01_2 : 墓穴の先、海辺の命(2)
「結局、ずいぶん後になっちゃったね。ごはん」
イコはそう言ってはにかんだ。濡れたセーラー服を着替えていて、今は彼女も淡い青色の浴衣姿である。
「面目ない」
リツもまた浴衣だった。海のベトベトした汚れを軽く流した姿は、年相応のしっかりした若者のものになっている。
吊り目がちの精悍な造作をしているが、少し伸び気味の赤みがかった黒髪がその鋭さを和らげている。身長は高めと言っていいが、なにより目につくのはその腕の長さであり、直立したまま膝裏を触れるぐらいの丈がある。その長い腕は浴衣にはあまり収まれず、所在なげに頭をかいていた。
「ぱんつ。……お父さんのだけど、嫌じゃなかったら良いんだけど」
「あー。まぁ。うん、大丈夫です……」
うすうす察してはいるがわざわざ聞きたくない、そういう話をなぜ振ってくるのだろう。と、リツは内心で思ってしまう。
「良かった。ごはん持ってくるね」
そう言ってイコは立ち上がる。だが、リツの目の前には大量のそうめんが盛り付けられていた。すでに、生半可ではない量である。
「いっぱい作ったから。好きなだけ食べて」
リツたちが居るのは、館の西区画の入り口付近にある部屋だ。元々は館の調理場だったらしいが、改装して家庭用台所兼居間にしたらしい。システムキッチンの据え付けられた奥の台所、ダイニングテーブルやテレビそしてソファーなどが設置されたリビングルームで、ひとつの部屋となっている。
「……すごい量だね」
台所からさらに、大盛りの麻婆丼、薄切りの豚肉と牛肉をとりあえず焼いて塩胡椒で味付けしたもの、切られてないままのまるの漬物、雑に並べてある種類いっぱいの刺し身、大盛りのボウルに入ったシーザーサラダ、などなどを一度にイコは運んできていた。
「多かったらごめんなさい。私、でも、食べるから」
大食い大会ででも使えそうな量の食物に押されつつ、まぁいいかとリツは思う。
「大丈夫、俺もたくさん食べるやつだから」
実際のところ、リツは担当の研究医から言われていた。出来る限りカロリーを摂取しなさいと。そうでなければ、今の体を維持するのが難しいとも。
ふたりして驚くべき健啖さを発揮しつつ、そしてそれにお互いが驚きつつ、リツはイコに問いかけた。
「えっと。ご両親は」
「いないんです。ごめんなさい」
それは、『いまいない』なのか『もういない』なのか測りかねて、リツは食べる手を止めてしまった。
「あ、えっと。違うんです。……でも、違わないかも」
笑顔にも見える表情になって、イコは言う。
「お父さん、ほとんど帰ってこないから。お母さんも、私を産んだせいで死んじゃったって。ごめんなさい」
深く突っ込むより話を進めた方が良いと確信して、リツは言う。
「ひとりで暮らしているのか?」
「おじさんとだけ。でも、いまは仕事で首都に出てて。道場主なんだけど、本業は探偵なんだよ。国に頼まれて、殴ったり殴られたりするんだって。……嘘。きっとおじさんを殴れる人なんていないから」
イコは饒舌になって、叔父について語る。だが、話を聞くリツは今更ながら少々の怒りを感じていた。
「不用心だよ。……俺が言うのもなんだけど」
ふるふると首を横に振り、顔を崩してイコは言った。
「私、強いから。おじさんの道場でも、代理やったりするよ。おじさんがいないときは」
「空手とか?」
「わかんない」
イコはそう言うと立ち上がって、リツに問いかける。
「麻婆丼、おかわりする?」
「あー。ごはんだけ」
「ごめんなさい、辛いの苦手だったり……?」
申し訳なさそうになるイコへ、慌ててリツは言った。
「いやいや! ……漬物が美味しくてさ」
「……おいしかったの?」
「ああ。こんなの食べたことない」
なにか言いたそうに相好を崩して、でもなにも言わず、イコは器を抱えたまま台所に進んだ。その様子に、変なことを言ったかと心配になったものの、彼女はにこにこしながら戻ってきたため、リツは胸を撫で下ろす。
「漬けたんだよ。もっと漬けるね」
「うん? ……うん、それがいい」
とりあえずリツは頷き、どんぶりを受け取った。白米がたんまり盛られている。
妙な剣呑さは感じたものの、うまく認識できなかったし、そして新しく様々な漬物が運ばれてきたから、リツはそれについて深く考えるのをやめた。
立ち去った方がいいと思いながら、リツはそうできなかった。イコがてきぱきと部屋ひとつを掃除し、馴れ馴れしくも『部屋ができたから』と告げてきては、行く先も頼れる相手もない住所不定無職の身として、彼は出ていくことに二の足を踏んでしまうのだった。
鼻歌交じりに洗い物を行っているイコを、リツはテレビを見てる振りをしながら観察していた。
初対面の時の印象から変わらず、いやより深く、リツはイコを変な女の子だと思っている。警戒心がないのか、他人との距離を測ることができないのか、ひどく馴れ馴れしい。そのくせ妙な壁があり、先回りして逃げ出してしまうような、そんな立ち回りもする。
見た目も変だ。あのぼさっとした感じの雑な髪型は、もしかすると自分で切っているとかじゃなかろうか。リツはさして女性の格好に詳しくはないが、それでもイコの雑さにきな臭さを感じずにはいられない。少なくともその在り方は一般的ではない。
そして、普通なら――ぼろぼろでドロドロの汚い男を拾って、優しく接し、食事を出して、泊まらせるなんてことをしない。
「…………」
イコはそういうことをよくする人間なのだろうか、とリツは考えている。
捨て犬や野良猫に情を向ける類の女の子だとして、だからその延長線上に自分がいたのかもしれない。そうであれば納得できなくもない。とはいえ、リツはやはりよくわからなかった。彼は路端のみすぼらしい動物に手を差し伸べたことなどなかったから、そういうことをする気持ちを実感として認識することができない。
「いたっ!」
ガチャリ、と甲高い音が洗い場から響いた。
立ち上がって台所の洗い場に向かい、リツはイコに近寄る。
「どうした、大丈夫か」
「ごめんなさい」
流しの中を見ると、血とガラスが散乱していた。コップが割れてしまって、イコは手を切ってしまったのだ。
「救急箱を取ってくる、どこにあるんだ!?」
慌てるリツと対象的に、青くなって謝りながらも、ずいぶんと落ち着いた様子でリツは言う。
「ごめんなさい。大丈夫で」
「大丈夫なわけあるか、血がひどく出てる……!」
かなり強く切ってしまったらしく、イコの着ている割烹着のいくらかが赤く染まっている。すぐに止血して手当をしなければ、とリツは思う。だが救急箱の場所がわからない。混乱して付近にあるシステムキッチンの収納を開け回りながら、彼は再び救急箱の場所を訊こうと口を開く。だが、かぶりを振ったイコが謝りながら告げた。
「ごめんなさい、すぐ治る、大丈夫……ほら、もう傷なんてない」
イコは流れっぱなしだった水流に怪我した指を突っ込む。慌ててその手を引き戻すリツだが、その時、彼女の手にもう傷などないことを気付く。先ほどまであんなに血が流れ、割烹着にまで付着するほどまでだったのに。
「ごめんなさい」
俯いて、繰り返し謝るイコだったが、リツはその言葉を上の空で聞いていた。
「……すぐ治る?」
それと同じ現象をリツは知っている。