01_3 : 墓穴の先、海辺の命(3)
ひたすらに眠り続け、リツが起きたのは次の日の昼過ぎであった。
リツは自分がどこにいるのかわからず、しばらく周囲を見回した後、ようやく昨日のことを思い出して息を吐いた。そして、鳴り続ける胃をなだめるために水差しからそのまま水を飲み、窓の外を眺める。
ふと、館の外に気配を感じ、リツは身を潜めた。彼は、イコが眠る前に『おじさんが帰ってきた時は隠れてた方がいいかも』と言っていたことを思い出している。
「…………」
リツはそれなりに様子を伺った後、誰もいないと判断して窓から離れた。
蝉がひっきりなしに鳴いている。
裸足のまま扉を開け、リツは居間に向かう。イコは居るだろうかと考えながら。
閑散とした居間には誰も居ず、テーブルに置き手紙があるのみだった。『寝ていたので起さなかった』『学校に行く』『冷蔵庫などから好きなものをどうぞ』という内容が、お世辞にも上手とは言えない字で書き込んである。
台所には、業務用の炊飯器と冷蔵庫がふたつ並んでいた。さらに巨大な冷凍庫もある。まるで相撲部屋のようだ、とリツは笑ってしまう。
少し後ろめたく感じながらも、リツは大量の料理を食べた。そうしなければ痩せ衰えてしまうからだ。
食器を洗い場に持っていった後、リツはソファーに座り込んで目を閉じた。考えなければならないことはいくらでもあった。だが、なにひとつ考えたくなかった。考えなければならないぐらいなら、いっそ死んだほうがマシだった。
リツは、世界のすべてが敵に回ったような気分になっている。それはそこそこ正しい。実際は、彼が、彼の所属している組織が世界の敵に回ったのではあるが。
世界征服。それが、リツの就職したカメリオンという組織が目標としていたことである。
絵空事が甚だしくとも、近くは鉤十字の男、古くはフン族の大王やモンゴル帝国の創始者はそれを為さんとした。また、独裁組織のトップがそういったことを狙うのであれば、下位の者がそれに異議を唱えるのは不可能に近い。
どれほど馬鹿げたことであっても、就職してしまい、もはや戻る場所がないのであれば、その道を行くと腹をくくるしかなかったのだ。少なくとも、リツはそう覚悟した。
だがその結果がこれだった。リツは殺されることを望まれ、殺されかけた。生き残ったとはいえ、その事実が消えることはない。『おまえは必要ないし害悪だから殺す』、その明確な表明が、いまだに彼の心に刺さっている。
肉体的にも、精神的にも、リツはなお疲れ切っていた。
シナモンの匂いが香る。
リツが寝ているソファーの横に、誰かが立っていた。
すらりとした背の高い女だ。あまり美人だと認識されないが、その瞳の強さには性別を問わず心を騒がせられるであろう、そんな威圧感のある女性である。いつものように鱗の模様のあるケープを首に巻きつけていて、その鈍い輝きにリツは憧れの想いを抱いていたものだ。
「あなた、生きていたの……」
女が言う。低い、やすりで削ったようにざらついた声だった。
「……まぁ死ぬよりはマシかしら。虫にも蟹にも、蜘蛛にも毒蛇にもなれなかったけど」
その言葉は、かつてリツが言われた言葉である。それらの適性があれば、攻性戦闘員として、別の任務が与えられていただろう。だが彼にはなく、それゆえ防性戦闘員として、組織の研究船に配属されたのだ。
リツは起き上がってなにかを言おうとした。実際それは叶わず、彼が言いたかった言葉は形を取ることなく消えた。それは悪罵だったか、縋り付くための涙語りだったか、もはや彼にすらわからない。
「またね。もし縁が合えば」
これは夢だ、リツはそう思った。なぜならこの女は、目の前で死んだはずの上司だったから。
味噌の匂いで、リツは目を覚ました。
なにかを煮込む音、包丁がまな板を叩く音。漂う、味噌の香り。それらなにもかもが、リツにとって懐かしく、遠いもの。
リツは身を起こした。割烹着姿のイコが料理を作っている様子が、寝転んでいるソファーから見える。ただ料理を作ってくれることを甘受する日々、それが遥か前に当然でなくなっていた彼にとっては、この状況はひどく胸かきむしられるものだった。
すっと、リツの心に、ここに居続けたいという気持ちが湧いた。
リツはかぶりを振って、その思いをかき消す。出ていかなければならない。ここに留まるのは、あまりにも不自然だ。年端もいかない独居の女の子の家に、若い男が転がり込む。どう考えてもおかしい。
そこまで思い至り、しかしリツは頭を抱えた。ここを出て、どうするのだ。
「ちょっとこれは……」
どうしようもない、とリツは溜息を吐く。
貯金はあるが、組織から給料を振り込まれていた口座が凍結されていないとは思えない。戸籍は活用できるかもしれないが、調べがついていれば、殺し屋が送り込まれてくるだろう。直接、組織の船に襲撃をかけた連中だ、もとより殺害など厭いはしまい。しかし親類縁者などいない、リツは母親が死んでからはもう天涯孤独の身であり、だからこそ高待遇であった組織に大学新卒で就職したのだ。こうなれば友人に頼るしかないが、彼らはもはやそれぞれの人生を必死に歩んでいて、それを考えると迷惑をかけたくない。……この状況でどうすればよいのか。
道が見えない。
なにもないのだ。もはやリツに残されたものは体だけ。だがその体も、彼にとっては呪わしくさえある。過剰に機能強化されたその身は、見た目こそ同じでも常人とはすでに隔絶している。食費は普通の三倍以上になってしまい、しかもそれだけ食べなければ餓死する。
「……俺は……死ぬのか?」
道はあるだろうか、とリツは思う。
「死ねばいいのか」
リツからまろびでた言葉は、泣きたくぐらい弱々しかった。
「なら、なんで、生き残ってしまったんだ」
夢に出てきた上司の顔や、親しかった同僚の顔がちらつく。上司は、彼のすぐ眼前にて、爆発に巻き込まれ死んだ。骨も残らずに。同僚もまたそれぞれ無残なやり方で殺された。
「俺は……」
言葉の原野を心は彷徨い、どこにも辿り着くことはなかった。
「……俺は」
そこで、イコはリツが起きたことに気がついた。彼女は笑顔になり、彼へ手を振ってくる。
弱々しく手を振り返したリツは、イコが目を見開いて驚いたことに気付き、なにかあったのかと考え。
リツの目の前が真っ暗になった。
リツの背後から現れた影はなお進み、イコに迫る。