《色移ろふは花とヒト》
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ガキの頃、夏休みの宿題で朝顔を育てたことがある。
真夏の暑い中、土いじりなんぞしたあげく、毎日ちまちまと水やりをするなんて、今となっては考えられないことではあるが、当時はそれなりに楽しんでいた覚えはある。鉢に立てた枠に蔓が伸びていく様は、見ているだけでわくわくしたもんだ。
とは言え、それもガキの頃の話だ。今さら園芸になど興味はないし、そんなことに割いている時間もない。
ようやく訪れた夏休み。一日中、冷房の効いた部屋でのんべんだらりと惰眠を貪りたいと言うのが人情というものだし、それこそが夏休みの有意義な過ごし方というものだろう。
……そうだ。ようやくの夏休みだった。待ちに待った夏休みだった。しかも、その初日だった。くそ真面目に早くから起きる気は無かったし、ギラギラと太陽の照りつけるこんな炎天下の真昼に、外出する気などさらさら無かったのだ。
――なのに、何故、俺はこんな場所にいるのか。
学校である。昨日までとは違い、人気のない校舎には静寂な空気だけが流れている。いつもは鬱陶しい教師達の姿も、今日は疎ら。
当然だ。夏休みの学校にいる人間など、当番の教師か、クラブ活動に精を出す、青春真っ盛りな、それこそ炎の妖精の加護を得たような、暑っ苦しい連中くらいのもんだろう。
……忌々しい。そんな連中さえこの世に存在しなければ、俺がこんな場所に呼びつけられることも無かったと言うのに。
――今日のお昼、時間ありますか?
そんな電話で叩き起こされた。ほんの数時間前のことだ。
電話の主は誰かって? ――ひなたじゃあない。あいつだったら、そのまま受話器叩きつけて、今頃は夢の中だ。
つまり、そうはできない相手だったのだ。
――では、正午に学校の中庭へ。良いですか?
柔らかく、丁寧ながら、有無を言わせぬ迫力をも含んだ物言い。
そして、俺が無碍にはできないような相手である。
この二つの条件に当てはまる人間なんて、一人しか存在しない。
――香月センセこと、香月 梗子女史に他ならなかった。
――中庭の片隅に、園芸部が管理している花壇があります。
――今日一日、園芸部員のお手伝いをお願いします。
――あくまでも園芸部顧問としての『お願い』ですから、断っても構いませんけれどね?
――まあ断るのなら、改めて朝日奈さんにお願いしますけれどね?
矢継ぎ早に紡がれる、耳障りの良い流暢な言葉。
それはとても丁寧で、どこまでも優しい響きだったので――断れるわけが、なかった。
情けないとは思うが、あのヒトとひなたに挟撃されたら、堪ったものではない。あの二人を前にすると、この世で最も恐ろしいものが、実は暴力などではないのだと言うことを思い知らされる。
……まったく、俺には女難の相でも出ているのだろうか。厄介な女ばかりに付きまとわれているような気がする。
……まあ、なんだ。一番厄介な女と知り合ってしまったのが、ついこの間のことなのだが。
「…………」
――この三人に組まれたら、それこそ堪らないな、何てことを思いながら、俺は嘆息した。
それにしても、いったいいつになったら、園芸部員とやらはやってくるのか。指定の時間は過ぎているのだが、一向に誰かがやってくる気配がしない。
眼の前には、一般的な家庭菜園程度の小さな花壇が、ひっそりと在るだけだ。
……しかし、本当に小さい。園芸部で管理しているなんて言うから、もう少し立派なものかと思ったが、まるで個人所有のもののように、こぢんまりとしている。と言うか、煉瓦で枠を組んだだけのその佇まいは、みすぼらしくさえある。
――でも、前に見た時も、こんな感じではあったか。
「……?」
ふいに湧いた感慨に、小首を傾げた。……俺は、何を考えていた?
だが、その時だ。
「――待たせたなっ! 境守っ!」
背後から、ふいに声をかけられた。
「! っと、園芸部の奴か――って……あ?」
はっとして振り返るが、そこには誰の姿もない。
しかし、声は確かにすぐ背後から聞こえた。近くにいるはずなのだ。
「……どこだ? 姿が見えん」
きょろきょろと辺りを見回す俺。
と、
「こっ、こらっ! どこを見ているかっ、下だ、下っ!」
そんな声に従って、ゆるりと視線を下らせれば――
「……あんたが、園芸部員?」
問うと、そいつは残念な胸を得意げに張って、
「うむっ、いかにもだっ」
えっへん、と。
…………。
ペットと飼い主は似る、何てことをよく言うが、花壇も世話をする人間に似るのだろうか。
――炎天下の午後。
横暴な教師に呼び出されて来てみれば。
そこに待っていたのは、こぢんまりとした小さな花壇と――シロツメクサの花のように、小さくて、けれど凛とした強さを持った、一人の少女だった。
【つづく】