穴より出づるものども -3-
4
クロウドたちは、山の中腹当たりから道を外れて尾根を歩いていた。尾根伝いに移動すれば迷う可能性は少なく、また見通しも良いだろうという目算があったからだ。樹の幹に付いた傷跡、無為に損壊された動物の死体などは、確かにこの山に異形がいることを示していた。
またこの山は外から見たよりも起伏に富んでおり、沢や崖によって複雑な地形をなしていることが分かった。探索は思ったよりも難航しそうだった。
三人の中で、この種の活動に最も慣れているのはナナであった。机上の知識だけではなく、日々の糧を得るため森に分け入っていた経験があるからだ。
他方、最も身が軽いのはカラスである。細い手足を器用に使って、時に樹を登り、時に崖を登って高所から偵察する。普段は一人で仕事をするので退屈だが、今回は話し相手がいるので気が紛れる、と機嫌が良い。
クロウドも山が苦手、という訳ではない。しばらく街での生活を送っていたとはいえ、元々の出身は見通しの良い草原地帯である。遠くのものを見、また聞き、わずかなにおいを感じることに掛けては、他の二人よりも優れていた。
各々の長所を生かし、山中の探索を進めていく。クロウドたちは今日の日暮れまでに、東の尾根から山頂までを一通り調べるつもりでいた。
クロウドたちは探索を続けていたが、時刻は正午も一刻半を過ぎて、そろそろ帰路のことを考え始めていた。低山とはいえ、異形の潜む山中で日没を迎えることは避けたかったので、もとよりある程度の余裕を持って下山するつもりでいた。
まだ山頂にはたどり着いていなかったが、別段厳しい期限のある依頼ではないため、明日以降に回しても全く問題はなかろう、と考えていた。
だがそろそろ探索を切り上げよう、というところに来て、カラスが不審な影を見つけた。
「あっちの方向、何かいる」
登っていた樹の枝にぶら下がり、そう言ってから静かに地面に着地する。カラスが顎で示した先にクロウドが目を凝らすと、確かに何か動くものがあった。
彼我の距離はまだ百歩以上あり、木々に阻まれていることもあって詳細が分からない。どうやら人らしき形をしているが、動きがどうにも狩人や山菜取りのそれとは思えない。クロウドたちは音と風向きに注意しながら、ゆっくりと影に近づいて行った。
約三十歩の距離まで近づいた。ぎこちない動きをするその存在は、異形で間違いなさそうだった。二足で歩き、大きさは人間か、それよりも少し小さい程度。捻じ曲がった姿勢は、どこか老婆を想起させる。表皮は黒く、ひび割れており、所々赤黒い肉がむき出しになっている。
腕は人間でいう肘のところから三本か四本に分かれており、それぞれが異常に長く、ほとんど地面に引きずるようにしている。
今のところ、異形は目立った動きを見せない。なんらかの休止状態にあるのかもしれなかった。僅かに肉が腐ったような、黴臭いような空気が漂ってくる。
「さて、どうするか」
クロウドが小さく呟く。異形を直接討伐することが今回の依頼内容ではない。あくまでも発生の原因を突き止めることが目的である。
異形が群れていれば、その辺りに何か発生の原因となるものがあるのかもしれない、と推測することもできる。だが彷徨っている個体を見つけただけでは、大した成果になりはしない。
「どこか巣のような場所に戻るか、群れに合流するかもしれない」
続けて様子を見るように進言したのはナナである。日没までという時間の制約はあるが、方向の見当でも付けば、翌日以降調査の方針が立てやすい。
しばらく息をひそめて見ていたが、異形は時折、据わりの悪い首をぐり、ぐりと動かすぐらいで、どこかに向かう様子はなかった。捕まえてみるか、追い立ててみるか、とりあえず討伐しておくか、とクロウドたちが検討し始めたころ、背後でかさり、と葉擦れとは違う音がした。
三人が同時に振り返ると、まず一つの影が跳躍し、クロウドに跳びかかった。押し倒された形になったクロウドは、顔を護るためとっさに腕を交差させた。汚濁した膿だらけの目がクロウドを捉え、開いた口からは耐え難い悪臭が放たれている。
野犬。違う、似ているが、これも異形だ。不揃いな牙が布の衣服を貫いて皮膚に食い込む。風下から近づいてきていたようで、完全に不意を突かれた格好になった。
クロウドが不利な姿勢でもがいていると、カラスが渾身の力で異形のわき腹を蹴り飛ばした。ぐぎゅっ、というくぐもった鳴き声を上げて、二、三歩先に転がる。
「何匹もいるぞ」
周囲を見回したナナが警告する。クロウドが素早く起き上ると、今しがた襲ってきた異形の他に、少なくとも四体が視界に入った。クロウドたちをぐるりと取り囲みつつある。
最初に見つけた異形とは、明らかに違う種類である。四足で歩き、犬と同じような姿形をしているが、背中から海棲生物のような触手が十本以上生えており、それらがうねうねと不規則に蠢いている。
人型の異形に接近していた時に発見されたか、あるいは初めから囮のような方法を採っていたのか。どちらにせよ、現状をゆっくり分析している時間はなさそうだった。交戦か、撤退か、クロウドたちは瞬時の判断を迫られた。
敵は比較的小型の異形である。一体であれば、普通の人間であっても、武器と勇気があれば殺すことができる。しかし今回は複数である上、足場が悪く、互いを守りながら戦う事が難しい。
「樹の上にもいるぞ」
クロウドが警告する。人型の異形が二、三体視界に入ったのである。猿のように樹に登り、枝を渡りながら近づいてくる。前後に加え、上方向からも狙われる形となってしまった。こうなった場合、留まって迎撃するのは危険が大きすぎる。
クロウドたちは、この山の東の尾根を西へと登ってきた。真っ直ぐ南に下れば、道に出るはずである。この異形たちを町に連れ込む結果になるかもしれないが、背に腹は代えられなかった。
「仕方ない、突っ切ろう」
クロウドの指示の下、三人は包囲からの脱出を試みることにした。犬型異形の左翼を突破する形だ。素早く引き絞られた弓と装填されたクロスボウから三本の矢が放たれ、その内二本が一体の異形に命中した。
ぶるぶると震えながら、不快な断末魔と体液をまき散らして異形が倒れる。空いた隙間を狙って三人は駆け出した。先頭がカラス、それに追随するナナ、敵を弓で牽制しながら、殿を務めるクロウド。斜面を半ば滑り落ちるように、南方向への離脱を図る。
「さすがにちょっと多すぎないか?」
樹の根に脚を取られながら、ナナが言う。
「異常だ。やはり何か特別な原因がある」
背後に矢を一発放ってから、クロウドが答える。
「それよりどうする。これじゃとても逃げ切れん」
周囲に目を走らせたカラスが言う。異形は獣の速力を持って周囲に散開し、再びクロウドたちを包囲しようとしている。数も心なしか増えてきている。道までどれくらいあるか分からないが、そこから町までは急いでも半刻以上かかる。
しかしこの調子では、どう考えても四半刻以上は保ちそうになかった。崖や沢に行き当たれば、そこから先に進めない、ということもあり得る。
体力が尽きる前に留まって戦う決断をするべきか、とクロウドが考えながら岩場を飛び降りたとき、視界の端にぽっかりと空いた洞穴が映った。北側の斜面に空いたそれの入口は広く、また奥行きもある程度ありそうに見えた。
「あそこに入るぞ」
クロウドが洞穴を指さし、ナナとカラスに伝える。
「袋のネズミにならないか?」
息を切らせながらカラスが言う。懸念は尤もであるが、どのみちこのまま交戦することは避けられそうになかった。
「速度と、数の利を殺したい。ナナ、灯りを頼めるか」
「分かった」
素早いやりとりのあと、クロウドたちは洞窟へと駆けこむ。クロウドがさらに牽制の矢を放つ。残りの本数が少ない。
洞穴は入ってすぐに、ごつごつした壁で囲まれた、外見から想像できる以上に広い空間となっていた。形は歪な半球状で、天井の高さは背丈の倍以上ありそうだった。三人が動き回れるほどの余裕があり、地面も固い。戦うのに不便はなさそうだった。
ナナが小さく呪文を唱えて光球を作り出すと、奥にも道が続いていることが分かった。入り口は人が一人通れる程度の大きさである。内部で待ち受け、入ってきた敵に攻撃を殺到させれば、一度に多数を相手取らずに済む。
間もなく追ってきた敵に、三人は矢を放つ。撃ち漏らしたり、撃たれてなお接近してきた相手には刃物でとどめを刺す。靴や衣服が多少食い破られたが、一人も重傷を負うことなく、十体以上の異形を仕留めた。
「終わったか?」
クロウドが上がった息を整えながら、ナナを気遣うようにちらりと見遣る。最後の異形が入っていてからしばらく、もう新手は入ってこない。全て仕留めたか、あるいは逃げ去ったか。目の前に積まれた死体は、早くもぼろぼろと崩れ去りつつあった。
「久しぶりに肝が冷えたぜ」
邪魔な死体を足で除けつつカラスが言う。洞窟から頭を出し、周囲に敵がいないか確認しているようだ。
「ナナ?」
気付けば、ナナが無言のまま中空を見つめている。さらに声を掛けようとすると、手で静かにするよう制された。
「……ここだ」
「何が?」
「月気が濃い。ここが……ここが、原因なのかもしれない」
クロウドが発言の意図を聞き返そうとしたその時、洞窟の奥から強い腐臭と、ただならぬ気配が漂ってきた。それはすぐに耳に感じられる音になり、足先から感じられる振動となった。
「何か、ヤバい?」
入り口付近のカラスが振り返る。ナナが頭上に掲げていた光球で奥を照らすと、気配の正体が浮かび上がった。
人二人分の太さがある赤黒い肉の柱。それがミミズのようにのたうちながら這い出てきていた。側面には人の腕程もある触手が生え、周囲を探るように蠢いている。全体の長さと大きさは、今いる空間を覆い尽くさんばかりだ。
「外だ、逃げろ!」
クロウドの指示を聞くまでもなく、ナナもカラスも外へ飛び出した。最後に出たクロウドがちらりと振り返ると、巨大な異形も洞穴から頭を出し、信じられないほどの速度でこちらを追いかけてくる。カラスが二歩、三歩と後ずさり、冷や汗を垂らしながら呟いた。
「おいおい、嘘だろ?」
本当に、冗談のような生き物だった。その造形は既存の生物とは似ても似つかない。振り回す触手は土を巻き上げ、周囲にある樹の太い枝を叩き折る。命中すれば、人の骨など容易に砕いてしまうだろう。そして何より悪いことに、その異形は明らかにクロウドたちを狙ってきていた。
試しに放った矢は異形の胴体に命中したが、針先でつついたほどの損傷しか与えられていないように見えた。交戦の選択肢は消し飛び、クロウドたちは再び斜面を転がり落ちるように逃げ始めた。
「本当、勘弁してほしいな。何だって追っかけてくるんだ?」
カラスの疑問も気になるが、今はそれどころではない。
「いい加減相手にしていられんぞ。何とかやり過ごせないか?」
クロウドは打開策をナナに求める。
「姿形からして、相手は『視て』いない。音や振動を感じているか、遠くにいる獲物の温度が分かるんだ」
「じゃあ息でも止めてみるか?!」
カラスが半ば捨て鉢に叫ぶ。ナナは即座にそれを否定した。
「すまないが私は少しも保たない。それより……」
ふと、クロウドは微かな水音を耳にした。斜面を下るうち、尾根から沢の近くまでたどり着いていたのだ。沢の流れが十分強ければ、もしかして音も温度もごまかせるかもしれない。ここから水音が聞こえるならば、沢はそれほど遠くも小さくもないだろう。
「沢だ。沢へ向かおう」
やや西側に方向を転換して、クロウドたちは水音の方へ急ぐ。異形は山中での移動に慣れてきたようで、樹の間を縫うように、ずるずるずると進んでくる。追いつかれるのは時間の問題だった。
岩に当たって砕ける水の音、肌に感じる涼気。クロウドたちがたどり着いた沢は、幸運にもそこそこの水量があるものだった。少し下流の方は、高さのある滝になっているようだ。三人は流されないよう互いの腕を掴み、水中の岩を支えにしながら、ざぶざぶと流れの中央まで進んだ。
一呼吸遅れて異形が森から姿を現した。蛇が鎌首をもたげるような動きで周囲を探っている。どうやらクロウドたちを見失ったようだ。感覚が水飛沫に惑わされているのだろう。
「で、ここからどうする?」
息を整えながらカラスがクロウドに尋ねる。
「このまま諦めてくれればよし。そうでないなら、対岸に渡るか、別の策を考えよう」
水流に耐えるのにも体力がいる。日没の時間もある。いつまでもこうしている訳にはいかなかった。しかし対岸に渡ったとして、それで異形がクロウドたちを見失ってくれるかどうかはわからない。
「一つ、試してみたいことがある」
半ば岩にしがみつくようにして休んでいたナナが声を上げた。魔術で相手の気を逸らせる、というのだ。失敗したところで問題はない。やってみるだけの価値はあるから、と主張する。
「ただ、呪文を唱え続ける必要があるから、流されないように掴まえていてくれ」
クロウドとカラスは顔を見合わせた。何をするのかよくわからないが、他に策があるわけではない。二人でナナの身体を支え、異形の動きに注意を集中する。
ナナが改めて息を整え、呪文を唱え始める。ほとんど動かないナナの唇から、魔術となる音が紡がれる。今までクロウドが聞いたものより長く、また節回しも複雑だ。静かな歌の様にも聞こえる呪文は、徐々にその効果を表わした。
まずクロウドが気付いたのは、音の変化である。全方位から聞こえてきた水音にゆらぎが生じ、ある方角からは強く、また別の方角からは弱く聞こえるようになる。やがてそれらはうねりとなって、ナナの発する音に合わせるように動いていく。
異形も変化に気付いたようだ。ナナが操る音に誘導されるように、クロウドたちとは別の方向、下流の滝へと近づいていく。沢に入り、水流をものともせず身体をうねらせて移動する。
あと五歩、四歩。滝から落ちれば、死なないまでもしばらくは追ってこられないだろう。そしてその内消えてくれることを祈るしかない。
しかし、異形の身体の一部が空中にはみ出したところで、さすがに異変に気付いたようだ。滝壺に落ちないように触手をうねらせ、水流に逆らってその場に踏ん張ろうとする。
「ああ、もう!」
カラスが苛立ったように声を上げ、手近な石を掴んで投げつけた。拳より一回りほど大きいその石は、驚くほどの精確さで三十歩ほど離れた異形に命中し、その身体を傾がせた。だがあと触手一本で耐えている。
次の瞬間、その触手に矢が突き刺さった。クロウドがナナの身体から手を離し、矢筒に残された最後の矢を放ったのだ。射抜かれた触手は岩から滑り落ち、支えを失った異形は滝の下に落ちていった。
異形が落ちていったのを見届けると、クロウドは再びナナを支えようとした。しかしナナの身体はそこにはなかった。急に身体から手を離されたため、派手に転倒していたのだった。
◇
「ゆるさん」
濡れた衣服を最低限絞り、クロウドたちは山道を下って行く。その場で乾かしても良かったが、またいつ異形が現れるか分からないし、日没を迎える前に山を下りたかった。先ほどの異形がまだ生きているかもしれなかったので、滝壺を大きく迂回しながらふもとへと向かった。
「許せ」
ナナは口では怒っているが、危機を乗り越えた後の冗談のようなものである。そもそもナナだけでなく残る二人もずぶ濡れなのだ。
それでも異形発生の原因らしきものを見つけたため、仕事という意味では成功である。命の危険があったわりに、報酬はささやかだったが、そもそも傭兵稼業とはそういうものだ。初めての成功をまずは喜ぼう、とカラスは言う。
その後山道を警備する兵に異形の出現を警告し、クロウドたちは無事にふもとの町まで帰りついた。館に戻ると、泥と擦り傷だらけの格好に大層驚かれたが、事情を説明すると大いに労われ、乾いた服と温かい飲み物が用意された。
5
「結局、あの場所が原因だったのか」
カウンター越しに飲み物を受け取り、クロウドがナナに問う。依頼を終えたクロウドとナナは、町の中心街にある酒場に居た。夕刻の店は、仕事終わりの労働者で盛況である。カラスは依頼達成にまつわる、細々とした事務に付き合わされているため、クロウドとナナだけで先に一服しに来ていたのだ。
「まず間違いないだろう。場所によって月気の濃淡はあるが、あそこまでとは思わなかった」
月気の濃さを、魔術師は感じることができるらしい、クロウドのように魔術の才を持たない人間は、あの洞穴も、少々不気味な感じがするぐらいにしか思わなかった。
「しかしなぜそんなに濃い場所ができたのだ」
「解らない。月気の多い場所を魔術師は、〈穴〉と呼ぶことがある。あの場所もそういう類のものだが、偶然できたにしては大きすぎる気がする」
「誰かが故意に開いた、ということか」
「詳しく調べなければ、何とも言えないな。幸い場所は大体特定できたのだし、あとは代官と、知識の塔が対処するだろう。気にならないと言えば、嘘になるが」
ふぅん、と気のない返事をして、クロウドは杯に口を付ける。泥蜥蜴亭で飲むものより良い酒だ。
「おう、なんか難しい話してるな」
二人の肩を後ろから掴んだのはカラスである。
「初めての報酬だぜ。日当の銀貨七枚、追加で金貨一枚」
カウンターに布の小袋を三つ置く。かちゃりと金属の音がした。
「色々考えるのが悪いとは言わないが、そうするばかりじゃ疲れるぜ。汗をかいて働く。貰った金で旨いものを食べる。寝床の上でぐっすり眠る。そういう普通の生活とか、あたりまえの楽しいことがまず先に来るべきだ」
カラスは歯を見せて笑いながら、袋から銀貨を数枚取り出し、クロウドとナナが思わず苦笑するほど大量の料理を注文した。
「そうかな」
ナナが呟く。
「そうとも」
カラスが答えた。
「そうだな」
クロウドが同意し、運ばれてきた酒を受け取る。
「では、今日はもう、難しい話は終わりだ」
ナナが杯を掲げる。その日の酒場は、夜が更けるまで賑やかであった。