冷えた紅茶を置いた夜、灰色だった世界に彩(いろ)がつく
「さあ、今宵も王国の繁栄を。国を支える紳士淑女たちには幸運を!」
開幕の行進を終え、広間に高らかなワルツが響き渡る。
華やかなシャンデリアが眩い光の束を投げかけ、彩り豊かなドレスが舞踏会の床を滑るように揺れていた。繊細な絹が擦れる音と軽やかな笑い声が交錯する広間の片隅で、私は冷えきったグラスを傾け、透ける琥珀色の液体をただ見つめていた。手のひらからはとうに体温が奪われ、冷たさだけがしびれるように残っている。
目の前で手を取り合うカップルの視線は、バイオリンの奏でる軽快なリズムに乗って温度を増してゆく。
『ヴィオラ様、今夜も実に素晴らしい』
かつて、そう言って輝く瞳で甘い言葉を囁いてくれた青年貴族がいた。彼の熱い手を取り、夜の庭園でステップを刻んだあの時間に、私は運命を確信していた。けれど数ヶ月後、彼の隣で可憐に微笑んでいたのは、控えめな隣国の令嬢だった。
情熱的な言葉で私の心を揺さぶった若い騎士もいた。共に踊った夜の熱気は本物だと信じていたのに、彼が誓いの指輪を贈ったのは、ずっと傍で彼を支えていた幼馴染の女性だった。
琥珀色越しの景色は、舞台上に差す眩い光のように輝きを広げていく。だが、微かな気泡を残すのみとなったシャンパンは、私の渇いた喉を潤すにはあまりに足りなかった。
誰かと出会うたび、胸の高鳴りを覚えた。誰かの温もりに触れるたび、今度こそこの手が本当の幸せを掴んだのだと信じたかった。けれど、私が熱い視線を注ぎ、親交を深めていった魅力的な男性たちは、みな私との甘い思い出を静かに胸へ仕舞い込み、別の誰かと永遠の幸せを築いていく。
『あなたはいつも魅力的で、美しい社交界の花だ』
去り際に残されるその言葉は、どれほど美しく飾られていても私を救ってはくれない。周りからは羨望の眼差しを向けられても、私の手元に残るのは、虚しさと冷めきったグラスだけだった。
耳を通る予定調和な音が、どんどん遠ざかっていく。
私は小さく息を吐き、熱狂する広間からそっと視線を外した。
胸の奥で小さな波紋が広がるたびに、私は傷つくのを恐れ、相手が去ってしまう前に自分から心を閉ざし、逃げ出していたのだ。
だから今夜も、私は絢爛たる世界の中央で、自分自身の迷子になった心を探すように壁際で身を潜めていた。
そこで、ひとり静かに佇む男の姿が目に入った。
近衛の金糸や色とりどりの勲章で飾られた若者たちとは、あまりにも対極に位置する男だった。
羽織っているのは、重厚な灰色のマント。社交界の流行からは遠く離れた厚手の生地で、裾には遠い旅や戦場を思わせる微かな擦り切れがある。帯につるされた剣の鞘は飾り気のない黒い木製で、使い込まれた柄の革は手の油で深みのある色に染まり、鍔には実戦で刻まれたであろう細かな傷が無数に残っていた。
漂ってくるのは、他の男たちのような甘い香水や花々の香りではない。研ぎ澄まされた金属と、固く鞣された革の匂い。
宮廷の噂で耳にした名が、脳裏を掠めた。
——レノール男爵家の次男、アルヴァン。
北方の泥沼と化した戦場で腕に深い傷を負い、前線から身を引いて王都の警備配属となった正騎士。華やかな宮廷政治や甘い会話とは無縁の場所で生きてきた男だ。
広間に立ち並ぶ男性たちの誰もが自分を誇示しようと胸を張る中で、彼だけが姿を消そうとするように壁の影と同化していた。だが、その背筋は硬質に伸び、無駄のない引き締まった体躯は、周囲の軟弱な貴族たちとは一線を画す威圧感を潜ませている。
彼にとって、この絢爛豪華な広間は戦場よりも居心地が悪いのだろう。左手の指先が、無意識のようにマントの陰で右腕の肘あたり——かつて負傷したとされる古傷の場所を、静かに摩っていた。
そのとき、ふと彼の視線がこちらへ向けられた。
飾りのない黒い瞳。
それは誰かを値踏みするような視線でも、欲望を隠した甘い眼差しでもなかった。ただ深く、どこか澄んだ湖のように静かで、圧倒的な諦念を湛えた眼差し。
『自分は、誰からも望まれない』
そう自覚し、その事実を静かに受け入れている者の瞳だった。一瞬だけ交わったその視線の熱量に、私の胸の奥が不意に小さく跳ねた。
彼と一瞬だけ交錯した視線の熱量に、私の胸の奥が不意に小さく跳ねた。
また誰かに期待し、勝手に傷つくことになるのかもしれない——そんな恐れが足元から立ちのぼり、私は逃げるように真っ直ぐ伸びていた彼の視線を遮り、逃避先を求めるようにテラスへ続く重いガラス扉を押した。
テラスに踏み出すと、夜の冷たい空気が火照った肌を容赦なく包み込んだ。
ガラス越しに届くヴァイオリンの旋律はどこか遠く掠れ、広間の熱気も嘘のように引いていく。手元のグラスに浮かんでいた氷はとうに溶け、残された琥珀色の液体はただ指先に冷たさだけを伝えていた。
誰もいない夜の庭園を見下ろし、小さく息を吐いた、そのときだった。
カツン、と石畳を叩く静かな足音が背後で止まった。
「……失礼します」
低く、低音で響かない声。振り返ると、先ほど壁際に立っていた灰色のマントの騎士がそこにいた。
彼は決して私との距離を詰めようとはせず、踏み込みすぎず遠すぎない、言葉が静かに届く絶妙な位置に佇んでいた。
「あなたも、ここが好きなのですか」
問いかけに即座に答えることができず、私が沈黙を守っていると、彼は焦る様子もなく困ったように視線を庭の闇へと向けた。
「私も、中は苦手で。……息が詰まる」
社交辞令も、巧みな褒め言葉もない。ただ自分自身の不器用さをそのまま置いた言葉。彼は無理に話題を探して沈黙を埋めようとはせず、右腕の肘あたり——マントの陰に隠された古傷の場所を、無意識のように静かに摩っていた。
夜風が少し強まり、私のドレスの裾がさわさわと音を立てる。
「寒いでしょう」
彼がそう言って肩のマントの留め具に手をかけたが、途中でハッと己の差し出がましさに気づいたように手を止めた。
「……いえ、余計でした」
滑稽なほど愚直で、どこまでも不器用な仕草。けれど、そこに下心や自分を飾ろうとする意図が一切含まれていないことに気づき、私は自分でも驚くほど自然に、小さな笑みをこぼしていた。
「大丈夫です。お気になさらないで」
「……そうですか」
再び、沈黙が降りてきた。
これまで出会ってきた男たちとの間には決して存在しなかった時間。沈黙を恐れて必死に甘い言葉を紡ぎ合ったり、探り合ったりする疲労感が、ここにはどこにもない。彼は私を値踏みしようとはせず、私もまた彼の気を引こうと背伸びをする必要がない。「ここでは何も起きない」という奇妙な安心感が、冷えきっていた心にじんわりと広がっていくのを感じていた。
「ひとりでいることが、多いように見えます」
彼が夜空を見上げたまま、ぽつりと呟いた。
私は手の中のグラスを少しだけ強く握りしめた。
「……あなたも」
「ええ」
それだけだった。言い訳も、自己弁護も、お互いを慰め合うような安易な同情もなかった。ただ、互いがこの華やかな世界において「孤立した存在である」という事実を、ただそのまま受け入れただけの短いやり取り。
「……もう、広間へ戻ります」
「…はい」
彼は私を引き止めなかった。追ってこなかった。情熱的な言葉で引き留めることも、甘い視線で引き下がるのを躊躇わせることもなく、ただ静かに深々と頭を下げて私の去り際を見送った。その背中はどこまでも不器用で、けれど酷く静かだった。
広間に戻ると、いつものように数人の男性が私を踊りに誘おうと近づいてきたが、私は丁寧にそれを辞退し、早々に告げて邸宅への帰路についた。
あの騎士のことは、明日になればきっと忘れるだろう。
あるいはまたどこかの舞踏会で見かけたとしても、深入りしないよう互いに視線を逸らし続けるだけだ。胸がざわめくたびに逃げ出し、安全な場所へ隠れることこそが、傷つきやすい私を守る唯一の術なのだから。
けれど自室に戻り、深夜の静寂の中で冷めきった紅茶のカップに口をつけたとき。
あの冷たいテラスを吹き抜けていた夜風と、彼が残していった不器用な沈黙の温もりだけが、なぜか消えずにずっと胸の奥に留まり続けていた。
◇
ある夜、ヴィオラはまた誰かに振られた直後、偶然アルヴァンと鉢合わせた。
普段より少しだけ心の隙間が開いている彼女に、彼もまた自分の過去を短く語った。戦傷のこと、辺境での孤独のこと。どちらも慰め合おうとはしない。ただ、「似たような影を持っている」と認識し合っただけだった。
その会話の中で、彼女はふと口にした。
「今日は、縁談の話を聞きました。私のではなく……さっきまで一緒にいた、彼の」
グラスに残った液体を揺らしながら、私は自嘲気味に息を吐いた。
「私のところにも、近いうちにそういう話が来るのだそうです。母が、嬉しそうに言っていました」
アルヴァンは夜風の向こうに視線を向けたまま、静かに言った。
「…私も、辺境にいた頃は滅多に届きませんでした」
彼は無意識に、古い傷のある左腕を上着の上から撫でた。
「冬が長く、手紙も途絶える。誰かが婚約したと知る頃には、もうその人の顔さえ思い出せないくらいに。……戦で腕を痛めてからは、私の元に縁談が届くこともなくなりました。家柄も乏しく、傷持ちの男など、誰も望みませんから」
淡々とした声だった。不幸を嘆くでも、哀れみを乞うでもない。ただ、冷たい空気の中に事実をそっと置くような響き。
「……似ていますね」
「ええ」
それ以上、互いの傷を掘り起こすような真似はしなかった。
沈黙を裂くように強い風が吹き抜け、彼の灰色のマントが揺れる。
「……もし縁談が来ても、答えを急ぐ必要はないかと」
前を見つめたまま、彼がぼそりと言った。
「……アルヴァン様には、関係のないことです」
「…そう、ですね」
不器用で、無骨な言葉。一線を引こうとしているのに、なぜかその一言が、私の胸のざらついた角をわずかに削り落としていく。
肩の熱を奪う風の先に浮かぶ月は、少し欠けているように見えた。
「また、ここに来ますか」
「……たまに、警備で立ち寄ります」
それだけだった。
私は彼に背を向けて、広間のほうへ歩き出した。振り返らなかった。アルヴァンも、追わなかった。
ただ、その夜から、二人の間にほんの小さな共通の影ができた。
◇
我が家の邸宅を包む空気は静かに重みを増していた。
彼女のもとに、本当に縁談の話が届いたのは、それから二週間後のことだった。
夕食後、あらかじめ準備が整えられていたように、私は母の私室に呼ばれる。
柔らかなソファが置かれた部屋には、客間のような張り詰めた空気はない。だが、テーブルの上に置かれた銀のティーポットと、添えられた一通の書簡が、ただの雑談ではないことを物語っていた。
カチャン、と静かな音を立てて、母が私のカップに二杯目の紅茶を注ぐ。立ち上る湯気の向こうで、母はどこか含みのある笑みを浮かべ視線を落とす。
テーブルの上には、家令が開宴前に集めていた報告書が広げられている。私は温かいカップを手に取り、添えられた文字をゆっくりと追った。
提示されたお相手は、エルデン伯爵家の次男、カール・フォン・エルデン。激しい競争や華やかな名声を嫌い、領地の実務や帳簿付けを堅実にこなす三十過ぎの男だった。過去に二度の縁談が立ち消えになった経験を持つ彼は、社交界で「波を立てない男」として知られている。
「ヴィオラ、あなたにとって一番幸せな選択になるはずよ」
母の声には、何度も恋に破れ、傷ついて戻ってきた娘への静かな呆れと、これ以上の波風から守ろうとする慈悲が交ざり合っていた。
喉を通ったはずの紅茶は、もう匂わなかった。
「……わかりました。お会いしてみます」
絞り出した声は、自分でも驚くほど低く素っ気なかった。
『幸せ』
母の言う通りなのだと思う。私がこれまで求めて破れ、心をすり減らしてきた激しい情熱など、最初からいらないのだ。誰かを愛し、その熱に浮かれ、裏切られる恐怖に怯えるくらいなら、最初から波風の立たない平穏の中に身を置く方がずっといい。
これこそが、傷ついた私に必要な「正しい逃げ場」のはずだった。
なのに、胸の底に広がるのは安らぎではなく、冷えきった空虚感だけだった。
傷つかない代わりに、何かが揺さぶられることも二度とない未来。誰の特別にもなれず、誰の心も動かさないまま、ただ穏やかに年を重ねていく自分。それは、自分から心を閉ざし、逃げ続けた私が辿り着くにふさわしい、静かな終着点のように思えた。
断る理由もなければ、他に望む未来もない。
あのテラスで出会った灰色のマントの異質な影が、一瞬だけ脳裏を掠めた気がしたが、私はすぐにそれを打ち消した。あの沈黙もまた、私にとって「絶対に傷つかない安全な逃げ場」でしかなかったのだから。
……けれど、あの夜の冷たい風と、「無理に答えを急がなくていい」という無骨な騎士の言葉が、ずっと胸の澱のように残っていた。
そうして数日後、私は母の言われるがままに、自宅の客間で彼——カール・フォン・エルデンをお迎えすることになった。
◇
陽光が穏やかに差し込む我が家の客間で、私はカール・フォン・エルデンをお迎えした。
身につけた上質な上着には仕立ての良さが伺えたが、流行を追いかけた華やかさはない。整えられた茶髪に、丸みのある穏やかな目元。私を値踏みするような視線もなければ、気を引こうと焦る様子もない。ただそこに座っているだけで空間にすんなりと馴染むような、圧倒的な収まりの良さがあった。
「初めまして、ヴィオラ様。お会いできて光栄です」
丁寧に捧げられた礼。
「初めまして、エルデン様。お忙しい中、お時間をいただき感謝いたします」
動作の一つひとつに角がなく、洗練された申し分のないマナーが滲み出ている。
私が差し障りのない挨拶を返すと、彼は角のない穏やかな笑みを浮かべた。
「そう堅くならずとも結構ですよ。私のような波のない男相手に、格式ばった社交辞令は不要です。『カール』とお呼びいただいて構いません」
「……では、カール様」
開け放たれた窓から届く草木の香りが、私の頬を優しく撫でていく。けれど、どうしても自分から会話を広げることができず、私は思わず視線を落としてしまった。
磁器のカップに注がれた紅茶から湯気が立ち上る中、言葉を選べずにいる私に対し、彼は急かすこともなくごく自然な仕草で自身のカップを持ち上げた。
「突然のお話で、驚かれたでしょう。私は次男の身ですし、社交界の華やかな喧騒とは縁遠いところで過ごしてきました。日々の大半は領地の実務や帳簿と向き合うばかりの、酷く退屈な男です」
「……いいえ。実務に勤しまれるのは、とても誠実で素晴らしいことだと思います」
私が差し障りのない言葉を返すと、彼は穏やかに目を細めた。
「そう言っていただけると救われます。実は過去に二度ほど、私のような波のない人間は面白みに欠けると、縁談が立ち消えになったことがありましてね。ですから、あなたに無理な情熱や過度な期待を強いるつもりはありません。ただ、お互いに傷つけ合うことなく、穏やかな時間を重ねていければと思っているのです」
甘い言葉も、胸を焦がす熱量もない。己の領域を守り、相手の領域にも不用意に踏み込まない。彼が差し出しているのは「愛の誓い」ではなく、「害のない穏やかな契約」だった。
(熱がない)
胸の底で、冷えた水がゆっくりと広がっていくような感覚があった。
彼となら、二度と裏切られることも、夜遅くに泣き明かすこともないだろう。ここにあるのは、傷つく恐れが一切存在しない、完璧で退屈なまでの「安全域」だった。
「はい……私も、そうした穏やかさを望んでおります」
私は自分でも驚くほど静かな声で応じ、冷めていく紅茶を一口含んだ。これでいい。これが私の望んだ選択なのだと、自分に言い聞かせながら。
◇
カールとの初対面から数日。「まずは何度かお茶やお出かけを重ね、お互いを知っていきましょう」という彼の言葉を受け、私は返答を保留にしたまま、お試しの交流期間を過ごしていた。
ある午後のこと。気持ちの整理がつかない私は、気晴らしに侍女を連れて王都の大通りへと向かった。
昼時の賑わう街並み。行き交う声を聴きながら、ふと足を止めた。
人ごみの中に、ひときわ背が高く、硬質な佇まいの男が見えたからだ。
灰色のマントを羽織り、手入れの行き届いた皮の鎧を身につけた騎士——アルヴァンだった。
彼は露店の立ち並ぶ通りで、迷子になって泣きじゃくる幼い少女の前に、大きな身体を折り曲げてかがみ込んでいた。
「……持っていなさい。すぐ、お母上が来る」
無骨で低い声。彼はポケットから小さな木彫りの小鳥を取り出し、少女の手へそっと持たせていた。強面で無口な騎士が見せる、不器用で、けれど酷く優しい配慮。やがて駆けつけてきた母親に少女が抱きしめられるのを、彼は少し離れた場所から静かに見守っていた。
誰に見せるためでもない、彼の根底にある誠実さ。
自分の「安全な逃げ場」ばかりを探していた私の胸が、不意に激しく打ち付けられた。
ふと、彼がこちらに視線を向けた。
一瞬、驚いたように黒い瞳が揺れ、彼はそっと胸に手を当てて静かな礼を捧げてきた。私もまた、溢れそうになる感情を押し殺しながら、小さく会釈を返すことしかできなかった。
その後、何を見ても街並みの色が目に入らなかった。
それから数日後。私は「婚約候補」としてカール様のお手を借り、王宮で開催される夜会へと足を運んでいた。
何度訪れようと代わり映えのしない光と旋律が、いつもより少しだけ肩の開いたドレスを包む。
周囲からは、近々アシュフォード家とエルデン家の婚約が正式に発表されるのだろうと、祝福混じりの視線が注がれていた。
「顔色が少し優れないようですが、大丈夫ですか、ヴィオラ様」
カールの声はどこまでも柔らかく、私の細かな変化も見逃さない。彼の手の上にそっと重ねた自分の手に、少しも熱が宿っていないことを思い知らされる。
「ええ、少し緊張しているだけですわ。お気になさらないで、カール様」
「無理をなさらないでくださいね。今夜の夜会が終わったら、またゆっくりお返事を聞かせていただければ結構ですから」
軽やかな旋律の終わり際まで、どこまでも優しく、完璧なエスコートだった。
傷つくことのない平穏が、すぐ目の前に差し出されている。
……それなのに、あの街角で見た無骨な背中が、どうしても胸から離れてくれない。
視線をふと会場の壁際へ向けたとき、私の息が止まった。
列柱の陰に並ぶ護衛騎士たちのただ中に、灰色のマントを纏い、凛と直立する男——アルヴァンがいたのだ。
華やかな衣装で浮き立つ貴族たちの中で、彼だけが静かな鋭さを秘め、その場を守っていた。
カールの腕に手を添えたまま、私の視線がアルヴァンと交錯する。
彼の澄んだ黒い瞳が、私と、私の隣に立つカールの姿を捉えた。一瞬だけ、彼の右手の指先がマントの陰で右腕の古傷を静かに摩る。
(私は、本当にこのまま逃げてしまっていいの……?)
胸の奥の波紋が激しく広がり、私は呼吸さえ苦しくなっていくのを感じていた。
「少し……風に当たってまいりますわ、カール様」
私は逃げるように熱気の籠もる大広間を抜け出し、静かなテラスへと向かった。
夜の冷気が、火照った頬を心地よく冷ましていく。
手すりに両手を預け、大きく息を吐き出した。重い扉の向こうで、社交界の華やかな音楽や笑い声が遠のいていく。
(何をしているのだろう、私は……)
安全で穏やかな未来を手に入れようとしているのに。カールの手を取れば、傷つくことのない平穏が約束されているのに。
どうしても、あの街角で見た彼の不器用で温かい眼差しが脳裏から離れてくれない。
「——ヴィオラ様」
不意に、背後から低く抑えられた声が届いた。
ハッと振り返ると、そこにいたのは、会場からこぼれる光を浴びた灰色のマントを纏うアルヴァンだった。
持ち場を離れることが許されない護衛騎士であるはずの彼が、私を追ってここまで来たのだ。
「アルヴァン様……? 警備の任は……」
「……お顔色が、悪く見えました」
カールの腕に重ねていた指先の感触が、瞬時に遠のく。
私の問いに、彼は視線をわずかに落とし、無意識のように右腕の古傷を指先でさすった。
「出過ぎた真似をいたしました。ですが、放っておけなくて」
静かな後悔と、それを上回る切実さを帯びた低い声。
規律を何よりも重んじるはずの彼が見せた「破格の行動」に、私の胸は痛いほど締め付けられた。
「……感謝いたします。少し、人酔いをしてしまっただけですわ」
「……そうですか」
アルヴァンはそれ以上踏み込むまいとするように、一歩引いた位置で直立した。
夜風に灰色のマントが静かに揺れる。二人の間に訪れたのは、あの舞踏会の夜と同じ、深く穏やかな沈黙だった。
だが、その沈黙を先に破ったのはアルヴァンの方だった。
「……噂を、お聞きしました」
遠くの夜景へと視線を向けたまま、彼が絞り出すように呟く。
「エルデン伯爵家と、縁談が。……おめでたいことです」
祝福の言葉のはずなのに、その低い声には胸を刺すような切なさが籠もっていた。
「……ええ。あの方となら、傷つくこともありません。穏やかで、安全な選択なのです」
自分に言い聞かせるように、私は冷えた指先を強く握りしめた。これが私の望んだ答えなのだと、必死に胸の奥へと言い聞かせる。
けれど、アルヴァンはゆっくりと振り返ると、逃げ場を塞ぐようにまっすぐ私を見つめた。
「ヴィオラ様」
その黒い瞳には、夜会のどんな煌めきよりも深く、澄んだ熱が宿っていた。
「望まれるなら、私は何も言えません」
彼は意を決したように、ゆっくりと私へと歩み寄った。石畳を打つ硬質な靴音が、夜風に静かに響く。
「街角でも、今夜も。……幸せそうには、見えませんでした」
「……っ」
誰にも触れさせないよう隠していた傷口を、そっと撫でられたような衝撃が走る。
「踏み込むべきではないのは、分かっています」
アルヴァンの切実な言葉が、私が必死に築き上げてきた「安全域」の壁を、あっけなく突き崩していく。押し殺していた感情が溢れそうになり、私はただ歪む視界を隠すように、強く唇を噛み締めることしかできなかった。
「……怖いのです、アルヴァン様」
絞り出す声が、夜風に途切れ途切れに消えていく。
「誰かを愛して、また裏切られるのが。その熱で焼き尽くされるのが、恐ろしいの。だから逃げようとしていたのに……貴方がそんな顔をしたら、逃げ切れなくなってしまうではありませんか」
瞳から零れ落ちた一粒の雫が、頬を伝って顎から落ちる。
アルヴァンは胸を突かれたように一瞬呼吸を止め、そっと視線を伏せた。
鍛え上げられた大きな手が、空中でかすかに躊躇う。だが、彼女の涙を直接拭うことさえ許されない己の立場と境界線を、彼は何より重々しく理解していた。
ギュッと拳を握り締め、彼はゆっくりと一歩だけ後ろへ引き、深い敬意を込めて姿勢を正す。
「……言い過ぎました」
静かな夜風が、二人の間の絶妙な距離を撫でていく。
彼はヴィオラに何も要求せず、選択を迫ることもせず、ただ揺るぎない眼差しで彼女を見つめた。
「力になれるかは、分かりません。でも、立ち止まりたい時は。……話は、聞きます」
過度な誓いも、情熱の押し付けもない。
ただ「どんな時も自分はここで話を聞く」という控えめで、けれど逃げ場のないほどに深い誠実さ。
「私は、護衛です。それでも。……望まれるなら、ここにいます」
その絶妙な距離感とどこまでも優しい響きが、かえってヴィオラの胸を強く撃ち抜く。
無理に背中を押すのではなく、ただ静かに寄り添おうとする彼の姿勢に、彼女は込み上げる感情を抑えるように小さく頷くことしかできなかった。
◇
大広間へ戻ると、重厚な扉の向こうから溢れ出る熱気と眩い光が一気に私を包み込んだ。
「おかえりなさい、ヴィオラ様」
人ごみを割るようにして現れたカール様は、いつもの角のない穏やかな笑みを浮かべ、私の前で足を止めた。
その澄んだ瞳が、ほんのわずかに赤くなった私の目元と、風に乱れた髪を捉える。
彼は理由を尋ねなかった。誰と会い、何があったのかを問い詰めることもしない。けれど、私の顔をじっと見つめるその視線は、これまでのどこか遠慮がちなものではなく、私の輪郭を確かめるような静かな深みを湛えていた。
「風が冷たかったでしょう。……少し、冷えておられますね」
差し出されたカール様の手の上に、私はそっと自分の手を重ねた。
手袋越しに伝わる体温。ほんのわずかだけ、これまでの幾分ビジネスライクだったエスコートよりも、包み込むような確かさで私の手を引き寄せる。踏み込みすぎない一定の境界線を保ちつつも、その距離はこれまでよりほんの一握り分だけ、近かった。
「顔を繋ぐご挨拶も済みました。これ以上、無理をしてお付き合いいただく必要はありませんよ」
カールの声はどこまでも柔らかい。けれど、寄り添うように添えられた手の温もりに、私は小さく息をのんだ。
「私といる時くらいは……どうか、お顔を偽ろうとなさらないでくださいね」
試すような色も、感情の押し付けもない。ただ、私の揺れる心をそのまま受け止めるような言葉。
視線を上げれば、瞳が絡む。
彼が差し出す優しさが、ほんの少しだけ熱を帯びて変わったような気がした。
アルヴァンの残していった残響を胸に抱えたまま、私はカールの腕に導かれるように、静かに歩みを進めた。
◇
あの夜会から、数週間の時が過ぎていた。
私はあんなに足繁く通っていた夜会へは一度も出席していなかった。
母からは毎日のように、どこか試すような眼差しとともに婚約を急かす空気を感じていた。私の机の引き出しには、母がすでに用意した、あとは私の署名を残すだけの婚約承諾書が静かに眠っている。
カールとは、その後も何度かお出かけやお茶会を重ねていた。
彼は相変わらず穏やかで、私の歩調に合わせ、決して踏み込みすぎない優しさで私を包んでくれた。彼と過ごす時間はどこまでも平和で、傷つく恐れのない「完璧な避難所」そのものだった。
——そんな私の元に、一通の手紙が届くまでは。
その夜、雨音を聞きながら自室の机に向かっていた私は、カールから届いた一通の手紙を開いた。そこには、私の強張った視線や遠い目ざしに気づいていたこと、そして何より彼自身の葛藤が、細やかな言葉で綴られていた。
『あなたの目が、私ではなく、もっと遠くの静けさを見つめていることに気づいています。もし私の存在があなたを追いつめるのなら、どうぞ遠慮なくお断りください。私は、あなたに笑っていてほしいだけなのです』
彼は熱がないのではなく、私の世界を自分の欲で乱さないよう、彼なりの誠実さで必死に距離を測っていたのだ。その優しさにすら向き合わず、「胸が躍らない」という理由で被害者のフリをしていた己の愚かしさが胸を突いた。
私は冷えた紅茶の向こう側で、ずっと誰かが救い出してくれるのを待つ「迷子」のフリをしていたに過ぎない。
夜会で誘われる青年貴族の優しさからも、カールの熱なき接近からも、私はただ「傷つくのが怖い」という理由だけで自ら逃げ出し、アルヴァンの追ってこない沈黙にまで安全な逃げ場を求めていたのだ。誰かに裏切られるのが怖くて逃げ、誰かに踏み込まれるのが怖くて逃げ、自分を守るためだけに、私はいつも「見失った心を探す」という悲劇の主人公を演じているだけだった。
私はペンを握りしめた。母が用意した承諾書を脇に追いやり、便箋を広げる。
カールの誠実さに、自分の言葉で向き合うために。誰かに守られる安全な未来に乗っかるのではなく、自分の足で立つために。
『お会いできて、光栄でした。あなたの静かな優しさは、私の凍えていた心を確かに温めてくれました。けれど、私はまだ、自分自身の足で立つことができていません。誰かに守られる前に、私は私自身の心と向き合わねばならないのです』
感謝と、今の私のすべてを込めた返答を書き終えたとき、かじかんでいた指先に、久しぶりに温かな感覚が戻っていた。
◇
最後のつもりで向かった舞踏会の広間は、相変わらず絢爛豪華な光と音楽に満ちていた。
入り口でカールと目が合う。私の手紙を読んだ彼は、静かな理解の笑みを浮かべ、深く頭を下げた。私は彼に、今までで一番真っ直ぐな微笑みを返した。
それ以上の言葉は、交わさなかった。
そして、私は視線を壁際へと走らせる。
いつもの場所に、灰色のマントを羽織った男が立っていた。アルヴァン・ド・レノール。
彼は私を認めると一瞬だけ目を見開いたが、すぐに視線を逸らし、自分から静かに引き下がろうとした。関わってはいけない相手として、先に距離を取る背中。
胸が跳ねる。また逃げたい、という古い本能が足を引っぱる。
けれど私は、ドレスの裾をわずかに持ち上げて歩き出した。人々の視線を横切り、誰も見向きもしない壁際へ。カールの隣でもなく、母の用意した未来でもなく、ただ、自分が目を逸らしてきた場所へ。
近づく気配に、アルヴァンは肩を強張らせた。左腕の傷を、無意識に摩っている。
「……あなたは」
「こんばんは、アルヴァン様」
名前を呼ぶと、彼の黒い瞳が揺れた。引き止めない男。追ってこない男。今夜も、それ以上を求めようとはしていない。
「テラスの空気は、今夜も冷たいでしょうか」
「……ええ。冷たいでしょう」
「では、温かい紅茶でも。少しだけ」
救いを求める言葉ではなかった。彼の傷を引き受ける約束でもない。ただ、今夜は目を閉じない、と自分に告げているだけだった。
アルヴァンは私を見た。何か言いかけるように唇を動かし、やめた。小さく息を吐いて、わずかに頷く。
「……美味くはありません」
「構いません」
彼は手を出さなかった。私も、取らなかった。
この先、誰の隣に立つのかは、まだ分からない。分かっているのは、冷えた紅茶の向こう側で待ち続けるのは、もう終わりにしたということだけ。
そう、私が目をつぶるのをやめただけだ。
ずっと灰色に沈んでいた世界に、静かに、けれど確かに彩がついていくのが分かった。
お読みいただきありがとうございます!




