《色移ろふは花とヒト》
[3-1]
朝から雨が降っていた。
今日はどうするべきか、少しだけ考えて――でも、すぐに出かけるのを止めた。
……むしろ、好都合だと思ったのかも知れない。晴れていればどうしても気になってしまうが、雨であれば、顔を出さずとも不自然ではないだろう。
正直、どんな顔をして彼女に会えばいいのか分からなかった。彼女の吐露した言葉と、俺の体を締め付けた、彼女の腕の感触が今も俺の中をぐるぐると回り続けていたから。
考えなければならないことはあった。何とかしなければならないことはあった。けれど、俺に『花壇を見せられて良かった』と呟いた彼女の優しくも哀しい声が、俺のココロを千々に乱した。
ろくに考えも纏まらないまま、助けを求めるように――俺は今日も、あのヒトのいる、この場所にいる。
「――どーしたの? おにーちゃん」
ふいに声をかけられて、はっとした。
見れば、あぐらをかいた俺の上に座った女児が、きょとんとした顔で俺を見上げている。
「あ……ああ、いや、何でもないんだ」
慌てて答えると、女児は不思議そうな顔をしながらも、
「そーお?」
そう言って、再び小さな手に持った二本の鉤針を動かし始めた。
取り敢えずは、余計な心配をかけずには済んだらしい。だが――
「なーに? いい若いもんがため息なんかついちゃって。ため息つくと幸せが逃げるって、知らないの?」
やれやれとため息をつく俺に、そんな声。顔を上げれば、優しい苦笑を浮かべた見知った顔が、俺を見ていた。手には、女児と同じく、二本の鉤針が握られている。
……ああ、そう言えば、そうだったか。やはり俺はどうかしている。完全に上の空どころか、このヒトの顔を見るまで、自分がいる場所もいる理由も朧だった。
病院だ。度々折り紙教室が開かれることで、近頃認知度を上げている、小児科病棟のレクリエーションルーム。絨毯敷きの一角に、俺達三人はいる。
今は、編み物教室の真っ最中だった。いつもは、主に女児を中心に何人かの生徒の姿があるが、今日は一人だけ。他でもなく、今も俺の膝の上で、当たり前のようにくつろぐその子のことだ。
名前は、大岩 遥花と言う。実に優秀な生徒で、齢八つにして師匠をも唸らせる腕前の持ち主である。とは言え、一年以上に渡る長期入院の間、ずっと師匠に付きっきりであったのだから、それも当然であったのかも知れないが。
見ての通り、何故か俺はこの子に好かれている。子供に好かれることなど、俺の人生に於いてはまずないと思っていたし、事実、これまではそうであったのだが。しかし、この病院に通うようになってから、結構ガキ連中とも上手くやっているような気はする。
――こうして感じる幼い温もりを、悪くないとも思っていた。
で。その師匠に当たるのが眼の前の彼女――緋蔭優さんであるわけだ。
「何か悩んでるでしょ。おねーさんに言ってみ?」
いつもの調子で、少し戯けたように言う優さん。
「……いや、何でもねえよ」
俺は首を振った。
――だが、
「たっくんのうそつきー」
そんな言葉に一蹴された。
「たっくんが何か悩んでるのなんて、おねーさんお見通しなんだから。はるるんも言ってやんなさい、うそつきーって」
そんな悪魔の囁きに、純朴な少女は俺を見上げて、
「おにーちゃん、うそつきなの?」
なんて。……そんな綺麗な眼で俺を見ないで欲しい。
優さんは優さんで、
「そーよー、もうほんと、すっごいうそつき。ひねくれ者のあまのじゃくで、ほんとどーしよーもないんだからこの子はっ」
良からぬことを吹き込んでくれるし。……まあ、間違っちゃないのは自覚してる。
答えに窮して黙っていると、やがて遥花は満面の笑みで言った。
「うそつきー」
ううっ……その通りだよちくしょー。
「観念した?」
勝ち誇ったように言う優さんに、俺は嘆息した。
「……はいはい、観念しましたよ。……けど、話したところでどうにかなることじゃないと思うぜ?」
俺は言ったが、優さんの笑顔が陰ることはなかった。
「それでも、話してみなくちゃ何も分からないでしょ? 自分ではどうにもならないと思っていても、ヒトに話すことで意外と良い方向に向かうことだってあるんだから」
「……それでもどうにもならなかったら?」
……質問は、我ながら悲観的だな、と思った。けれど、それでも優さんの笑顔は変わらなかった。
「それでもどうにもならなかったら――後は、足掻くしかないね。足掻くだけ足掻けば、例え望んだ形にはならなくても、何も結果が出せなくても……きっと最後は、笑顔でいられると思うから」
その言葉の不思議な重みに、俺もまた、自然と笑みをこぼしていた。
……そうして、語った。小さな花壇と、小さな少女と、大きな夢の話を。
【つづく】