プロローグ 旅立ち
人間は恐ろしい。人間は悪。人間はこの世界の膿。
人間と、関わってはならない。
古龍としてこの世界に生を受けて十余年、親に囁き続けられた、人間の評価。 だけど、私はそれを受け入れられない。
人間が恐ろしいのは確かだ。悪の心を持つ人間もいる。
けれど、その営みは、何よりも美しいと思う。
余計なものをそぎ落とし、ただ生きることを目的とする古龍種。それも確かに美しいけど、酷く単色的だ。
人間には様々な面がある。
正義、悪。
愛、憎しみ。
希望、絶望。
そんな様々な色に彩られた、その営みは何よりも美しい。何よりも、面白い。
古龍種としてはこの気持ちを抱くのは間違っているのだろう。けれど、私は人のセカイへと想いを馳せる。何故なら、私も人間なのだから。
『起きてっ! ねぇっ、目を開けてよ……色羽っ!!』
『色羽さんっ、ぐす……。ごめんなさいっ! 私のせいでぇっ!!』
目を閉じればまだ、思い出せる。人間だった頃の記憶。最期の、記憶。
『――痛ッ……。ふふ。もう……大袈裟だなぁ、二人とも……』
『色羽っ!!』
『色羽さんっ!!』
最後の強がりは、2人の涙を余計に落とさせてしまった。あの泣き顔は、今でも夢に見る。
『美紀……忍……。ふたりとも、だいすき……』
その言葉を最期に、確かに別れを告げたあの世界。だけど、私は今ここにいる。
前世とも呼ぶべきその記憶と取り戻したのは、今から4年ほど前。この世界を見守る霊長の長、古龍種として生きていた私は、ある日、夢を見た。
遠いどこかの記憶。世界すら異なる場所の記憶。けれど、確かに現実に在った記憶。
次に目覚めた時、私は私で無くなり、私になっていた。
まぁ敢えて難しい言い方をする必要も無いので簡潔に言おう。“転生”したのだ。
この世界で古龍として過ごした記憶も在るし、前世で“色羽”として過ごした記憶も持っている。
どちらかというと“色羽”としての意識が強いか。というより、古龍としての意識が弱い。
古龍種はただただ生きることを目的としているが故、感情が乏しく、意識が弱い。
悟りを開いた。などと言えば聞こえがいいが、結局はただの思考停止だ。生き物としては、本来あるべき姿なのだろうが。
古龍種や、他の動物と比べ、余計な要素に溢れているのが人間。だけど、だからこそ、面白いのだ。
『どうしました? クレール』
頭に声が響く。古龍種特有の、魔法による念話だ。
『いえ、少し外を見ていただけです。母様』
『……そう。身体にさわるからほどほどになさい』
それで念話を終える。実の親子だというのに、必要最低限の話しかしない。なぜなら、他は不要だからだ。……反吐が出る。
私には家族は母だけだ。父はいない。もういない、という意味じゃない。最初からいないのだ。
古龍種は単為生殖も出来る種なのだ。個体数が極端に少ないので、そうでなければとっくに滅びていただろう。
ついでに言えば、僅かばかりの水さえあれば生きていける。必要な栄養は空気中の魔素から摂取できる。
生きてやることと言えば、眠るくらい。
珍しく起きていれば、ぽつりぽつりと僅かに会話し、棲みかの洞窟に溜まる水を一口飲んで、また眠る。そんなもの、死んでいるのと変わらない。
過去に何があったかは知らないが、起きている母に人間について聞けば、あれらと関わるな、としか返ってこない。
それでも数年掛け、ようやくこの世界の在り方をある程度学ぶことが出来た。
人間が住む場所も、聞き出した。なぜかって? 当然、そこで生きるためだ!
『旅に出たい?』
母、古龍ラグドールにそう切り出せば、当然のように疑問符で帰ってくる。
『それに何の意味が?』
意味、と来たか。
予想通りだが、悪い意味で古龍らしい返しだ。こちらの意思や想いは聞きもせず、実だけを問う。
自分探しの旅……などという不透明な理由は確実に通らないだろう。いやそんな中二病を拗らせたようなこと、言う気もないが。
とは言え正直に人間と暮らしたいといっても、全力で止められるだろう。普段の人間嫌いを考慮すれば周辺が更地になる可能性もある。古龍にはそれだけの力があるのだ。
『どうしました? 言えない訳でもおあり?』
威圧が増す。これ以上だんまりを続けても事態が好転することはなさそうだ。
『……世界を知り、自らの見識を広めたく思います』
『必要ありません』
おおう……ばっさりだ。
『この洞窟で、生きていくのに不自由などしないでしょう。わざわざ危険な外へと出る必要はありません』
危険……。この人は外をそう捉えている。
もったいない、と思う。そこにはきっと、洞窟の中だけでは決して見られない景色に溢れているのに。
『話はこれで終わりですか。私は少々疲れましたので眠ることにします』
それだけ告げると、自らのねぐらへと向かう。取り付く島もないとはこのことだ。
……やはり、これしかないか。
『お願いします。私はどうしてもこの世界を見てみたい。――例え、母様と道を違えても』
『………………分かりました。では貴方には勘当を言い渡します。どこへでも、好きなところへとお行きなさい』
一瞬だけ足を止めたが、あっさりとそれだけ言ってのけ、すぐに歩みを再開する。その程度なのだ。母にとっては。
古龍種は感情が乏しい。それは、親子の情でさえも。私も、色羽の記憶が無ければそうだったのだろう。
母の背が見えなくなるまで見送る。おそらく、これが最期だ。
『今まで、ありがとうございました。母様』
最期にそれだけ告げる。母からの応えなど無いし、期待もしていない。
洞窟の外へと出る。空を見上げれば、天気は晴天。旅立ちには絶好の日和だ。
(前世でも今世でも、親子仲が悪いままだったなぁ……)
内心で自嘲し、頭を振って暗い気持ちを振り払う。
これから念願の外の世界だ。暗い気持ちでいるなどもったいない。
翼を広げる。年がら年中、洞窟で暮らす引き篭もり古龍だ。飛んだことなど数える程度。だが、身体が知っている。
バサッ、と大きな音を立て、飛び上がる。久方ぶりの空。初めての、外だ。
上空から洞窟を見下ろす。
未練は、ある。情は薄くとも、心は繋がっていなくとも、この血は確かに繋っているのだ。簡単に割り切れはしない。
だがそれでもと、そう、決めたのだ。
前を向き、再び翼をはためかせる。そうすれば景色の全てを置き去りにする。
洞窟が見えなくなってきたところで、慣れ親しんだ念話が、頭に響いた。
『――せめて、身体に気をつけて』
思わず顔だけで後ろを向く。
念話が届くか届かないかという距離。わざとなのか、偶然なのかは分からない。だが、それは確かに届いた。
『――行って来ます。母様』
その念話が届いたかどうかは分からない。だがそんなことは関係ない。
心が繋がっているのは確かなのだから。