白紙の本
居間で本を読んでいると、鍵を開ける音が聞こえた。誰かなんて確認しなくてもわかる。この歩幅は母だ。
「母さん、水道の蛇口ちゃんと締めといてって、言わかなったっけ。」
仕事から帰ってきた母に、振り返り様少しの怒りをぶつけた。毎日朝から晩まで働く母は、家でも実にパワフルで気丈な母には何度も励まされた。
帰って早々嫌ごとを言うのも気が引けたが、これはほんとに直して欲しい。
「あなたほんとに耳がいいわね、次から気をつけるから許して?」
そんな汐海の気持ちをどう組んだのか、可愛く言ったつもりなのか、そんな母にため息をついて、読書をやめた。
「今日は、何の本読んでるの?」
手に持つ白紙の本を覗き込んで、母が尋ねる。
「昨日と一緒だよ、夢幻花。母さんも一緒に読み始めたでしょ。」
1週間ほど前、父が2人にと買ってきた小説だった。もちろん、母のものはちゃんとした文字が並んでいる。
「そうだったわ。でも、汐海の方が読むの早いから……あ、内容言っちゃダメだからね!」
分かってるよと笑いながら、本を横に置いた。
「そうだ、明日お母さんと出掛けない?まだ、春休み中だったわよね?」
忙しい母からそんな言葉が出てきて、少し驚く。ここのところほんとに休みがなく、今日だって日曜日、休日出勤だったのに。
「そうだけど……せっかくの休みなら、家でゆっくりした方が…」
言い終わる前に、何を言ってるのとかぶされて、苦笑する。
「せっかくの休みだから、息子と出かけたいんじゃないの!春休み一人ぼっちで汐海もつまらないでしょ!」
母と腕を組みながら街の中を歩くのは、嫌いじゃなかった。母の鼻歌、車の通り過ぎる音、すべての雑踏が心地よく感じるからだ。
商業施設についた汐海に、母が少しだけ待っててくれない?と声をかけたのは、正午前だった。
早めの昼食を終え、本屋へ行こうかと話していた道中だった。どうやら、スーパーの安売りを見てしまったらしい、母の慌てた声に、少し笑って頷いた。
「近くに、喫茶店あったよね?俺、そこで本読んで待ってるよ。」
いらっしゃいませ、と物静かな声に出迎えられる。喫茶店の店員についていく母に連れられ、席に着く。母が店員と少し話した後、すぐ戻ってくるから待っててね、と声をかけ、離れた後に、カバンの中にしまってあった本を取り出した。
喫茶店の中は、平日の昼下がりだからか、ほとんど人がいないように感じた。カチカチと響く時計の秒針と、サイフォンの音と、ふわっと香るコーヒーの苦い香り。すっと深呼吸して、本を開いた。
暫くして、テーブルにものが置かれた音がして、顔を上げた。暖かい空気から予測すると、ミルクのまろやかな香りのするコーヒーが置かれたようだった。おもむろに、手を伸ばそうとした。しかし、首を降って伸ばした手を引っ込めた。何処にあるかわからない。伸ばした手を本の上に戻し、再び本を読み始めた。
どのくらい時間が経っただろうか、喫茶店の扉の開く音がして、ふと顔を上げた。-母さんかな。-
しかし、足音が2つ聞こえてで違うと分かった。1人は男の人で、一人は女の人だ。待ってよ、というたかい声と、響くヒールの音に少し顔を歪めた。男の人が汐海の横を通り過ぎた時、甘いのに爽やかな香水の香りがした。それを追いかける女の人が通りかけた時に、持っていた鞄が汐海の肩に当たり、本が手からすり落ちた。
「あっ……」
「ちょっと、私達の邪魔しないでよ!」
汐海が声を発したと同時に、女の人が汐海を睨んで叫んだ。
-俺は邪魔なんかしてません-
汐海が口を開きかけた時に、舌打ちが聞こえた。
「私達って何。俺の事?」
低くて通る声がして、汐海はこの先の事を考えて内心げんなりした。痴話喧嘩が始まるに決まっている。自分が発端になったと悟って嫌気がさした。
「私と奏海のことにきまってるでしょ!」
「いやいやいや、一緒にするなよ。そもそもこいつの邪魔したのはお前だろ。」
自分のことを言われているのかもしれないと考えつつも、汐海の頭は既に飛んでどこかに行ってしまったほんのことばかり考えていた。しかし探そうにも、どこに行ったのか皆目検討もつかない。
「ちがうわ!当たってきたのはそっちじゃない!」
「キャンキャンうるせーな。一回抱いたぐらいで何彼女ヅラしてんだよ。」
耳には目の前の修羅場の情報が届く中、汐海は椅子から降りてしゃがみ、手を床に這わして本を探す。
「私じゃないわよ!そんな事言わないでよ!」
泣きそうなその声が聞こえた時に、またふわりと香水の香りがして、男の人がたっていると思われるほうへ顔を向けた。これか?という小さな声の後に、何かが擦れた音がした。
「ちょっと、奏海聞いてるの?!」
「あーうざい。消えてくんねぇ?自分がやったことと、こいつの状況も把握できないような馬鹿女要らねぇから。…おいお前、椅子に戻れるか?」
耳に障るヒステリックな声に心底嫌そうな声、突然向けられたであろう自分への声の後に、暴言を吐きながら去っていくヒールの音。汐海はすべてを耳に流し込みながら静かに椅子に戻った。