になっている呼吸が、再び暴れ出す。嗚咽と、息切れと、しゃっくりが一気に出て、エスターは咳こんだ。
鳴りつづける脈拍に合わせて、激しい痛みが襲ってくる。
「ちょっとレイナ、あんまり刺激させるようなことを言わないでよ」
男が言って、地面にふわりと足をつける。
エスターにそれを知る余裕などないが、二人分の体重がかかっているとは思えない、軽く柔らかな足取りだ。
「大丈夫よ、イチロウがいれば命まではなくならないわ」
レイナと呼ばれた女は、イチロウ――エスターを背負っている男の咎める声などまるで意に介せずに続ける。
「それに、今のうちに状況を把握してもらったほうがいいわよ。効率的だし。合理的――でしょ?」
「まあ、そうなんだけど……少し落ち着いてからじゃないと、受け入れられるものも受け入れられなくなっちゃうよ」
「受け入れる入れないの問題じゃないでしょ」
苛立たしげなレイナの声は、息ひとつ乱れていない。
飛ぶように――まさに飛ぶように、だ。転がった石や木の根を好んで選んでいるように走るレイナは、目を瞠るほどのスピードだった。あっという間に先へ進んで、エスターを背負ったイチロウを待って、憎まれ口を叩いては再び走りはじめる。
間断的とはいえ、ほとんど走りどおしにもかかわらず、まだ、エスターの全力疾走など比べ物にならないくらいの速度だろう。
それなのに、呼吸一つ乱れず、汗をかいた様子もないのが不思議だった。
「状況は真っ先に見ること。例え、最悪の事態であっても直視すること。基本中の基本じゃないの」
「いつもああだから、気にしないでね」
肩をいからせて走っていくレイナを見送った後で、イチロウはそっとエスターに言った。
「――大丈夫です」
考えれば、このイチロウという男も不思議だった。
汗はかいているようで安心するが、それにしても、エスターをおぶったまま走っているのだ。小柄なエスターだが、負担にならないほど軽いはずもない。
穏やかな表情と雰囲気で、華奢に感じられそうな外見だが、その実、内部にはしなやかで強靭な筋肉が隠れているのだろう。
「それにしても、ひどいなあ」
イチロウは小さく呟いて、エスターの右の太ももにそっと触れた。絶え間なく痛みの襲ってくる場所――鉛でできた凶悪な弾がえぐっていった場所だ。
ほんのりじんわりと伝わるぬくもりに、痛みまでもが薄れていく。
「……辛かったら、無理にとはいわないけど」
振り向かないままで、イチロウが遠慮がちに言う。
「少しだけ、頭の整理をしておくといいよ。あんまり悠長に構えているわけにもいかないと思うし」
「はい――」
素直に答えて、エスターはゆっくりと頭を巡らせる。