君のためになら唄ってもいいかな
私が通う高校には、普通科と音楽科がある。よくわかんないけど、音楽科は音楽関係の授業が普通科より多いらしい。音大を目指す人の集まりだとかなんとか。
普通科も音楽科も同じ校舎に教室があって。でも特別教室棟は音楽科専用の特別教室が半分を占めている。
私が二年生に進級した時、音楽科から普通科に転科してきた人がいた。そういう人は過去にもいないわけではなかったらしいのだけれど、それでもすごく珍しいんだって。
だから、彼のことはすごく噂になって、同じクラスではなかった私にも、その噂は届いてきた。
彼は音楽科とは言っても楽器ではなく声楽を目指していたらしいとか。
ストレスだかプレッシャーだかで歌えなくなって転科しただとか。
まあ、そんなようなこと。
廊下ですれ違った時、一緒にいた友達が「ほら、あの人が噂の……」って教えてくれて、顔はチラリと確認した。彼は一人でいて、誰もそばに寄せ付けたくないような雰囲気だった。
正直なところ、私はそこまで彼の噂には興味がなくて。私は私のことで手一杯だった。
だから、ああ、彼が噂の、って思っただけで、それ以上は何も思わなかったような気がする。
三年生に進級して、彼と同じクラスになった。相変わらず彼は一人でいることが多くて。普通科に馴染めていないのかと思ったけれど、だからと言って音楽科の人とすれ違っても変わらない雰囲気に、きっとそういう人なんだと納得した。
クラスの人たちは、彼を少し遠巻きにして、でも彼に対する興味は尽きないようだった。きっと二年生の時もそんな感じだったんだろう。
その頃には私自身の問題に蹴りがついていたのだけれど、今更彼に興味がわくこともなく。私は彼に対して淡々としていたと思う。
そういうのって、わかる人にはわかるのだろうか。
私の高校では、普通科は音楽か美術の選択授業がある。
特に音楽に興味も関心もない私は美術選択だ。彼も理由はわからないけれど美術選択。
ある日の美術の授業で、二人一組になって相手の似顔絵を描くというのがあった。
私にも友達と呼べる人はいるのだが、あいにくと美術選択は私を含めて三人。二人一組になると一人余る。どうしたら、と思っていたら、彼から「一緒に組まないか」と声をかけられた。
声をかけられたことに私も友達も驚いたのだけれど、彼は表情のない顔で私の返事を待っているようだった。
一人余るよりはと、私は少し考えたあとに二つ返事で了承した。
彼との似顔絵描きは淡々としたものだった。特に言葉を交わすわけでもない。たまに顔の向きだとかを互いに指示しながら、それは静かに授業を終えた。
少し人見知りをする私は、よく知らない彼とすぐに打ち解けて話をしたり盛り上がるなんてことはできなくて。でも彼も同じようなタイプなのかもしれない。無言がさして苦痛にもならなかった。
それから、だ。
彼がなんとなく声をかけてくるようになったのは。
授業で二人一組になる必要があれば、真っ先に彼から声がかかる。けれど、それ以外で声をかけられることはあまりない。授業の提出物を聞いていなかったから教えて欲しいとか、そんな程度。
にも関わらず、なぜか周りは私たちが『親しい』のだと認識するようになっていった。親しいわけではない。しかしクラスで彼と一番話をしたことがあるのは、間違いなく私だろう。
そういう関係だった。卒業してしまえば、あっさり音信不通になって、もし街中で会ったとしても、互いに「高校のクラスメイトだった人だ」と心の内で思い、しかし挨拶もなく通り過ぎるだけ。そんな程度の関係だと思ってた。
冬休みも終わり、学年全体が大学受験一色に染まった頃。
放課後に彼から呼び出された。それは普通科と音楽科が共用している音楽室だった。
なぜ彼からそんなところに呼び出されたのか、私にはさっぱりわからなかった。しかし行かないわけにもいかず、友達と教室で別れを告げた私は音楽室へと向かった。
選択科目が美術だったため、音楽室とは無縁な三年間を過ごした。
緊張と好奇心とか、あと何だかよくわからない感情で高鳴る胸を押さえつつ、そっと音楽室のドアを開けた。
教室の前方で存在を主張するグランドピアノの足元にもたれるようにして、彼は床に直接座っていた。足を投げ出し、顔は伏せて。
そっとドアを開けたから気付かなかったのだろうか。
でも、近付いても彼は顔を伏せたまま。
彼の横にしゃがみ、少しだけ顔を覗き込むようにした瞬間、彼が顔を上げたので驚いた。もしかしたら寝てるかも、とまで思っていたから。
至近距離で目線が合って戸惑う。
けれど彼はそんなことは気にもしていないようで。
「君のためになら唄ってもいいかな」
静かに、けれど確かにそう言った。
彼の言葉が理解できなかった。
いや、言っていることはわかる。わからないのは、それに込められた思いや気持ちだった。
何と返事をすればよいのか検討もつかず、そのままの姿勢で、彼の言葉を待った。
「ね、聞いててよ。君のために唄いたい」
そう呟くように言いながら彼は立ち上がり、戸惑う私をピアノの近くに置かれたイスへと促した。
「ずっと思ってたんだ。君の前でなら唄えるだろうって」
彼はピアノの前に座り、指ならしをするかのように音階を奏でた。
「そのうち、君のために唄えたらって思うようになって」
ゆっくり早く、ピアノの鍵盤の上を走る指。
「何も言わなくていいんだ。ただ、聞いて欲しい」
私はやっぱり何も言えなくて、ただ彼の顔を見つめて頷いた。
目を閉じて深く息を吐いた彼が次に目を開けた時、彼の目はいつにもまして真剣そのもので。目が離せなくなった。
簡単なピアノの伴奏が始まり、聞いたことのあるメロディーに心の内で驚く。てっきりクラシックだろうと思ったのだ。
少し中性的な歌声が紡ぐのは、かなり小さい頃に流行った女性ヴォーカルのポップミュージック。軽やかで伸びやかなその歌が終わった時、私は知らず知らず彼に拍手を送っていた。
彼は少し照れたような、でも嬉しくてたまらないといったふうに満面の笑みを浮かべた。その笑顔に、私は自分が恋に落ちたのを感じた。
「ありがとう。君のおかげで、迷いがふっきれた」
彼の迷いが何なのかも知らなかったけれど、自然と「どういたしまして」と答えていた。
二人で音楽室を出て下駄箱の前でさよならするまで、私たちは言葉を交わすこともなく。互いに「じゃあ、また明日ね」と告げて別れた。
私は彼の志望校を知らない。そもそも大学に進学するのかさえ知らない。彼も私の進路なんて知らないだろう。
言葉を交わしたことのある級友として、私たちは卒業式を迎え、そして別々の道を歩いていく。
芽生えた恋心を彼に告げることもなく、それ以上に大きくすることもなく。いつか思い出の一ページに埋もれる時がくる。
Fin.