《色移ろふは花とヒト》
[4-1]
母親ってのは、こと子供のことに関して、時々、変な能力を発揮することがある。
それは逢花の母も然りで、彼女は突然現れた俺にも動じることはなかった。まるで全てを承知していたかのように優しく笑って、俺を招き入れてくれた。
そんな母の優しさに、ある種の安らぎを感じたが――同時に、それだけでもう、逢花の奴がどんな様子で帰宅したのかが容易に想像できた。
果たして、初めにどんな言葉をかけるべきなのか。
……そんなことも分からないまま、俺は、逢花の部屋の前に立っていた。
「……逢花? 俺――境守、だけど……」
控えめにノックをして、恐る恐る声をかけた。
返事はない。だが、微かに身じろぎするような気配だけは感じられた。
「……すまん、入るぞ」
迷いがなかったわけではないが、ただ突っ立ている訳にもいかず、俺は扉に手をかける。拒絶の声はなかった。
そこは、一見、女性らしさを全て排除したかのような簡素な部屋だった。けれど、良く眼を凝らして見れば、そこかしこに、まるで人目を避けるかのように可愛らしい調度が隠れている。
それは、彼女の精神世界そのものだった。
何よりも愛しいと想うモノがありながら、されど、けしてそれで世界を埋めることのできない矛盾。不条理な抑圧と無限の孤独に苛まれる、悲しみの場所。
……その中心に、震える小さな背中が蹲っていた。
「……逢花」
名を呼んでみたが、相変わらず返事はなかった。
俺はしばし思案して――けど、すぐに嘆息した。うじうじ悩むなんざ俺らしくねえ。答えねえなら、てめー勝手に喋ってやらあ。
「ほらよ、落としモンだぜ。ったく、こんなデカくて目立つモン、落としていくなよな」
言って、逢花の傍らにそっと手提げ袋を置いた。
と、逢花はちらりとそれを見やって、言った。
「……そうか。わざわざ、こんな物を届けるために、すまなかったな」
静かな声だった。敢えて感情を押し殺しているような声。
そこに、どんな想いが込められていたのかなんて、俺には分からなかった。
だから、敢えて戯けるように言った。
「まさか。俺だって、そこまで物好きじゃねえさ」
逢花の背中が、少しだけ怪訝そうに揺れた。
「……じゃあ、何のために?」
そう問うた逢花に、俺は苦笑混じりに言った。
「……ガキが、泣いてると思ったからさ。俺も最近気づいたんだけどな。どうやら俺は、ガキが泣いてるのを見ると、無理矢理にでも黙らせてやらないと気が済まないタチらしい」
そんな言葉に、逢花は僅かにくすりと笑って、
「誰がガキか……失礼な奴だ」
そう、穏やかな声で言った。
しかし、その穏やかな声とは裏腹に、逢花はこちらに顔を向けようとはしなかった。
「……心配は無用だ。この通り、私は泣いてなどいない。少々ショックだったのは確かだがな、これしきのこと、耐えられぬほど弱くはないさ」
そんなことを言う。強がりなのは、顔を見なくたって分かった。
「あのな。そんな強い奴が、お気に入りの手提げ袋落としたまんま、部屋で独り膝抱えてたりするかよ」
「大丈夫だと言っている」
嘆息混じりの俺の言葉に、逢花は声を固くして言った。
「……言っただろう。私はもう、満足なんだ。お前に花壇を見せてやることができた時点で、私とお前の関係は終わっている。それで終わりなんだ。……それ以上、何を望めと言うのか」
そんな自己簡潔の呟きに、俺は半ば苛立ちを覚えて、逢花の肩に手をやった。
「っ……!? やめろっ……!」
拒絶の声。けれど、俺はもう止まらない。
「はあ? 何言ってんだ、ヒトと話す時ゃ、相手の顔見るモンだろが。 いいからっ……こっち向けってのっ!」
強引に、その華奢な肩を引き寄せた。
「ひあぁっ……!?」
言葉にならない悲鳴。同時に、その軽い身体はいとも容易く地の戒めから解き放たれて、そのまま俺の胸元へと倒れ込んだ。
ぽすっ、と言う軽い音がして――俺を見上げる形になった彼女と、眼があった。
驚きで、まん丸に見開かれた大きな瞳。けれど、大きさよりも印象深かったのは、それが酷く濡れていたこと。そして、誤魔化しようのない、頬に描かれた軌跡。
「……ほれ見ろ。やっぱ泣いてんじゃねーか」
先ほどまでの強がりを思い出して、思わず苦笑してしまった。
そんな俺の顔を見て、逢花がどう思ったのかなんて分からない。分かったのは、彼女の強がりもそこまでだったと言うこと。
「っ……境守ぃっ……!」
言うや、逢花は瞬間、身体の向きを変えて、そのまま俺の首根っこにしがみついた。
ふいなことに、俺はバランスを崩して背中から倒れ込む。
だが、そんなことにもお構いなしに、逢花は俺に覆い被さったまま、
「境守っ、境守っ、さかがみぃっ……!」
そう、悲痛な声で俺の名を呼び続けた。まるで、幼少から今まで、ずっと我慢してきたモノ全てを吐き出すかのように。
俺は、そんな少女の叫びを、ただじっと聞いていた。言うべきことなど見つからなかったし――何より、今はそうしてやることを、彼女も望んでいるような気がしたから。
【つづく】