煙草の味
「君か? 新入りってのは」
長椅子に腰かけてくつろいでいた皆月高生の耳に突然飛び込んできたのは、投げやりな問いかけだった。こちらの反応など端から期待してもいなければ、本心では興味さえないのかもしれないような、そんな声音。
タイル張りの床に注いでいた視線をあげると、長身の男が、これまたどうでもよさそうに突っ立っていた。体格のいい、三十代くらいの男だ。その表情は、声から想像した以上につまらなそうで、どうして声をかけてきたのかわからないほどだった。そしてその顔つきには、既視感を覚える。どこで見たのかは思い出せないが。
「たぶん、ですけど」
適当に答える。
ここにいるということは、男も関係者ではあるのだろうが。関係者以外は立ち入れないビルの中だ。厳重な警備と最新鋭のセキュリティーが全区画を常に監視しているというのが自慢だと、御谷住人が語っていた。誇張ではなくそうなのだろう。どこにあるのかもわからないが、高性能な監視カメラがそこら中にあって、部外者だけでなく、関係者の行動すら把握しているのだ。
一度迷子になった高生がすぐに御谷によって発見されたのも、そのおかげだろう。
つまり、いまこの現場も監視されているに違いないということだが。
「やっぱりな」
そうだと思ったんだ、と男は続けながら、高生の隣に腰を下ろした。ありふれたオフィスビルの二階。自販機の並ぶ休憩スペースには、高生と男以外に人気がない。仕事中、というわけでもあるまい。業務時間はとっくに過ぎている。
冷ややかな空気が、ことさらに白々しく流れていた。
男が、嘆息を漏らした。
「君も、やっていられないって顔をしているな」
「はあ……?」
腑に落ちず、横顔を覗き見る。無精髭の似合う顔立ちだ。いわゆる男前といってよく、やや痩せぎすではあるものの、異性に不自由しなさそうな容姿に思えた。もっとも、その疲れ果てたような濁りきった目では、近寄るものも近寄らないだろうことは間違いない。
「……俺もさ」
男が、天を仰いだ。休憩スペースの天井には、照明の無機的な光が灯っているだけだった。彼は構わず続けてくる。
「絶望的な顔をしているだろう?」
彼は、天井から高生に視線を移すと、こちらの目を覗き込むようにしていってきた。確かに、男の顔には、歳や疲労からくるものだけではない、得体の知れぬ感情が浮かんでいた。それを絶望と形容するには多少の抵抗を禁じ得ない。
なぜなら。
「君と同じ顔だ」
くたびれた男の声を聞いて、高生は、先ほど抱いた既視感の正体を知った。よく知っている顔だ。本当に。
鏡に映った自分の顔に似ていた。
男は、八瀬琢磨と名乗った。三十七歳というが、実年齢よりも若く見える。ついこの間までしがないサラリーマンだったよ、と乾いた笑い声を浮かべた背景には、高生と同じ事情があるからに違いなかった。
高生にも、彼にも、他人には話せない秘密がある。
この世の不条理の一端というべきなのだろうか。
彼も高生も、死神の才能に恵まれたがために、人間的な生涯を送ることが許されなかったのだ。物心ついた時から、今日に至るまで。
それは当初、小さな違和感に過ぎなかった。自分以外のすべての時間が静止したような錯覚かと思われた。目に映るもの、手に触れているもの、肌で感じるすべての時が止まってしまう現象は、しかし、錯覚でも何でもなかったのだ。
それは、死神が、自らの職務を全うするために行う時間停止の影響だった。静止した世界で執り行われる殺人は、時の再動とともに世界から忘れ去られる。
それが死神の所業であり、この世の根幹をなすシステムの一端だと知ったのは、高生にとってはつい最近のことだ。
人間と同じ姿をした死神と出会ったことで、高生は、時が止まる原因を知り、選択を迫られた。
死神として生きるか、それとも、この世から消えてなくなるか。
生か死か。
高生にしてみれば、取るべき道は一つしかなかった。長年、時間停止の違和感にさいなまれ続けてきた彼にとって、死神に遭って早々殺されるなど、言語道断も甚だしかったのだ。いや、彼でなくとも、死よりも生を選んだだろう。
人間としての死よりも、死神としての生を。
そして、今日まで生きてきた。大した手続きもなく死神になったとはいうものの、死神だからといって普段の暮らしに変化はなく、いつも通りに学校に通い、御谷からの呼び出しがあればここに来て、死神としての講義を受ける。そんな日々を過ごしていたのだ。
「君はなにがいい?」
不意に琢磨が声をかけてきたので、考えに耽っていた高生は少しびっくりした。琢磨は、休憩スペースの壁際に立ち並ぶ自動販売機の前に立っている。
「なんでも構わないですよ」
「そういう回答が一番困るんだがな」
琢磨は、苦笑しながらも自販機とのにらめっこを開始していた。飲み物を奢ってくれるという。同じ境遇の人間を見つけたからか、それとも、琢磨の人柄なのか。どちらでも構いはしないが、高生は、琢磨と知り合えたことを幸運に思っていた。
なんの因果か死神への道を歩み始めた高生にしてみれば、同じ立場の人と知り合うということは、願ってもいないことだった。琢磨の人柄も、いまのところ悪人には見えない。陰気な面をしているのはお互い様だし、それは状況を考えれば仕方のないことだ。
「これでいいかい?」
「あ、はい」
不意に琢磨が差し出してきたのは、微糖のアイスコーヒーだった。受け取り、礼をいうと、彼ははにかんでいた。その笑顔には人の良さがにじみ出ている。
手のひらから伝わる冷たさは、妙な心地好さをもたらしてくれる。
隣に腰を下ろした琢磨の手には、高生と同じコーヒーがあった。迷った挙げ句、同じものにしたのだろう。自販機の前で困惑する琢磨の顔が思い浮かんで、高生は、小さく笑った。
一息を入れたあと、琢磨が口を開いた。
「厄介なことになったもんだ」
熟睡できるようになったのは嬉しいけどね、と、琢磨は続けた。声音には苦笑がにじんでいる。
「やっぱり、八瀬さんも眠れなかったんですか?」
眠っている間に世界の時が止まるたび、高生は、目を覚ました。熟睡していようが関係なしに叩き起こされ、無為な時を過ごさざるを得なかった。
高生が年中寝不足だったのは、それが原因だった。
「ああ、君もだったのか。才能の症状ってのは、だれでも同じなのかね」
それから、琢磨でいいよ、と彼は続けた。高生は素直にそれに習った。そして自分も高生でいいと告げる。嬉しかったのだ。
静止した時の中で、耐え難い孤独を耐え抜いてきたものにしかわからない感情を共有できる相手をようやく見出だしたのだ。知り合って早々にもかかわらず奇妙な友情が芽生えるのも、当然だったのかもしれない。
「同学年の連中より長い時間を生きてるって実感は、異様なものだったな」
琢磨が、天井を仰いだ。
死神が力を行使するとき、世界の時間は停止する。静止した時を知覚できるのは死神と、死神の才能を持つものだけだ。しかし、たとえ死神の才能を持っていたとしても、静止時間の中ではなにもできず、ただ時間が再び動き出すのを待つしかなかった。
静止世界で起きた変化は、時間の再動とともに無かったことにされる。リセットされる。何事もなかったかのように。気のせいであったかのように。錯覚であったかのように。
だが、死神の才能者の記憶からは消えない。脳は覚えている。時間が静止した世界でも、時を刻み続けているのだ。
それは年を取るのと同じだ。
肉体の年齢は変わらず、意識だけが必要以上に齢を重ねていく。
一度の静止時間は微々たるものでも、何十回、何百回と重ねていくうちに膨大なものへとなっていく。実際には存在しない膨大な時の流れを、高生たちの脳は記憶しているのだ。
それは苦痛に他ならなかった。誰の記憶にも残らない時間を自分だけが覚えているのだ。そして、その失われる時間の出来事は、なんの意味も持たず、消えてなくなる。
絶対的な孤独だけが、高生の心を蝕んでいった。
琢磨も同じだったのだろう。親近感がわくのも無理のない話だったのだ。
そんな時だ。
(なんとも幸薄そうな顔をしておる)
不意に頭の中に響いた声に、高生ははっとなった。まるで自分の心の声のように聞こえはしたものの、明らかに自分の感情とは違う言葉であり、そのうえ幻聴として判断するにはあまりにもはっきりと聞こえ過ぎていた。いや、幻聴とは本来そのようなものかもしれないのだが。
(あやつが連れてきただけのことはある)
一匹の猫がこちらを見ていた。でっぷりと太った猫。一見野良猫のようなふてぶてしさを湛えた黄金色の瞳が、高生の顔を覗き込んでいた。縞模様の体毛は清潔さが保たれており、野良猫などではないことを告げていたし、なによりセキュリティも厳重なビルの中だ。野良猫が入り込む余地はなさそうに思える。
しかし、休憩スペースに突如として現れた猫の不敵な態度とは、人間社会を闊歩する野良猫のそれであり、飼い猫であることへの卑下や気後れといったものがまったく見当たらなかった。自尊心の塊のような面構えだ。
(それほどのものでもない)
まるで猫が胸中のつぶやきに反応したかのような幻聴に、高生は、目を丸くした。猫そのものさえも幻覚なのかもしれない、と、彼は琢磨のほうに目を向けた。
「猫だな」
「……猫ですね」
あっさりと現実であることを告げられて、高生は肩を落とした。なぜか圧倒的な敗北感が両肩にのし掛かってくる。覗き見ると、猫が勝ち誇ったかのような笑みを浮かべていた。
(ふふん)
「ここで飼っているのかな?」
琢磨の疑問符さえ、猫は鼻で笑ったように見えた。
琢磨は、猫の反応など気にしていないのか、手を出しと、あやすように舌を鳴らした。猫は図体のわりには愛らしい鳴き声を発したものの、琢磨に近づこうともしない。
(わしを手懐けようなど笑止千万。千年早いわ)
またも声が頭の中に響いて、猫がそっぽを向いた。
高生は、頭の中に響く声が幻聴である可能性を捨てきれなかったものの、目の前の出来事を否定するつもりもなかった。
猫の思念だ。
この死神のばっこするビルを闊歩する、ふてぶてしい縞模様の猫の考えていることが、声となり、言葉となって高生の頭の中に届いているのだ。
(恐らく……)
だとすれば、高生にだけ聞こえているのは不思議な気がしないでもない。
猫に振られてがっくりと肩を落とす琢磨の様子からは、あの不敵な声を聞いている風には見えなかった。もちろん、幻聴と切り捨てている可能性もなくはないが。
琢磨のため息が聞こえる。猫にそっぽを向かれて余程ショックだったのだろう。猫が好きなのかもしれない。
(ふむ……)
猫が、高生を見た。黄金色の虹彩が輝いているように見える。美しくも儚さを帯びた瞳。長い長い時の流れを感じさせるような、そんな輝き。鈍い光。
そこには、永遠が瞬いている。
(おぬしとは波長が合うようじゃの)
「えっ?」
思わず声に出してしまったものの、琢磨は気づかなかったようだった。が、ほっと胸を撫で下ろしている場合でもなかった。
靴音が、休憩スペースの静寂を乱すでもなく、むしろ場の空気を凍てつかせるかのような冷やかさで響いてきた。聞き知った靴音だ。その音を聞くだけで背筋を伸ばしたくなるのは、高生だけだろうか。
御谷住人が、あきれたような顔で猫を見下ろしていた。長身痩躯の男だ。濃い青色のスーツを着込み、一見サラリーマンのような彼は、歴とした死神だった。外見的には三十代そこそこに見えるが、実際のところはわからない。年齢不詳を地で行くのは死神の特権というものかもしれない。もっとも、喜ぶようなことでもない。呪われた宿業といってもいいのだ。
それは死神という呪縛そのものだ。
「課長、こんなところにいたんですか。探しましたよ」
彼は、猫の背後まで近づくと、無造作に捕まえて見せた。猫は抗う様子も見せなかったが、どこか不服そうな顔をしながら抱えられるままにしていた。琢磨が疑問を言葉にした。
「課長?」
「この猫、猫課長と呼ばれているんだよ」
縞猫を重たそうに抱えながら、彼はそんなことをいってきた。ふてぶてしい猫の眼は、御谷の顔をじっと見ている。
(つまらんことになってしまったのう)
嘆息そのものの思念が、高生の脳裏に響いたが、高生はもはや驚かなかった。ただ、猫がこちらに聞かせているのか、猫の心の声が漏れ聞こえているのかわからないのは困ったものだと思った。こちらの心のうちまで覗かれているような気分になる。不愉快というほどでもないにせよ、気持ちのいいものでもない。
「事実、殺人課の課長なんだけどね」
しれっと恐ろしいことをいってきた死神に対して、高生も琢磨も唖然となった。もちろん冗談に決まっているのだが、心の声で語りかけてくるような猫だ。猫の正体がなにであっても不思議ではない。
そう、不思議ではないのだ。
死神が実在し、その神秘的ともいえる所業を目の当たりにした高生にとってみれば、猫が死神の組織の長であることなど大したことではないといえた。もっとも、それが事実であれば驚くし、信じられないだろう。
御谷が、まるでこちらの心の奥底まで見透かすかのようにいってきた。
「この世界を構成するのは人間だけじゃないということだよ。数多の動物がいて、植物がいる。生きとし生けるものの死を司るのが我々なら、その中に猫の一匹や二匹紛れ込んでいたっておかしくはないだろう」
御谷のいうことはもっともではあった。にわかには信じられないことだが、彼が嘘や冗談をいうような人柄ではないこともわかりきっている。御谷は事務的な男だ。詩的な一面もあるにはあるが、彼が発する言葉の大半は氷のように冷ややかで、疑いようもない事実だ。疑問を挟む余地を許さない、厳粛な響き。何百年もの時を過ごしてきたものだけが持つ境地なのかもしれない、とも高生は思った。
高生も、いつかその境涯に辿り着くのだろうか。
「とはいえ、元人間の死神のほうが圧倒的に多いのも事実だよ」
「人間を相手にするなら人間が一番だってことですかねー」
「さあ、どうだろうね」
素っ気ない御谷の反応に、琢磨は、肩を竦めたようだった。取り付く島もない。
猫が鳴いた。不服そうな鳴き声は、御谷に向けられたものだろう。残念ながら、その心の声は聞こえなかった。では、さっきまで聞こえていたあの声は幻聴だったのか、というとそうではないだろう。恐らく、猫の思念は指向性のもので、だから高生の頭の中には響かなかったのだ。
猫課長は、御谷を見上げている。
「ええ、ふたりとも、俺が死神に仕立てました。人手不足なのは課長だって知っているでしょう」
御谷が反論すると、猫は黙った。御谷の反応を見る限り、猫の心の声は幻聴などではなかったのだ。そして、指向性というのも間違いではないのかもしれない。
猫課長は、御谷に抱えられたまましばらくなにかを考えている様子だったが、不意にこちらを向いた。思念が飛び込んでくる。
(おぬしはそれでよかったのか?)
問われて、高生は言葉に詰まった。容易に答えられる問題でもないような気がした。いや、答えは決まっている。良いも悪いもない。これしかなかったのだ。この選択しか、彼には選べなかった。いまさら後悔しても遅いのだ。それがわかっているからこそ、絶望するしかない。
(ふむ。確かにそうじゃの)
猫はこちらの心を読んでいるのだろう――神妙にうなずいてくる。その様子はどう見ても奇異なのだが、この冷ややかな空気の中にあっては、違和感を覚えないほどに溶け込んでいた。
猫が首をもたげ、御谷を仰ぎ見た。今度はなぜか、猫の思念が高生にも届いた。
(おぬしらしいやり方よのう)
御谷は、ややうんざりしたように顔を歪めたが、すぐにこちらに言葉を投げてきた。
「……選択肢は与えたはずだがね。死ぬか、生きるか。死神の才能を持って生まれたものには、それ以外の未来は存在しないんだ。残念ながら」
頑なな御谷の言いように、猫課長は、肩を竦めたようだった。猫が肩を竦めるなど、そう見れるものでもあるまい――などと感心している場合でもない。
御谷は、自分のほうこそ肩を竦めたいとでもいいたげな様子だったが、ため息も吐かずに続けてきた。
「ま、もう少し猶予を与えても良かったのかもしれないが、結果は変わらなかっただろう。だれだって自分の命は惜しい。それは恥ずべきことではない。人間として当然の感情だ」
「あなたの言う通り。何時間、何百時間悩んだって、結論はこれだっただろうさ。別にあなたを責めるつもりもない」
琢磨の台詞に、高生もうなずいた。結果は変わらなかっただろう。どれだけ悩み、どれだけ考えたところで、高生の選べる道はひとつしかなかったのだ。
死神になることを拒絶すれば、死ぬだけだ。御谷の言う通り、命は惜しい。死にたくなんてなかった。十七年そこそこの人生。人より多くの時間を感じているとはいえ、その時間は無為なものだ。結局、他人と同じだけの、いやむしろ、他人よりも余程物足りない十七年を過ごしてきたのだ。
死神になったとしても、人並みに生きていけるというのなら、そっちの道を選ぶ以外にはなかった。
だから彼はここにいて、死神たちの説教を聞いている。
「責められる道理もないがね」
御谷は苦笑して見せた。猫課長はというと、いつの間にか彼の頭の上にいた。細い棒きれのような男の頭上にでっぷりと肥えた猫が鎮座している様は、滑稽以外のなにものでもなかったが、御谷は気にもしていないように見えた。慣れたことなのかもしれない。
猫の体重を支えきれず首が折れたりしないか、少しだけ心配になったりもした。
「まあいいさ、精々悩むことだ。後悔し、絶望することだ。死神の最初にして生涯の仕事はそれだといってもいい。我々は絶望の隣人。死そのものだ。だからこそ生きていかなければならないという矛盾を孕んだ存在でもあるのだからね」
彼は、こちらに背を向けた。一瞬、猫の心の声が聴こえた気がしたが、なにを言っているのかわからないまま聞こえなくなっていった。御谷が離れていったからだ。ひょろ長い男の青ざめたスーツだけが目に焼き付くようだった。
呼び止めようとは思わない。呼び止め、問いかけたところで、得られるものなどたかが知れている。むしろ、何も得られない可能性のほうが高い――そんな気がする。
暗澹たる面持で、天井を仰ぐ。休憩スペースを照らす淡い光が、ひたすらに眩しく感じられた。遠い光。なにもかもが遠い。あまりにも。
手を伸ばしても永遠に届かない。
永遠に、人間には戻れない。
死神になってしまった。
(成れの果て……か)
御谷の言葉が耳朶に突き刺さっている。抜けない棘のようだ。しかもその棘には毒が塗られていて、時とともに染み込んでくるのだ。心を侵し、壊していくように。
夢想は、琢磨が立ち上がったことで打ち切られた。
「まあ、あれだな。なるようにしかならないってことだ」
琢磨は、ひとり納得したようにつぶやいていた。腕時計に目を落とし、後頭部を掻く――その一連の動作が、高生にはなぜかおかしくて、噴き出しかけた。琢磨には悪いが、どうにも似合わなかったのだ。
もっとも、琢磨は高生の反応に気付いていなかったのだろう。こちらを振り返るなり、肩を竦めて見せた。
「早いとこ帰らなきゃ嫁に怒られる」
午後八時過ぎ。
高生が、この通称・死神本部を訪れたのは午後五時のことであり、すでに三時間も経過していた。死神としての講義は一時間以上に渡って続いたが、それでもまだまだ足りないらしく、明日もこの時間に来ることになってしまった。
新人は、覚えなければならないことが多い。死神といえど、それは変わらないのだ。
オフィス街を抜け、駅へ向かう。道中、琢磨と一緒になったのは運が良かったと思うべきなのかもしれない。このオフィスビルが林立する見知らぬ街から駅に向かうまで、迷子にならない自信がなかった。
大人が一人いるだけで、安心感は随分と違うものだ。
オフィスビル群を抜け出し、しばらく歩くと小さな公園があった。死神のすみかに向かう際にも見た記憶はあるのだが、日の光があるのとないのとでは大分印象が異なり、同じ公園とは思えなかった。
「ちょっと寄っていいかな?」
煙草を吸いたいんだ、という琢磨を拒む理由もなく、高生は彼の後に続いて公園に入った。
夜の公園には恐ろしく人気がない。ひとっこひとりおらず、風に揺れる遊具だけが、ここが公園であることを思い出させてくれる。
公園の二ヶ所にある照明灯のおかげで、不便には感じなかった。むしろ眩しすぎるきらいがある。街中の公園。用心に越したことはないのだろうが。
「家では吸えなくてね」
塗装の剥げたベンチに腰かけた琢磨が、まるで言い訳でもするかのように口走ってきた。
「子供がね、生まれるんだ」
だから家では吸えないのだろう。
その一言で、彼が何故死神になったのかわかった気がした。
家庭を守るためには、死神にならざるを得なかったのだ。
ひととして死ぬか、死神として生きるか。
高生たちに突きつけられた選択肢は、あまりに極端なものだ。考える余地も与えられなかったが、琢磨は迷わず選んだのかもしれない。
死神になれば、死ぬ心配はなくなる。永久に近く生きていけるのだから。
まだ生まれてもいない子供の将来を想えば、彼には死神になる以外の選択肢などあり得なかったのだろう。
懐から煙草を取り出した男の横顔を見やる。相変わらず絶望的な表情をしてはいたが、ビルの中で出会ったときよりはましな顔色をしていた。
「一本、もらえます?」
なぜそんなことを言い出したのか自分でもわからなかった。この不条理な現状へのなんらかの反抗なのかもしれない、と琢磨が驚くのを見ながら考えた。もっとも、そんなものが反抗になるはずなどない。世界を支配するシステムはもっと強大で、複雑なのだから。
「君はまだ成人じゃないだろう」
「死神ですけどね」
高生は悪びれもせずに告げると、琢磨の隣に座った。微風が頬を撫でる。夏も半ば。熱を帯びた生温い夜風は、今の気分にはぴったりだった。
「死神を裁く法はない……か」
そういうと、琢磨は微かに笑った。箱から一本取りだすと、高生に手渡してくれた。そして、ポケットから取り出したライターで火をつけてくれるのを待って、口元へと近づける。
煙草の煙を一気に吸い込んで、高生は、盛大にむせた。口から入り込んだ煙が、まるで喉や鼻腔を蹂躙するかのようであり、気管という気管をのたうち回る存在に悪意さえ感じた。もちろん、煙草が悪いわけではない。
「なれないことをするからだよ」
琢磨が、笑った。
「煙草、まずいっすね」
高生も釣られて笑った。ごほごほとむせながら、泣くほど笑った。なぜだかわからないけれど、笑わずにはいられなかった。それくらい馬鹿馬鹿しくて、くだらなくて、
煙草の味も、今の笑いも、無限に長く続く生の中で忘れ得ぬものとなるのだろうか。
煙は夜気に紛れて消えていく。
口の中の苦みだけを残して。