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アジーがその男に最初に出会ったのは13歳の時、海沿いの街に逗留しているときのことだった。
世界の情勢は不安定で、三つの大陸がそれぞれに世界の覇権を主張して戦火をくすぶらせているような状況だったのだから、大陸間を航行する船の数は限られていた。そのせいでアジーが籍を置く旅の一座も、もう一週間ほどもこの街に足止めされていたのだ。
興行が無いのだから金もなく、アジーが暇つぶしにできることといえば町をうろつくことくらいだった。
古くは交易で栄えてきたという街並みは、レンガ造りの要塞のようでもある。街の入り口にはオレンジ色に焼き上げられた煉瓦で堅牢に組まれた小さな住居が並び、これは港に向かって少しづつ大きくて豪奢な屋敷へと並び変わってくる。
港の少し手前にはメインストリートが街を横切るように敷かれ、道のわきには小間物を商う一間ほどしかない小店と、レンガと漆喰で塗り固めた今様風の大店が軒を並べてにぎにぎしい。
さらに港へと足を向ければ、あとは安っぽい日干し煉瓦を丹念に編み上げて大きく伏せたような倉庫がずらりと立ち並び、その向こうは潮の香りを含んだ風に吹きっさらされた波止場になっている。
いつもならば多くの船乗りでにぎわうこの倉庫街も、今は風の音が聞こえるほどにがらんどうだった。
そんな倉庫の間を、特に目的もなく歩いていた時のことだ。アジーは突然に呼び止められた。
「おい、坊主」
振り向けば、立っていたのは三十路を少し過ぎた年ごろの男だった。船乗りでないことは体の細さを見れば一目瞭然、どちらかといえば町人風の男だ。
その男の傍らには、上着の裾をつかむようにして幼い少女が立っており、アジーはこれを男の娘なのだろうと思った。
何しろ少女はこぶしが震えるのではないかというほどにみすぼらしい上着の裾を握りしめ、ほかに頼るものなどいないかのように男に体を寄せていたのだから。
背丈のわりにませて見えるほど顔立ちの整った、美しい少女だった。
男のほうはそんな少女の戸惑いに気づかないのか、グイッと前に進んでアジーの手の中に何枚かの小銭を握らせる。
「坊主、これでちょっと、お使いを頼まれてくれないか?」
「お使い?」
「なあに、難しいことじゃない。ちょっと店へ行って、このくらいの女の子が着るような洋服を見繕ってきてほしいんだ」
アジーが自分の手を広げて覗き込むと、そこにはリュクエル白貨が鈍く光っていた。全部で五枚、確かに子供の洋服を買うくらいならば事足りる金額だ。
「これで、洋服を買えばいいのかい?」
アジーが顔をあげると、その男は少し慌てたように上着の隠しに手を突っ込んで、古びた布財布を出した。
「いや、それは駄賃だ。っていうかさ、こういう女の子の洋服っていくらくらいするもんなのかね、おじさん、そういうことにはとんと疎くてさ」
彼が開いた布財部の中を覗き込んで、アジーは小さく唸る。
「すげえ」
そこには紙幣の束が二つほど収められていたのだ。
男は無造作にそのうちの一枚を引き抜いて、アジーに向かって差し出した。
「これで足りるかな?」
それを受け取ったアジーは、ごわつく紙幣を陽にかざして印刷された肖像を確かめる。
「リュクイエル王の肖像だ。おじさん、内地の人なのかい?」
「ああ、まあ……そうかもな」
「やっぱりな、リュクイエル白貨を出してきたから、そうじゃないかと思ったんだよ」
「もしかしてこの街じゃ、リュクイエル貨は使えない?」
「いや、使えるけどさ……」
紙幣から何気なく下したアジーの視線が、男の腰にしがみついた少女の視線とぶつかった。彼女の澄みきったアメジストみたいな瞳には、明らかな怒りの色が含まれていた。
不意に、キンと甲高い声が倉庫の間に響く。
「カドゥ、この子、信用できない!」
声を聞いただけでもわかる気性の強さ。
「この子、私たちが内地から来たことを見抜いたうえで、私たちを探ろうとしたわ、油断ならない!」
少女はさらに身を縮めてアジーをにらみつけたが、男はこれを自分の腰から引きはがして抱き上げる。その表情はあくまでも優しく微笑んで、少女の瞳をまっすぐに覗き込んでいた。
「アネ、そんなことはない、この少年は少しばかり配慮が足りないだけで、悪意はないんだと思うぞ」
「でも、カドゥ!」
「その名で呼ぶなといっただろ。パパと呼べよ、いいな?」
アジーはこのやりとりを聞いて、二人が親子ではないのだと知った。
確かによく見れば男は上着の下にボロ布寸前まで擦り切れたシャツを着ていてみすぼらしい。それに対して少女は、色こそよくある白いシャツに亜麻色のスカートをはいているが、これがあまりに手入れされて素材も上質なものなのだから、ボロを着た男と並ぶと品よく見えてしまうのだ。
アジーだってバカではないのだから、この男の真意に気づいた。
「なるほど、かわいい洋服を買ってやろうっていうんじゃなくて、少しみすぼらしく見える服が欲しいんだよね?」
「お、坊主、賢いじゃん、その通りだよ」
「僕をお使いに使おうっていうのも、リュクイエルの方から来たのを隠したいからだろ」
「賢い、ますます賢いぞ」
男はまるで自分が手柄を立てたみたいに明るい笑顔を浮かべて、腕の中の少女に顔を近づけた。
「な、アネ、この坊主なら大丈夫だろ。なあに、俺は人を見る目には長けているんだ」
アジーはこの言葉にすっかり気を良くした。まるで密命を受けた騎士のような気分になって、くすぐったそうに肩をすくめて微笑む。
「おじさん、だったらさ、こんなお金は使わないで、うちにおいでよ、誰かのおさがりをもらってやるよ」
「しかし、それでは迷惑だろう」
「なあに、迷惑なものか。その子の服は見たところ上等だし、次の街で売っ払っちゃえばいいだけさ。物々交換ってやつだ」
「へえ、難しい言葉を知っているな、若いのに感心だ」
「えへへ、じゃあ、このお金は返すね」
「いや、それはとっておけ。君の親切を買うための金としちゃあ少ないくらいだ」
「いや、お駄賃としては多すぎるよ」
男の表情が、すっと静かな笑みに変わった。
「いいんだ、その代わり、俺たちは君の家へは行かない。おさがりを手配して、ここに持ってきてくれ。その手間に対する対価だ」
「それでもまだ、もらいすぎだと思う」
「いいね、がっつかないガキは好きだ。だが、金をもらったときはもっと警戒したほうがいい、大金ならばなおさらだ」
「け、警戒?」
「それは口止め料も含んでいる。なあに、おじさんたちがここにいることを誰にも話さないでおいてくれればいいだけだ」
「な、なんだよ、警戒しろっていうからもっとすごいことかと思ったら……お安いごようだよ」
「果たしてそうかな、坊主。誰にも知らせないっていうことは、状況によっては俺たちの敵を見抜き、的確な嘘をつけってことだぞ」
「敵って、誰が敵なんだよ」
「さあね、それは君が判断することだ」
男は少女を地面におろし、その額に軽くキスで触れた。
「アネ、少しだけ『壊して』もいいか?」
少女の方はなにが気に食わないのかふっくらとしたバラ色の頬を膨らませ、口を尖らせる。
「ダメだって言っても聞かないんでしょ、どうせ」
「まあ、そうだな」
「じゃあ、勝手にすれば?」
「そんな怒るなって、あとで飴玉買ってやるからさ」
首をすくめたあとで男はアジーに向き直り、上着の前を大きくはだけた。腰には小ぶりのソードが下がっている。
「まさか、戦場で散々俺を守ってくれたお前を、こんな風に使う日が来るとはね」
男が剣を抜けば、その刀身に写り込んだ太陽が白く光を返す。男はそのまま姿勢を正して剣を掲げ、刀身に軽くキスを落とした。
それはリュクイエル地方の騎士がよく見せる公式の作法――アジーはそれをリュクイエル地方の祭りで見たことがあった。
何しろアジーがリュクイエル地方を興行で回ったのは五年も前だ。今より随分と小さかったのだから、詳しくはおぼえていない。
確か戦いの前に己の半身となる剣への忠誠を違う作法だったと覚えているのだが、それをこんな変哲ない倉庫の陰で見ることになるとは……
男のほうは儀式を終えると、へらりと相好を崩してアジーを見た。
「まあ、俺らの敵が何かってのを知るにはさ、まずは俺の正体を知るのが早いだろ」
ひらりと太陽の反射が揺れて刀身が大きく翻った。その切っ先が向けられている先は、男の左胸の辺りだ。
「さあ、とくとごらんあれ、種も仕掛けもありません……とくらぁ」
男は一気に自分の胸を刺し貫く。アジーは顔を背ける隙すら与えられず、男の体を貫通した県の切っ先が彼の背中から生えるように突きあがって飛び出すのを見守ることしかできずにいた。
血は、一滴も出なかった。それどころか男は、剣に刺し貫かれたままで倒れずに立っていた。
「やれやれ、服を脱いでからやるべきだったな、一張羅が台無しだ」
男がおどけて肩をすくめれば、少女が「ふん」と不服そうに鼻息を吐く。
「言っとくけど、洋服は直せないからね」
「わかってるって。まあ、服は何とかするさ」
アジーは二人からわずかに遠ざかるようにかかとを引いてうめいた。
「あ、不死人……」
「ま、そういうことになるかな」
「聞いたことがある……そうか、だからリュクイエル……」
かの地は奇跡の力を持つ一族を王に据えた小国だ。王族がどんな奇跡を起こすかというと、死せるものに再び命を吹き込み、これを手足のように扱う――死操術だと。
「まさか、こんなに小さな女の子が?」
アジーが振り向くと、件の女の子はいまだ不機嫌であることを隠しもせず、腕組みをしてこちらをにらみつけていた。
「なによ」
「まさか、リュクイエルの?」
「ええ、正当後継者よ。まあ、いろいろあって、今はこんなところにいるけどね」
少女はさらに胸を張ってふんぞり返る。
「で、私たちの秘密を知っちゃったわけだから、あなたにはここで殺されるか、私たちの味方になるかしかないのよ」
男はこれをたしなめる。
「おいおい、そんな脅すようなやり方は良くないぞ、坊主がおびえちまうだろ」
「カドゥのやり方のほうが脅しっぽいじゃないのよ、悪趣味だし。いいからその剣をさっさと抜いちゃってよ、修復魔法かけるんだから」
「『パパ』だ。俺を名前で呼ぶんじゃない」
「呼び方なんかどうでもいいでしょ」
「良くない。これはお前の身を守るためでもあるんだぞ、アネ」
逃げるなら今の内だ。
アジーは二人にきづかれないようにじりじりとかかとを後ろに進め、距離をあける。そして頃合いを見て一気に振り向き、そのまま走りだそうとした。