クロウドとナナ -1-
西の空が朱に染まる夕刻。田園に実った麦が、吹き抜ける風に揺られている。平原に拓かれた広大な麦畑の中には、小さな木造の人家や納屋がぽつぽつと建っており、今日の野良仕事を終えた農民がそこに帰ってゆく。
初夏に差し掛かるこの季節、黄昏の空気にも生温さが残るようになった。麦の収穫まで、あとひと月ほどだろう。
幾世紀も続いた戦乱のあと、アウレリウス一世によって諸国が統一され、建国されたノルトゥス国。ここは国内に二十六ある貴族領の一つである。
王都アウレリアから東に馬で四日、王国中東部に位置するこの領内では、農業を主軸とした経済が成り立っていた。主に栽培される穀物は白麦と呼ばれ、細かい粉に挽いてパンに加工される。
黄金に染まりつつある田園が見下ろせるなだらかな丘の上に、騎乗した長身の若者が一人いた。よく鍛えられた肉体の上に黒染めの衣服を纏い、腰に長大な騎兵用のサーベルを帯びている。
精悍な顔に切れ長の目、黒い瞳と短髪は、その男が、この地よりさらに東方の騎馬高原出身であることを表わしていた。
帯剣こそしているが、この男は兵卒ではなく、指揮官でもない。名をクロウドといった。貴族領で政を代行する代官の下で、書記官として働いている。つまりは、文官である。
この国において、貴族はかなり広範な権限を持っている。国に対しては納税と、必要に応じて兵役の義務を負うが、それ以外の事項に関しては、半ば自治を許されている。そのかわり、領内での不正や王国への反抗を監視するため、中央から書記官と呼ばれる官吏が派遣されるのだ。
しかしこのクロウドという男、普通の文官とは少々来歴が異なった。
前述のとおり、クロウドは東方の出身である。王国の東には、〈鉄騎候〉とあだ名される侯爵の領土がある。その地の騎兵は精強で名を馳せており、〈鉄騎候〉は王国内でも強い影響力を持っていた。王国の貴族は侯爵と伯爵に大別され、五人いる侯爵は伯爵より広大な領地を治めている。
クロウドの出身家は、その侯爵の重臣であった。このような貴族の臣下は騎士と呼ばれ、内政において代官を務めるほか、戦時には部隊を指揮する将となった。したがって、クロウドは騎士家の出身ということになる。
支配者階級である騎士にもさまざまな者がおり、主君である侯爵や伯爵から割り当てられる役職もさまざまであった。納められた税を管理するもの、城や橋の普請に携わるもの、領内の警備と軍事を司るもの、などである。
そしてその役職は大抵、親から子へと受け継がれる。クロウドの父は精鋭部隊を指揮する武将であったので、家の次男であったクロウドも、幼少より兵の指揮官になることが期待されており、またそのように育てられた。
三つの時に初めて剣を握り、十二で初めて戦闘に参加した。槍、弓、馬の扱いを覚え、兵の指揮や兵站の基礎をよく学んだ。習得は早く、年長の騎士からも一目置かれていた。
しかし才覚ある若者にありがちなこととして、クロウドは周囲に定められた将来をよしとしなかった。四つ上の兄は彼より武才があり、家督を継ぐのは確実であった。
そうなればクロウドはその臣下として、そこそこの禄を貰い、細々と兵を養うことになるだろうと思われた。確かに国民の大半より豊かな生活ができる。しかし本当にそれでよいのだろうか。
この疑問を、クロウドは周囲にぶつけなかった。子どもの戯言として軽んじられるのは目に見えていたし、同輩の生き方を批判しているように取られかねなかったからだ。だから彼はその考えを、しばらく胸の内に秘めていた。
しかし十六の時に転機がやってくる。貴族や優秀な騎士の子弟は、この年になると王都アウレリアにある学校に通うのが通例であった。クロウドもその例にもれず、そこで学ぶ人材として選ばれることになった。
アウレリアの学校は三種類ある。戦術や軍事を学ぶ武官学校。法や内政を学ぶ文官学校。それからやや特殊な教育機関として、魔術や自然科学を学ぶ知識の塔。クロウドも兄と同様、武官学校に通うものと思われていた。
ところが、クロウドはそれを拒んだ。政を学ぶための文官学校を志願したのである。兄が武官としての道を歩むならば、自分は文官となる。現在の王朝が長く続き、国が安定すれば、軍隊の価値は下がっていくだろう。
そのような時代においては、法や経済に明るい者が重用されるようになる。自分はそのような者になり、家の繁栄に資するつもりである、と。
これには別の思惑もあった。文官となった者は、まず地方を転々として実地で政を学ぶ。そののち、王都で中央の政治に携わるか、自らの出身地に戻って領地の経営をおこなうことになる。つまり、一度家を出ることができるのである。
父は反対したが、クロウドは粘り強く主張した。両者とも中々折れなかったが、意外にも兄がクロウドに味方した。兄弟二人の説得を受けて、ついに父はクロウドが文官学校に通う事を認めた。
王都に移ると、酒場を兼ねた安宿に下宿し、勉強に励んだ。都会に浮かれる同輩をしり目に、肉体的な鍛錬と同じように弛まず学んだ。そのおかげで、クロウドは常に上位の成績を保った。
基礎的な教養を二年。専門的な分野を二年。四年の学校生活を終え、現在の任地に派遣された。クロウドは今年で二十一になる。この地に来て二度目の夏を迎えようとしていた。
故郷からずいぶん遠くに来てしまった、とクロウドは丘の上で改めて考えていた。それは距離という意味でも、また気持ちという意味でも言えることだった。
この道を選んで本当によかったのだろうか、と今でも迷うことがある。しかし今更おめおめと実家には戻れはしないだろう。自分は周囲に決められた存在ではない、自分で決めた『何者か』になりたかったのだ。
自分はもう、一人で歩かなくてはならないのだ。クロウドは考え事をやめ、馬首を巡らせて代官の館へと戻っていく。陽は既に沈み、紫紺が空を覆いつつあった。
◇
クロウドはこの地を治める代官の館で起居している。領地を見下ろせる丘の上に建てられた白っぽい石造りの館は、大人が見上げるほどの高い壁にぐるりと囲まれており、いかにも堅牢といった風な威圧感を放っている。戦や一揆の際に籠城できるような作りになっているのは、古い庁舎の特徴である。
その日の朝、クロウドはいつものように夜明け前に起き、屋外で目覚ましに剣を振り、食事をしてから自らの執務室に出勤していた。代官を務めているのはタダウという騎士で、代々この地を治めている有力者である。
クロウドはその館に住居と執務室を与えられ、日々務めを果たしていた。どちらの部屋もそれほど広いものではなく、部下は現地で雇われた初老の男性が一人つくだけである。名をロジーといった。
務め、といっても大層なものではない。クロウドは国から派遣された文官であり、領地の運営に直接携わることはほとんどない。中央からの通達、日々の記録、報告などが主な業務内容である。送られてきたものは回覧ののち保存し、報告すべきものは馬車便で王都に送る。
忙しくても午後の遅い時間まで仕事が長引くことはまずなく、普段のクロウドは午前のうちに仕事を終え、午後は領内を馬で見まわったり、近所の子に読み書きを教えたりして過ごしていた。
しかしこの年は、いつもと少々違う事態になっていた。
クロウドが重い木の扉を開いて執務室に入ると、ロジーが既に自席に座っていた。彼はいくつかの村落から寄せられた手紙を開きながら、やや間延びした調子で言った。
「やはり麦の生育が思わしくないようです」
確かに、そのような話は以前からあったし、領内で見かけてもいた。麦の一部が黒く変色してしまう病が流行っていたのである。
「麦角で間違いなさそうか」
クロウドは部下から手紙を受け取り、自らもそれを読みながら返事をした。手紙には数週間前から病にかかる麦が増えていると記されており、報告されたその様子は麦角病の特徴に酷似していた。
麦角病、とは文字通り麦が罹る病である。麦が黒く変色し、穂に黒い角のようなものができる。この黒くなった麦を食べると中毒を起こすため、病にかかった麦は廃棄しなくてはならない。
過去に何度か国内で流行し、食糧難を引き起こしたことがあるが、原因は既に菌であることが解明されている。
「そうですなあ……、収量が大分減ってしまうでしょう」
ロジーは頭を搔きながら言う。彼は給与を貨幣で受け取っているため、今一つ危機感を持っていないようだが、当の農民や為政者にとって、麦の不作は文字通り死活問題である。自らの食い扶持や税が減るからだ。
「税の減免を考えなくてはならないな」
硬い椅子の背もたれに体を預けながら、クロウドは呟く。彼が麦の不作に直面するのは初めてであるが、このような事態が領内で起こったのは当然初めてではない。過去に病や少雨で麦の収量が減った際には、上納する税の減免がおこなわれたことがあった。
領内の状況を国に報告し、貴族が国に対して、上納する税額を減らすか、代替品での納税を認めてくれるよう願い出るのだ。直接の交渉は政府と領主たる貴族の間でおこなわれるが、中央との調整とあれば、クロウドもある程度の役割を担うことになる。
とはいえ、クロウドはまだ末端の文官であるため、強い権限を持っていない。まずは状況を把握し、他地域と足並みを揃え、代官と話し合いながら事を進める必要がある。やることは多い。早く動くに越したことはなかった。
「それと一つ、お耳に入れたいことがありまして」
「なんだ?」
「麦に呪いを掛けている魔女がいるのだとか。あくまで噂ではありますが」
「くだらない」
古の魔術師は、今よりも力を持っていたと聞く。戦においては軍の頭上に火の雨を降らせ、雷が城壁を打ち砕いたという。石の巨人を操り、死者を蘇らせたとも。あるいは、麦を枯れさせることもできたのだろう。
だが、戦争の終わった今の世でそんなことをする意味があるとは思えない。それに麦角病がどのようなものかは、学のあるものならば誰でも知っていることだった。
しかし、教育が行き届いていない地方の農村では、迷信がいまだ影響力を持っている。したがって、たとえくだらないものだとしても、完全に無視することはできなかった。
この噂に関して、何か対処をする必要があるだろうか。クロウドはしばらく問題について考えたあと、執務室を出て、タダウの部屋へ向かった。
◇
クロウドは館の廊下を歩いていた。これから会う代官のタダウは、でっぷり太った五十手前の小男で、脂ぎった少ない茶髪を後ろに撫でつけた、お世辞にも美男とは言えない容貌をしている。
普段の行いもあまり高潔とは言えず、クロウドは正直、この男が好きではなかった。しかし代官は、数千から数万いる領民を支配する立場にあり、領内において絶対的な権力を持っている。そのため、嫌が応にも敬意を払わなければならなかった。
とはいえ、もとよりクロウドも、気に入らないからと言って目上の人間をないがしろにするほど、無礼な人間ではなかった。
館の二階中央、豪奢な彫刻が施された両開きの扉を叩くと、間もなく横柄そうな声が入室を許可した。扉をゆっくりと開いて入室する。
「失礼します」
タダウが日中いる部屋は、クロウドの執務室を四つ合わせたよりまだ広い。古今東西の美術品が秩序なく配置され、見る者を混乱させる。
クロウドは部屋に入ったとき、扉の近くにあった甲冑にちらりと目をやった。タダウの体格に合いそうもないこの立派な鎧を売れば、領民一人が一年は食べていけるだろう。
「どうしたかね。書記官殿」
タダウは部屋の奥の椅子に座り、窓の外を退屈そうに眺めていた。彼が忙しそうにしているのを見たことがない。そのわりに、不機嫌そうな姿はよく見かける。一体何に苛ついているのだろうか。クロウドは広い室内をゆっくりと横切り、部屋の奥へ歩を進める。
「麦の収穫について、少しお話が」
「まあ、かけたまえ」
クロウドは勧められるまま、タダウの対面に腰を下ろした。
「何か飲むかね」
「いえ、結構です」
フン、と鼻を鳴らして、タダウは傍らにあったボトルから、自らグラスに飲み物を注ぐ。琥珀色の強そうな酒は、この領内ではほとんど見かけない代物だった。
タダウがグラスを置くのを待って、クロウドは話を切り出した。領内で流行る麦の病、近隣の収穫状況も見積もり、納税に関する調整の手続き。興味なさそうに話を聞いたのち、タダウは面倒そうに今後の方針を示した。
「悪しき前例を作らぬよう、領民への減税は慎重におこなう。伯爵閣下への通達は私の方で進めておく。書記官殿は手続きの準備を進め、指示を待って下され。よろしいかな」
クロウドは異議を挟まず返事をする。領地経営に関しては、クロウドは直接口を出す立場にない。
「それと、領民の間では、魔女が麦に呪いを掛けている、という噂が流れているようです」
「ほう」
タダウが薄い眉を動かし、少しの間沈黙した。何かよからぬことを考えていそうな顔をしている。
「私の方でも把握しておきます。領民の不安を高めたくありません」
「不安。結構ではないか」
今度はクロウドが眉を動かす番だった。しかしこれは怪訝な思いによってである。タダウが何を言っているのか解りかねたのだ。
「為政に対する不満であれば困りもしよう。だが生贄のなり手がいるのは良いことだ、違うかね?」
クロウドは首肯しかねた。タダウが言うことはつまり、領民の不満を魔女に向けておこう、ということに他ならない。魔女が現実の人物として存在するかどうかは置いておいて、罪なき民に不作の責任を押し付けるのは、誠実さに欠ける行動と言わざるを得なかった。
「不服そうだな。若き書記官殿。しかしこれが政というものだ。学校では教えぬ実地の政治だ」
クロウドの表情から考えていることを感じ取ったのか、タダウはやや威圧的な口調で言う。クロウドは頷くしかなかった。
「……こちらでも、把握はしておきます。念のため」
フン、と鼻を鳴らして、タダウは二杯目の酒を注いだ。クロウドの態度に心証を悪くしたのだろう。無言で顎をしゃくり、退出を促した。
「失礼します」
タダウに背を向け、クロウドは代官の部屋を後にする。扉を守る甲冑に未熟さを嘲笑されているように思え、クロウドは自身の表情が渋くなるのを感じていた。