【短編版】笑われるだけの宮廷道化師ですが、国王殺しの濡れ衣で処刑されたので王国を騙します
宮廷道化師ルカが処刑される日、王都はよく晴れていた。
人の首が落ちるところを見るには、絶好の天気らしい。
「国王殺しをさっさと殺せ!」
「裏切り者!」
「最後に何か面白いことをやってみろ!」
中央広場を埋めた見物人たちが笑っている。
少し前まで、ルカの芸を見て笑っていた者たちだ。
王の物真似をすれば笑われた。
貴族に蹴られ、それでも笑顔で立ち上がれば、さらに笑われた。
笑われるのが道化師の仕事である。
ただし、首を落とされて笑われるのは初めてだった。
「囚人七一四。国王陛下暗殺の罪により斬首」
処刑台の下で、王立牢獄の記録官が帳面を開いた。
「私にはルカという名前がありますよ」
「処刑記録に、道化師の芸名は必要ない」
「なるほど。死ねば名前より番号が大切になるらしい」
「元より、お前の名前に価値などない」
別の声がした。
衛兵に守られた王宮監察官ヴァルドが、処刑台を見上げている。
今回の処刑命令を承認した男だ。
「お前は王を笑わせるためだけに宮廷へ置かれていた。国政にも記録にも、お前の言葉が残ることはない」
「それは困りました」
ルカは首枷へ頭を入れられながら笑った。
「私の冗談が後世へ伝わらない」
見物人たちがどっと笑う。
ヴァルドも薄く笑った。
「安心しろ。国王殺しの道化師としてなら、歴史に残してやる」
三日前、ルカは処刑命令の日付がおかしいと訴えていた。
国王の死後に発行されたはずの命令書に、国王がまだ生きていた日の日付が記されていたのだ。
だが、誰も耳を貸さなかった。
道化師の言葉だから。
人を笑わせるための口が真実を語ったところで、それも芸だと思われる。
群衆の後ろに、第三王子エリアスがいた。
病弱で、臆病で、何の役にも立たないと笑われている王子。
今の彼には、処刑を止めるだけの力がない。
エリアスが胸元で指を二度動かした。
予定どおりだ。
処刑人が斧を握る。
その立ち方を見て、ルカの笑みがわずかに固まった。
本来の処刑人ではない。
処刑台で何かを企んでいることまでは、ヴァルドに察知されていたらしい。
「最後に言い残すことはあるか」
「もちろん」
ルカはヴァルドを見た。
「今日のことを、よく覚えておいてください」
「なぜだ?」
「あなたが人生で最後に笑った日になるかもしれませんので」
ヴァルドの笑みが消えた。
処刑人が斧を振り上げる。
一度見た動き、一度聞いた声なら忘れない。
ルカは、王宮の宴で見た曲芸師の動きを《再演》した。
呼吸を止める。
右肩の関節を外す。
激痛に視界が白く染まった。
それでも身体を細め、首枷の下にある点検口へ滑り落ちる。
かつてこの処刑台で余興をさせられたルカは、足元に血を洗い流すための空間があることを知っていた。
点検口の内側には、清掃係に化けた協力者が曲芸用の偽首を隠している。
ルカが落ちるのと入れ替わるように、血糊をまとった偽首が首枷の下へ転がった。
「では皆様」
斧が落ちた。
「次の舞台でお会いしましょう」
歓声が上がる。
誰もが、処刑台を転がる首へ目を奪われていた。
処刑台の下で血に濡れた布へ包まれたルカを見た者はいない。
清掃係に化けた協力者は、ルカを汚れた布と一緒に荷車へ押し込み、そのまま広場の外へ運び出した。
城門の外で待っていた棺へ移されたとき、ルカは既に意識を失っていた。
◇
暗闇の中で、車輪が軋んでいた。
「……狭い」
棺の中で、ルカは目を開けた。
鼻を満たす血と湿った木の臭い。
首を動かすと、焼けた鉄を押し当てられたような痛みが走った。
「生きているのか!」
棺の外から、エリアスの声がした。
「今のところは。ただし、死後の住居としては狭すぎます」
馬車が止まり、棺の蓋が開いた。
青ざめたエリアスが、ルカへ手を差し出す。
ルカは格好よく起き上がろうとした。
起き上がれなかった。
「何をしているんだ」
「復活です」
「できていない」
「右肩が外れたままでして」
エリアスは無言で医師を呼んだ。
「待ってください。もう少し格好よく助けていただけませんか」
「棺から半分だけ出ている時点で手遅れだ」
本来なら、傷一つ負わずに生還するはずだった。
だが、入れ替わった処刑人の斧は想定より低く、ルカの首を浅く裂いていた。
王都外れの狩猟小屋へ運び込まれたルカは、首の傷を縫われ、外れた肩を戻された。
「しばらく声を出すな」
治療を終えた医師が言った。
「承知しました」
ルカは、医師とまったく同じ声で答えた。
「今、声を出したな」
「気のせいでしょう」
今度はエリアスの声だった。
「ルカ」
「はい」
「それは僕の声だ」
「傷が治ったか確認を」
「どうやら性格は治らなかったようだな」
「そちらは手遅れだそうです」
医師に包帯をきつく締め直され、ルカはようやく黙った。
◇
それから四十日余り。
宮廷道化師ルカは、王国で最も自由な死者になった。
彼のものとされた首は、国王殺しの穢れを外へ漏らさぬためという名目で、顔を布で覆われたまま三日間さらされた。
その後、罪人の墓へ埋められた。
王立牢獄の記録にも、死亡と書かれている。
誰も、死んだ男が王都の地下室で朝食を食べているとは思わない。
「ところで、私の墓はどんな様子です?」
「花が供えられていた」
「嬉しいですね」
「腐った野菜も置かれていた」
「料理の材料でしょうか」
「前向きすぎるだろう」
ルカは化粧と《再演》を使い、老人や商人、使用人に化けて王都を歩いた。
《再演》で変えられるのは、声、表情、呼吸、姿勢、歩き方、筋肉の使い方。
顔や髪、衣服までは変わらない。
それでも化粧や衣装、仮面と組み合わせれば、見知った相手すら欺ける。
その間、エリアスは国王暗殺について調べ続けた。
やがて、秘密の仮面舞踏会が開かれるという情報をつかんだ。
表向きは、国王を悼むための追悼舞踏会。
実際には、王宮の裏仕事に関わった者たちが顔を隠して集まる秘密会合だった。
参加者の動物仮面は、暗殺計画で与えられた役名を示しているらしい。
そして、その会場へ国王暗殺を命じた書類が持ち込まれるという。
「いかにも罠ですね」
地下室の机へ招待状の見本を広げながら、ルカが言った。
「僕もそう思う」
「では行きましょう」
「罠だと言ったばかりだろう」
「罠は便利ですよ。餌と、罠を仕掛けた人間が同じ場所にいますから」
舞踏会の主催者は、王宮監察官ヴァルド。
ルカを国王殺しとして処刑した男だった。
◇
舞踏会の三日前。
エリアスは二人の協力者を狩猟小屋へ連れてきた。
一人目はミラ。
古物修復師を表の仕事にする贋作師だ。
彼女に人間の変装や、錠前破りはできない。
作れるのは、物の贋作だけ。
ただし、その精度は本物を長年扱う役人さえ欺く。
「招待状、仮面、命令書」
ミラは三つの品を机へ並べた。
「招待状と仮面は、病床にいるアーベル伯爵から借りた実物をもとに作ったわ」
「伯爵本人が協力したのですか?」
「ヴァルドのことが嫌いなんですって」
エリアスが答えた。
「君の無実を信じたわけではない。ただ、ヴァルドが困るなら招待状くらい貸すと言っていた」
「心強い味方ですね」
「味方ではないと思う」
「気が合いそうです」
最後に置かれたのは、国王暗殺の命令書だった。
王家の印章。
ヴァルドの署名。
国王の飲み物へ毒を入れるよう命じる文面。
末尾には、立会人として王宮侍医セドリックの名前が記されている。
「本物を見たことは?」
「ない」
「それでも作れるのですか?」
「本物でなくても、本物だと信じさせればいい」
ミラは命令書の末尾を指先で叩いた。
「侍医の名前は、私が足した」
「犯人しか訂正できない間違いですね」
「完璧なら、黙って燃やされるでしょう。間違いがあれば、直したくなる」
「あなたを怒らせる方法と同じですね」
「私の場合は、直す前に相手を殴るけど」
ミラがのみを机へ置いた。
ルカは伸ばしかけた手を引っ込めた。
ヴァルドへ送ったのは、命令書の本文中央を精巧に写した見本だけだ。
そこには、国王の酒杯へ毒を入れる時刻と、王宮内の受け渡し場所が記されている。
立会人の欄は含めていない。
贋作の全体は、舞踏会当日に何も知らない仲介人を通じて屋敷へ届ける。
ミラは王都古物商組合に所属する修復師として、ヴァルド側から鑑定を依頼されていた。
匿名の売り手が、組合による鑑定を取引条件にしたためだ。
ミラとルカの関係を、ヴァルドは知らない。
「本当に共犯者を集めると思うか?」
エリアスが尋ねた。
「ヴァルドは疑り深く、自信家です」
ルカは偽命令書を見つめた。
「書類が残っていると知れば、仲間の裏切りを疑う。誰も信用していないくせに、自分なら全員を支配できると思っている。きっと見事な舞台を用意してくださいますよ」
二人目はガストン。
元近衛騎士。
身体は大きく、腕も立つ。
勇敢で義理堅く、約束を破らない。
そして難しいことを考えるのが、致命的に苦手だった。
「あなたはアーベル伯爵の護衛です」
「分かった」
「入場したら、受付にある一番大切そうな物を守ってください」
「どれが一番大切なんだ?」
「ご自分で判断してください」
「難しいな」
「今のところ、今日一番難しい役ですね」
「できるだろうか」
「私も不安です」
「本人の前で言うな」
「聞こえていたのですか?」
「耳は悪くない」
「よいところが一つ見つかりましたね」
ガストンがルカを見下ろした。
「俺は褒められているのか?」
「今のところは」
エリアスは、信頼できる司法官へ舞踏会の存在を知らせていた。
情報提供者と作戦立案者の名前は伏せている。
ただし、道化師の仮面をつけた匿名の協力者が現場に入ることと、その人物の正体を暴かないことは伝えてあった。
偽命令書は証拠として提出せず、使用後に司法局が押収する。
その条件で、捜査用の囮として使うことも認められていた。
「司法局は動くのですか?」
「国王暗殺への具体的な発言か、証拠を処分する現場を確認できれば動くそうだ」
「では、証拠が聞こえる場所へ来ていただきましょう」
ルカは、机の端に置かれた楽団員の経歴書へ目を向けた。
エリアスが兄を弔うため、追悼楽団を推薦する。
兄を失った無能な第三王子の善意なら、ヴァルドも警戒しない。
経歴書は、ミラが本物そっくりに仕上げていた。
「演奏はできるのか?」
「音は出せるそうです」
「音楽ではなく?」
「そこから先は、本人たちの努力次第です」
三日間、ルカはアーベル伯爵の姿を《再演》した。
曲がった背中。
鼻へ抜ける低い声。
酒を飲む前に杯を二度回す癖。
悪口を言った後だけ、満足そうに喉を鳴らす。
舞踏会の当日。
処刑された道化師は、背中の曲がった老伯爵として、ヴァルドの別邸へ向かった。
◇
屋敷の前には、豪華な馬車が列を作っていた。
招待客たちは素顔を隠し、門番へ招待状を差し出していく。
第三王子本人として参加するエリアスも、銀鹿の仮面で顔の上半分を覆っていた。
ルカたちの番になった。
門番がミラの作った招待状を確認する。
封蝋、署名、紙、折り方。
どこにも不自然な点はない。
受付係はアーベル伯爵の名と、仮面に刻まれた番号を名簿へ記した。
「アーベル伯爵。お待ちしておりました」
「ずいぶん待たせたようじゃな」
ルカは老人らしく喉を鳴らした。
そのまま門を通ろうとしたときだった。
「待て!」
やたらと大きな声が響いた。
小太りの青年が、人差し指を突き出している。
公爵令息バルト。
ヴァルドから仮面ごとの役割を半端に教えられ、怪しい人物が現れたら騒ぎを起こすよう命じられた男だ。
本人は、自分を比類なき策士だと信じている。
実際に比類がないのは、声の大きさだった。
「その老人は偽物だ!」
エリアスの肩がわずかに動く。
ルカはアーベル伯爵の姿勢を崩さず、面倒そうに杖をついた。
「ほう。なぜ、そう思うのかね?」
「本物のアーベル伯爵は、もっと背が高い!」
「十年前に会ったときはな。人は老いると背が縮む」
老伯爵は鼻で笑った。
「君は成長しても、頭の中身が伸びなかったようじゃが」
周囲から笑いが漏れた。
門番が納得したように頷く。
「本物だ」
エリアスが、ほとんど唇を動かさずに囁いた。
「悪口が本人確認になるのか」
「長生きすれば、何でも役に立つ」
「その護衛も怪しい!」
バルトがガストンを指さした。
「先ほどから瞬き一つしていないぞ!」
「壁じゃ」
「人間に見えるぞ!」
「よくできた壁なのじゃ」
そのとき、ガストンが大きなくしゃみをした。
「今、壁がくしゃみをしたぞ!」
「王都の壁は花粉に弱い」
「そんな馬鹿な話があるか!」
門番はガストンを眺めた後、門を開いた。
「これだけ馬鹿な説明を堂々と言えるのは、アーベル伯爵くらいだ。入ってよし」
ルカは老伯爵らしく顎を上げ、門を通った。
ガストンはその場に残り、受付を観察する。
受付係が何度も確かめ、誰にも触れさせようとしない物があった。
招待客の登録名と、仮面の番号が書かれた名簿だ。
ガストンは名簿の前へ立った。
本人なりに、一番大切そうな物を選んだらしい。
ミラは既に、組合から派遣された鑑定人として大広間へ通されていた。
◇
大広間には、動物の仮面をつけた貴族たちが集まっていた。
狼、鷹、蛇、猫、鹿。
二階席から、ヴァルドが会場を見下ろしている。
処刑台では、あれほど楽しそうに笑っていた男。
今夜は、獲物を待つ目をしていた。
会場の奥には、封を解かれた命令書が展示されている。
そのそばに、鑑定人として呼ばれたミラが立っていた。
ヴァルドの部下から紙の年代や印章について尋ねられ、落ち着いた口調で答えている。
「紙とインクは、国王陛下が亡くなった頃の物として矛盾しません」
本物だとは言わない。
それでも、ヴァルドの疑いを深めるには十分だった。
ヴァルドの部下が命令書へ透明な覆いをかけ、二人の衛兵を配置する。
ミラが一瞬だけルカを見て、わずかに頷いた。
餌は予定どおり、舞台へ上がった。
楽団が演奏を始める。
ひどく下手だった。
弦楽器が半音ずれ、太鼓だけが自信満々に先走っている。
「あの楽団、大丈夫なのか」
エリアスが小声で尋ねた。
「音は出ておる」
アーベル伯爵の声で、ルカが答えた。
「音楽かどうかを聞いている」
「そこまで望むのは酷というものじゃ」
ルカは会場を見渡した。
「それより、大きな問題があるぞ」
「何だ?」
「白狐が五人おる」
一人は料理を食べ続けている。
一人は小柄な女。
一人は周囲を監視している。
一人は杖をついた老人。
残る一人はバルトだった。
「なぜ、お前まで白狐なのじゃ」
「私の名案だ。白狐が一人では、命令書の所持者だと分かってしまう。ならば、同じ仮面を増やせばよい!」
「用意できたのは五つだけか?」
「そうだ!」
「途中で予算が尽きたのじゃな」
「なぜ分かった?」
「推理じゃよ」
「さすがアーベル伯爵!」
バルトは感心し、すぐに小柄な白狐を指さした。
「あの白狐こそ、死んだ道化師に違いない!」
「女性だが」
エリアスが言う。
「変装だ!」
「私の妻だが」
鹿の仮面をつけた男が答えた。
「夫まで用意しているとは、周到な変装だな!」
鹿の仮面は妻を連れ、無言で離れていった。
ルカは壁際の白狐へ目を向けた。
老人のように腰を曲げ、左足を引きずっている。
だが、人を避けた瞬間だけ重心が滑らかに前へ移った。
鍛えた者の動きだ。
「あれじゃ」
「何が分かった?」
「老人役にしては、足が若すぎる」
白狐はルカの視線に気づき、人混みへ入った。
同時に楽団の曲が変わり、招待客たちが踊り始める。
人の波が白狐を隠した。
ルカが追おうとした瞬間、黒猫の仮面をつけた老婦人が腕を取る。
「アーベル卿。一曲、お相手いただけます?」
「この腰を見ても、そのようなことを申すか」
「昔は三晩続けて踊ったではありませんか」
アーベル伯爵なら断らない。
ルカは杖をエリアスへ預け、老婦人の手を取った。
曲がった背中。
短い歩幅。
癖のある足さばき。
老伯爵の演技を保ったまま舞踏の輪へ入り、白狐を追う。
「アーベル卿。私ではなく、あちらの殿方を見ていますね」
「申し訳ない。命を狙われておるのでな」
「まあ。お忙しいこと」
ルカは老婦人を一度回転させた。
その隙に舞踏の輪の外側へ移る。
白狐は二階へ続く階段を上がっていた。
ルカが目配せを送る。
エリアスは給仕から酒杯を受け取り、白狐へ近づいた。
すれ違いざまに肩をぶつける。
赤い酒が、白狐の上着へこぼれた。
「申し訳ない。新しい上着を用意させよう」
「結構です」
濡れた布が身体へ張りつき、左右の脇に短剣の輪郭が浮かんだ。
白狐は上着を押さえ、階段を駆け上がる。
ルカは老婦人へ一礼し、その後を追った。
白狐は回廊の手すりを飛び越え、階下へ着地した。
「老人ではないな」
追いついたエリアスが言った。
「気づくのが三秒ほど遅いぞ、殿下」
白狐は広間中央で立ち止まった。
ルカが逃げ道を塞ぐ。
「一曲、相手をしてもらおうかの」
「断る」
「老人ならば、腰が痛いと言うところじゃ」
「黙れ」
「声も若い。役作りが甘いのう」
白狐の袖から短剣が滑り出した。
ルカはその手首を取り、舞踏の動きで半回転する。
刃が二人の間を通り過ぎた。
周囲の客たちは余興だと思い、拍手している。
「左足を引きずる設定は、どこへ行った?」
「忘れた」
「役者が舞台で設定を忘れてはいかん」
「私は役者ではない」
「ようやく本当のことを言ったな」
白狐はルカの手を振りほどき、自ら仮面を外した。
白髪の下から現れたのは、若い男だった。
「ようやく会えたな、死んだ道化師」
低い声が、大広間へ響く。
ルカは老伯爵の姿勢を崩さず、片眉を上げた。
「声は悪くない。少し力が入りすぎておるがな」
「なぜ私が批評されている?」
「せっかくの登場場面じゃ。大切にするとよい」
「お前のせいで台なしだ!」
「相手のせいにするようでは、まだ二流じゃな」
大広間の扉が一斉に閉じた。
楽団の演奏も止まる。
二階の特別席に、ヴァルドが立っていた。
「もういい、シグ」
「まだ台詞を最後まで言っていません」
「言わなくていい」
「三日かけて考えたのですが」
「始末しろ」
シグは不満そうに短剣を構えた。
ヴァルドはルカを見下ろす。
「偽の招待状を使った老人が現れた時点で、お前だと疑っていた」
「門番へは教えてやらなかったのかの?」
「入口で捕らえれば、仲間が逃げる。だからシグに、お前を会場の中央まで誘導させた」
ヴァルドは招待客たちを見回した。
「命令書が残っていると聞けば、それを持ち出した裏切り者は必ず動く。お前が生きているなら、証拠を奪いに来る」
「それで全員を集めたわけか」
「裏切り者も、お前も、今夜ここで始末する」
ルカは老伯爵の声で喉を鳴らした。
「ご自分なら、全員を支配できると信じたわけじゃな」
「実際、できる」
「それは実に頼もしい」
ルカは杖を構えた。
「できればの話じゃが」
「処刑台で何か企んでいることは、見張りの報告で分かっていた。そこでシグに処刑人を差し替えさせた」
ヴァルドが薄く笑った。
「処刑人は、斧が確かにお前の首へ触れたと証言した。それでも念のため、今夜の罠を用意したのだ」
「用心深いことじゃな」
「それでも生き延びたことだけは褒めてやる。もっとも、今度こそ終わりだ」
「さて。道化師とやらが、どこにおるのかのう」
「いつまで老人を演じるつもりだ」
「わしはアーベル伯爵じゃ。招待状にも、そう書かれておったはずじゃが」
「その招待状が偽物だ」
「では門番の目が節穴だったのじゃろう。雇い主の責任じゃな」
「シグ」
短剣がルカの喉元へ走った。
ルカは老人の姿勢を保ったまま、半歩退いて避ける。
二本目が脇腹を狙う。
踏み込みも、刃を返す角度も見えている。
だが、理解できることと身体が追いつくことは別だった。
刃先が上着を裂いた。
同じ頃、受付では係官が名簿を抱え、大広間へ向かおうとしていた。
その前にはガストンが立っている。
「どけ。監察官から名簿を持ってこいと命じられた」
「駄目だ」
「私が管理を任されている名簿だ!」
「俺は、これを守っている」
ガストンは名簿を奪い返した。
係官が慌てて大広間へ逃げる。
ガストンは名簿を抱えたまま追いかけ、扉を抜けた。
その先で、シグの短剣がルカへ振り下ろされていた。
ガストンが二人の間へ飛び込む。
「そこをどけ」
シグが言った。
「嫌だ」
「理由は?」
「伯爵を守る」
「名簿も守るのではないのか」
「両方だ」
「なら、名簿を置け」
ガストンが考え始めた。
「納得するでない!」
老伯爵の叱責が飛んだ。
「今はわしを守れ!」
シグが右へ踏み込み、左から回り込む。
高度なフェイントだった。
ガストンは動かなかった。
「なぜ反応しない」
「何をしたのか分からなかった」
「私の技を見切ったのではないのか?」
「全然」
シグの顔が引きつる。
ルカは老伯爵の声で笑った。
「本人にも読めぬ考えを、他人が読めるものか」
ガストンが名簿を抱えたまま、正面から体当たりする。
技巧も駆け引きもない。
単純な巨体と力に押され、シグが招待客の中へ突っ込んだ。
「照明を消せ!」
ルカがヴァルドの声で命じる。
使用人たちが反射的に燭台の火を落とした。
大広間の中央が暗闇へ沈む。
ただし、楽団席には譜面用の小さな灯りが残っていた。
「道化師は西の扉だ!」
ヴァルドの声が響く。
衛兵の半数が西へ走る。
「違う。二階へ向かった!」
今度は騎士隊長の声。
残りが階段へ向かう。
ルカは人混みをすり抜け、バルトの背後へ回った。
アーベル伯爵の声で囁く。
「白狐は、おぬしを切り捨てるつもりじゃ。狼が毒を運んだ件まで、司法局へ売るらしいぞ」
「何だと!」
バルトは期待どおり、声を潜めなかった。
「狼! お前が毒を運んだ件まで、白狐に漏れているぞ!」
「馬鹿! なぜそれを大声で言う!」
狼の仮面が反射的に叫んだ。
「私は箱を運んだだけだ! 全部、私の責任にするつもりか!」
「中身が毒だと知りながら運んだのだろう!」
鷹の仮面が叫び返す。
「私を巻き込むな!」
「貴様が王宮へ入る通行証を用意したのだろう!」
「家族を処罰すると脅されたんだ! 私は通行証を渡しただけだ!」
鷹の仮面が蛇を指さした。
「命令書を処分した蛇とは違う!」
「ふざけるな!」
蛇の仮面が怒鳴った。
「命令書を捨てろと言ったのはヴァルドだ! 最後には私まで口封じするつもりだったくせに!」
広間が静まり返る。
「黙れ!」
二階からヴァルドの声が飛ぶ。
「全員、口を閉じろ!」
暗闇の反対側から、まったく同じ声が返った。
「そうだ。全員、口を閉じろ!」
「今のは私ではない!」
「今のも私ではない!」
「どちらが本物だ!」
二人のヴァルドが、同時に「私だ」と叫んだ。
その混乱の中、ルカは柱の陰へ滑り込む。
老伯爵の仮面と白髪を外し、上着の内側から道化師の仮面を取り出した。
仮面で素顔を覆ったまま背筋を伸ばし、舞台の中央へ進む。
◇
燭台へ再び火が入った。
大広間の中央に、道化師の仮面をつけた男が立っていた。
白髪はなく、曲がっていた背中も伸びている。
首には、処刑の傷を隠す包帯が巻かれていた。
ルカは、ここで初めてアーベル伯爵の役を降りた。
「お待たせしました」
本来の声が大広間へ響く。
「今宵の主役が、ようやく揃ったようですね」
ヴァルドは二階席からルカを見下ろした。
「自分から姿を現すとは、愚かな男だ」
「道化師ですので」
「公には死んでいる。今ここで殺しても、二度死ぬだけだ」
「二度目なら、少しは上手に死ねそうです」
シグが血のついた短剣を構え、舞台へ上がる。
ヴァルドは展示台から命令書を奪った。
「書類を運んだ仲介人は何も知らなかった。金を渡した者の顔さえ見ていない。出品者も姿を見せなかった」
ヴァルドは命令書へ目を落とす。
「裏切り者は、お前を餌にして逃げたらしいな。ならば、これを残しておく理由もない」
「私へ見せつけるためでは?」
「自分の無実が灰になるところを見れば、道化師も少しは静かになるかと思ってな」
ヴァルドは命令書を燭台へ近づけた。
「これが、お前の無実を証明する最後の証拠だ」
紙へ火が移る。
命令書が炎に包まれた。
「これで終わりだ」
燃える命令書が床へ落ちる。
「お前の無実を証明する物は、何一つ残っていない」
「そうですね」
ルカは炎を見つめた。
「私が、それを証明したかったのなら」
ヴァルドの笑みが消えた。
展示台のそばにいたミラが舞台へ上がり、燃え残った紙を靴で踏む。
「それは偽物よ」
「何?」
「私が作った物だから、間違いない」
「では、本物はどこだ!」
「知らない」
ミラは平然と答えた。
「私は贋作師。本物を捜すのは専門外よ」
「ならば、お前たちは何をしに来た!」
「今夜の皆様は、ずいぶんお喋りでしたね」
楽団員たちが一斉に立ち上がった。
一人が懐から王立司法局の徽章を取り出す。
別の一人は、楽器の底から分厚い記録帳を取り出した。
残る者たちも楽器を置き、同じ紋章を示す。
ヴァルドの表情が凍りついた。
「第三王子からの追悼演奏なら、警戒されないと思ってね」
エリアスが銀鹿の仮面を外した。
「僕が楽団を推薦した」
中央にいた男が記録帳を掲げる。
「演奏は一曲も満足にできませんでしたが、皆様のお話は一言も残さず記録いたしました」
「暗闇で、誰が喋ったか分かるものか!」
「楽団席の譜面灯は消えておりません。仮面の番号、立ち位置、発言内容を記録しています」
「声など、あの道化師が真似たのかもしれない!」
男は王立司法局の査察官だった。
「声真似の可能性も含めて調べる。今夜の発言だけで有罪とはしないが、捜査と証拠保全には十分だ」
査察官が右手を上げた。
楽団員に扮していた護衛たちが剣を抜き、すべての出入口を塞ぐ。
「招待客は全員、その場を動くな。仮面を外せ」
招待客たちがざわめいた。
誰も従わない。
護衛たちが一歩前へ出る。
「仮面を外せ」
最初に狼が仮面を外した。
神経質そうな男の顔が現れる。
次に鷹。
蛇。
複数の白狐。
一人ずつ、匿名の役から本物の人間へ戻されていく。
道化師の仮面をつけたルカへ、査察官は命じなかった。
司法局が知っているのは、彼が匿名の情報提供者だということだけだ。
「待て!」
バルトだけが誇らしげに手を挙げた。
「私は死んだ道化師を最初に見破った功労者だぞ!」
査察官がバルトを見る。
「ヴァルドから、何を命じられましたか?」
「仮面ごとの役割を覚え、怪しい者を見つけたら騒ぎを起こし、白狐の仮面を増やし、道化師を混乱させろと」
バルトは胸を張った。
ヴァルドが目を閉じる。
「その点も含め、司法局で詳しく伺います」
「やはり、私の働きが評価されているのだな!」
バルトは満足そうに護衛へ連れていかれた。
「ガストン」
ルカが呼んだ。
「一番大切そうな物は、見つかりましたか?」
ガストンは抱えていた名簿を持ち上げた。
「受付の連中が、こればかり気にしていた」
「正解です」
「俺が?」
「ええ」
「本当に?」
「何度も確認すると、自信がなくなりますよ」
ガストンは名簿を査察官へ渡した。
ヴァルドが階段を駆け下りる。
「それは私の名簿だ!」
ガストンが前へ立ちはだかった。
「もう渡した」
「取り返せ!」
「嫌だ」
「なぜだ!」
「大切そうだからだ」
「私の物だぞ!」
「だから大切なんだろう」
査察官は名簿を開いた。
主催者であるヴァルドの署名と印章。
招待客が名乗った名前。
使用した仮面の番号。
「狼の仮面、十七番。名簿上はローデン子爵」
「鷹の仮面、二十二番。名簿上はベルナール夫人」
「蛇の仮面、九番。名簿上はハイゼン男爵」
査察官は名簿を閉じた。
「身元は司法局で正式に確認する。それまでは全員、仮面と番号を保持したまま拘束せよ」
「酔った者たちの戯言だ!」
ヴァルドは怒鳴った。
「命令書も偽物だった。こんな物は証拠にはならない!」
「ええ」
ミラが燃え残った紙を持ち上げた。
「これは捜査用の囮。本物の証拠として提出する物ではないわ」
命令書の末尾には、王宮侍医セドリックの名前が残っている。
「ただし、あなたがどこを否定するかには興味がある」
「でたらめだ!」
ヴァルドが叫んだ。
「本物にセドリックの名はない。立会人の欄は削除されていた!」
ミラが顔を上げた。
「削除されていた?」
大広間が静まり返る。
「最初から空欄だったのではなく?」
「本物を見た者から聞いた!」
「誰からです?」
ルカが尋ねた。
ヴァルドは答えない。
ミラは燃え残った命令書を眺めた。
「本物の署名は、刃物で削ったのでしょうね」
「違う!」
ヴァルドが反射的に否定した。
「薬品で消したのだ。刃物を使えば、紙の繊維が傷つく!」
自分の声が消えた後も、その言葉だけが広間へ残った。
ミラは何も言わない。
査察官のペンが、記録帳の上を走る音がした。
「ずいぶん詳しいのですね」
ルカが静かに言った。
ヴァルドの顔から血の気が引く。
「違う。私は人から聞いただけだ」
「誰から?」
ヴァルドは答えられない。
「あなたが黙っても捜査は始まる」
査察官が告げた。
「今の訂正で、あなた自身が捜査対象に加わっただけです」
護衛たちがヴァルドへ剣を向ける。
「王宮監察官ヴァルド。国王暗殺、証拠改ざん、違法な処刑への関与について、身柄を拘束する」
「第三王子の差し金か!」
「情報を渡したのは僕だ」
エリアスが答えた。
「だが、今あなたを拘束するのは司法局だ。僕の権力ではない」
仮面を外した共犯者たちは、一斉にヴァルドを指さした。
「命じたのはヴァルドだ!」
「私は従っただけだ!」
「すべて、あの男の計画だった!」
つい先ほどまでヴァルドの周りで笑っていた者たちが、自分の罪を軽くするため、その名を叫んでいる。
「黙れ!」
ヴァルドが怒鳴った。
「お前たちも同意したはずだ!」
その言葉も、査察官の記録帳へ加えられた。
ヴァルドは、そこでようやく口を閉じた。
何かを言うたび、自分の罪が増えていく。
だが、今さら黙っても遅かった。
四十日余り前。
処刑台の上にいたルカへ、群衆は国王殺しと叫んだ。
誰もルカの言葉を信じなかった。
今、ヴァルドの周囲には大勢の共犯者がいる。
それなのに、誰一人として彼を助けようとはしない。
護衛がヴァルドの両腕を取る。
「離せ! 私は王宮監察官だ!」
誰も従わない。
シグも短剣を下ろし、ヴァルドから一歩離れた。
「シグ!」
「私が受けた命令の内容は、司法局で話します」
「お前まで私を売るつもりか!」
シグは答えなかった。
ヴァルドの顔から、最後の余裕が消えた。
「貴様は死者だ」
拘束されながら、ヴァルドは道化師の仮面を睨んだ。
「死者の言葉など、誰も信じない」
「そのとおりです」
ルカは査察官の持つ記録帳を示した。
「ですから、私は何も証言しておりません」
ルカがしたのは、声を借りること。
疑いを植えること。
配られた役を演じること。
罪を語ったのは、ヴァルドたち自身だった。
「国政にも記録にも、お前の言葉は残らない」
ルカは、処刑台で向けられた言葉を繰り返した。
「あなたのおっしゃったとおりになりましたね」
査察官が記録帳へ書き込む。
王宮監察官ヴァルド。
国王暗殺及び証拠改ざんへの関与により拘束。
ルカは小さく首を傾げた。
「よかったですね」
「何がだ」
「最後まで、名前で記録してもらえるそうですよ」
ヴァルドは何も答えなかった。
答えれば、その言葉まで記録される。
ルカは道化師の仮面へ指先を添え、一礼した。
「今夜の演目をご存じありませんでしたか?」
仮面の下で、静かに笑う。
「国王殺しの皆様による、自白劇です」
◇
夜が明ける頃には、舞踏会の客の半数が王立司法局の管理下に置かれていた。
しかし、処刑された宮廷道化師が現れたという公式記録は残らなかった。
ヴァルドとシグは、道化師の仮面の人物がルカだったと主張した。
だが、二人は国王暗殺への関与を疑われる当事者だ。
第三王子も協力者の正体について沈黙し、本物のアーベル伯爵は病床から一歩も出ていないと証言した。
結局、司法局の記録に残ったのは「身元不明の仮面の人物」だけだった。
王都では、その人物を「笑う亡霊」と呼ぶ噂が広がった。
そうしてルカは、公には死者のままとなった。
舞踏会の翌朝。
王都外れの狩猟小屋で、エリアスは一枚の書類を差し出した。
「査察官たちの記録がある。手続きを進めれば、君の無実を公表できる」
ルカは受け取らなかった。
「国王を殺した者は、ヴァルドだけではありません」
舞踏会へ姿を見せなかった者もいる。
国王暗殺を計画した本当の黒幕は、まだ王国内にいる。
「私が生きていると知られれば、敵は姿を隠します」
「だから、死者のままでいるのか」
「舞台裏は、客席より動きやすいですから」
ミラが、使い終えた仮面を箱へ戻した。
「次も贋作が必要?」
「ええ。今度は、もう少し大きな物をお願いします」
「王冠でも作れと?」
「近いですね」
ルカはエリアスを見る。
病弱で、臆病で、何の役にも立たない。
世間から、そう笑われている第三王子。
「せっかく死者として自由になったのです。少し大きな悪戯をしてみませんか」
「今夜の舞踏会では足りないのか」
「まだ一つ、偽っていないものがあります」
「何を?」
「殿下への、世間の評価です」
ルカは笑った。
「無能な王子を、本物の王にする」
差し出された書類を押し戻し、道化師の仮面を手に取る。
「次は王国そのものを騙しましょう」
処刑された宮廷道化師の、最初の演目が終わった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「この三人の次の大仕掛けも見たい」
「ルカがどうやってエリアスを王にするのか気になる」
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皆様からの反応を参考に、仲間集めや宮廷への潜入、さらに大きなコンゲームを描く長編版を検討しています。
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