01_1 : 墓穴の先、海辺の命(1)
「ねぇ、聞こえる?」
「…………」
「潮騒の音。ざぁざぁ、ざぁざぁ。……そりゃ聞こえてるよね。ごめんなさい」
そこでようやく、波原リツという名の男は顔を横に向けた。
リツの目はひどく曖昧な色をしていて、顔を声のする方向へ向けたものの、その瞳はなにひとつ映してはいなかった。しかし、見る気があったとしても、声をかけた者の姿を捉えられたかどうか。時刻はもはや夕暮れを越えていて、ひどく薄暗かったからだ。
声は独特の調子だった。妙で、歩き方を忘れた百足が踊っているようなハズしぶなのだ。だがそれが彼女の基本なのだろう、堂に入ってもいる。
「朝からずっと、座り込んで。えっと、人も通らないこんな海岸で」
妙な違和感をリツは感じた。声が近い。圧迫感がある。つまり、相手はすぐ横で座り込んでいる。
ひどく馴れ馴れしいやり方だった。
「こんなところにずっといたら、死んじゃう……」
薄汚い砂浜で、夏に差し掛かる季節のころ、日よけもない場所で身動きもせず座り込んでいた。リツはそういう様子である。実際、熱射病で倒れてもなんらおかしくなかった。倒れたらそのまま死んでも不思議ではない。
だがリツは、それらすべてに頓着していないらしかった。
「……死ぬ?」
リツは茫洋とした表情で彼女を見続ける。
「死ぬのか?」
その言葉は、問いかけというよりは単なる吐き出しに過ぎなかったが――かえって彼女のなにか深い部分を傷つけた。明確にリツから顔を逸らした後、彼女もまた口から言葉を漏らす。
「……ばいい」
ざあざあと喚く海に顔を向けながら彼女は繰り返す。
しかし、その言葉は急な海風に巻かれて、ばらばらに砕け散ってしまった。
「――――」
リツはなにかを言おうとする。口を開く。息を飲む。だけど、声は出なかった。
だけど、そうしようとしたことが呼び水となって、彼は意識を取り戻す。自分が誰で、どこにいるのかを。
茫洋さが剥がれ落ちた彼の目にあるものが焼き付く。風に煽られて飛散した大粒の雫と、黒い髪をなぶられるがままにしている俯いた女性の姿だ。
その姿をじっと見ながら、彼はある思いに至っている。それは、彼女もまた自分と同じように迷子なのではないか、という思いだった。
リツはある組織に就職していた。だが、その組織はいまや破壊され、彼はもはや目的も戸籍も金もない住所不定無職、さまようしかない漂白の身の上である。
「ごめん。変なこと言った」
顔をごしごしと拭い、彼女はリツに笑いかけた。
「ごはん食べる? おいで」
立ち上がり、腰についた砂を払って、彼女はリツの手を取って立ち上がらせようとする。
「いや、俺は……」
その体温にはっとさせられながらも、リツは断ろうと口を開いた。だが、声が出るよりも先に、彼の腹が間抜けな音を響かせる。実際、彼は空腹だった。
薄暗いため彼からはよく見えないが、どうやら彼女は笑ったらしかった。嬉しそうに声を弾ませる。
「正直だね。こっちだよ」
リツは思いがけず強い力で引き起こされ、そのまま強引に歩ませられる。砂浜から上がり、コンクリートの階段を抜け、街灯の下、多少は舗装された道まで辿り着いて。そこまで来てから、彼女はくるりと振り返って笑顔になった。
無造作に切り整えられた短めの髪に、目と口が大きいマスコットキャラめいた造作の顔。服はセーラー服、特段の事情がなければおそらく女学生。体は中肉中背といった様子。
それはまともな姿だった。人間の形をしている。だが、声や容姿の端々が妙な違和感を感じさせるハズシしぶりがあり、そのため、全体としては印象が変にチグハグに思え、なんとか人間の形を保っているナニカといった風にさえ見えてくる。
それが、彼女だった。
「私ね、イコ。篝海イコ。……いつでも忘れていいよ」
妙な女の子だ、とリツは思った。
01 : 墓穴の先、海辺の命
「ごはん作るから。シャワー浴びてきて」
そう言って、イコはリツにバスタオルや着替えの浴衣などを押し付けた。彼はうまく返事できず、もごもごと口を動かしたが、そのころにはもう彼女は調理の準備に入っている。だからリツはその背に、頭だけ下げた。
ふわりと独特の香りが薄く香る。どこか懐かしいそれは、浴衣から漂ってくるものだった。防虫のため、香辛料が使われているのだ。
イコが案内したのは豪邸と言える広さの館である。和洋折衷の趣がある古びた外観で、国や県の文化財めいた風格を備えていた。しかし、人手は入れてないらしく、使われている西の区画を除けば荒れ放題になってもいた。
西区画の入口付近にあった調理場兼居間から出て、冷房が機能している廊下を歩き進み、館の西端にある浴室にリツは足を踏み入れる。
その浴室もまたシステマチックな内装だった。この館は何度か改装されているらしく、古びた見た目からは想像もできないほど内装が現代的・機能的な当世風となっている。また、館の西区画だけは使用しているためか、それなりに手入れが行き届いている。
浴室の脱衣所は十分に清潔で、快適さを保っていた。……洗濯籠の中にあるイコのものであろう衣類から目を逸らしつつ、リツは海水などで汚れきった服を脱いでから、裸になって風呂場に向かった。
熱いシャワーが、何日かぶりにリツの体に降り注ぐ。
その暖かさが、リツの体をほぐすと同時に、心もまた柔らかくしていく。それは魂を癒やす行為ではあったが、同時に、凍らせて先送りにしたある思いを解凍する行為でもある。
「あ……」
生き残ったなんて、なんて、奇跡的な偶然だろう。そう思い至れば、もはや留められず、封じていた映像や思いがリツの頭の中で怒涛のように駆け巡った。
大学から新卒で就職したリツはある出来事の後に、組織の所有する大型船に配属された。だがその大型船は沖合にて襲われ、沈没してしまう。そして、船から投げ出された果てに意識を失い、気がつけば彼はあの砂浜にいたのだ。
それは恐ろしい光景だった。燃え盛る船の中で活動する武装集団の影、殺されていく上司や同僚の姿、轟音を響かせながら海に没する自らの住処、夜の海を照らす炎と、それすらも消えた後の静寂と暗闇。
――少し時間が経ってから、イコは浴室の扉を叩く。食事の支度が整ったのだ。
「ごはんできたよー」
声をかけるも、リツの返事はない。不思議に思い、イコは容赦なく扉を開けた。
風呂場からはシャワーの音が聞こえてくる。声が聞こえなかったのかな、そうイコは思いながら再び声をかける。
「たくさん作ったよ。後どれくらい……?」
だが、それでも返事はなかった。どんどん、と扉を叩いてイコは声を繰り返したものの、やはり返事がない。
考えを待たずにイコは風呂場の扉も開く。
熱いシャワーを浴び続けて、なお体を震わせて座るリツの姿がそこにあった。
「……大丈夫?」
リツは一切の反応を見せない。
イコは少し迷ったものの、脱衣所からバスタオルを持ってきて、シャワーを止めてからリツにそれを被せる。それから、肩を抱くようにしてゆっくりと、彼の体を拭いていく。
ぽつりぽつり、イコが声をかけながら拭き続けると、カタカタ鳴っていたリツの歯の音が小さくなっていった。
「つらい?」
リツはその言葉には反応した。ぎょろりと目を回し、ようやくイコを見たのだ。
「……たくさん、死んだ。……俺も、死んで……」
「つらかったね」
そうなのだろうか、とリツは思った。
「……わからない」
無感動な様子でリツは俯き、言葉を吐き出す。
「俺はここにいたのに。声も聞こえてたのに、でも、寒くて。体が動かなくて。ごめん。ごめんなさい」
「私なんかに謝らなくて、いい」
オレンジの皮を齧っているような表情で顔を崩し、イコは言った。
「もう寒くない?」
リツは頷く。受けて、満足したようにイコは笑い、立ち上がる。だが、その彼女の服の裾を彼は掴みこむ。
「ごはん……」
そう呟きながら困ったように笑ったものの、イコはリツの手をもぎ離そうとはしなかった。