水精姫と夕飯
鍛冶屋の奥、生活感が漂う居住スペースのダイニング。
木製の頑丈な円卓の上には、湯気を立てる大皿がどんと置かれていた。
バーバラ特製の『お肉ゴロゴロシチュー』である。
その名の通り、こぶし大に切り分けられた肉の塊が、野菜と共にデミグラスソースのような濃褐色のスープでトロトロになるまで煮込まれている。
付け合わせには外はパリッと、中はふんわりと焼き上げられた厚切りの黒パン。
肉の旨味と赤ワインの深いコク、そして香辛料の香りが混ざり合い、部屋中に食欲をそそる匂いが充満していた。
「さあさあ、遠慮しないで食べな。王都の豪勢な飯には敵わないだろうけど腹を満たすのには十分だろ」
バーバラが豪快に笑いながら、それぞれの皿にシチューを取り分けていく。
「いただきます!」
セリアが元気よく返事をし、大きな肉の塊をフォークで突き刺してパクリと頬張った。
「んんっ! 美味しい! お肉が口の中で溶けるー!」
「それは良かった。マリエルちゃんも遠慮せず食いなよ」
「はい。……いただきます」
マリエルもシチューを口に運ぶ。
久しぶりに味わう辺境の鍛冶屋の素朴で温かい味。
下界に来たばかりの頃に食べたバーバラの料理を思い出しながら、マリエルは少しだけ頬を緩ませた。
食事を進めながら四人は学園での生活や、そしてマリエルの過去について語り合っていた。
マリエルが神界から追放され、この街の裏路地でバーバラに拾われた経緯。
それを聞いたセリアは、肉を噛みしめながら感心したように声を上げた。
「へえー、それでマリエルちゃんは街のはずれでうずくまっていたわけかい」
「ええ、まあ……本当に、あの時はお世話になりました」
マリエルが照れくさそうにバーバラに頭を下げる。
セリアが天井を仰ぎ、何かを想像するように目を細める。
「店番してるマリエル、絶対可愛かったろうなぁ~! 生で見たかったな~!」
「ええっと、そんなに見るようなものじゃないよ……」
マリエルが困ったように視線を泳がせる。
営業用の愛想笑いで冒険者たちの相手をしていた姿など、親友に見せられるものではない。
それに夜な夜な鍜治場で恨み言を叫びながら呪いの武器を量産していた黒歴史は、絶対に墓場まで持っていくと固く誓っているのだ。
そんな和やかな会話が交わされる中、円卓の片隅で、ただ一人だけ異質な空気を放っている人物がいた。
ルカ・レグナスである。
彼の端正な顔は首の付け根から耳の先までほんのりと赤く染まっていた。
普段の隙のない制服姿とは違い、暑いのかシャツの胸元が少しばかりはだけており、そこから覗く白い肌が薄暗いランプの光の下でなんだかひどく色っぽい雰囲気を醸し出している。
漆黒の瞳はトロンと潤んでおり、焦点が定まっていない。
彼は隣に座るマリエルに向かって、熱っぽい視線を絡みつかせていた。
「……マリエル嬢」
「な、なにかなあ」
ルカが甘く低く、微かに掠れた声でマリエルに語り掛けてくる。
「どうして俺の方を向いてくれないんだろうか。……俺にそんなに、魅力がないのか……?」
「ひえっ」
マリエルはビクッと肩を震わせ、隣の少年を恐る恐る見上げた。
普段の彼からは想像もつかない、あまりにもストレートで無防備すぎる言葉の数々。
しかも顔の距離が異様に近い。
彼の吐息が、マリエルの頬を微かにくすぐるほどの距離だ。
「いや違うから。ルカ君に魅力がないとかそういうんじゃないから、もうちょっと離れて。近い、近いから」
マリエルは慌てて身体を仰け反らせ、両手で彼との距離を保とうとする。
だが、ルカはそんなマリエルの抵抗を意に介さず、さらにジリジリと距離を詰めてくる。
「……バーバラさん?」
マリエルは「ルカ君に何かした?」とでも言うように向かいの席に座るドワーフの女性に視線を送った。
「いやあ」
バーバラは悪びれる様子もなく、手元の木製のジョッキを傾ける。
「いい男だし、立派な貴族の坊ちゃんだっていうから酒もさぞかし強いんだろうと思ってね。ちょっとキツめの酒を一杯飲ませただけなんだけどねえ。まさか、ここまで一発で回るとは思わなかったよ」
「なるほどー。それでルカ君、あんなに大胆になってるんだ……」
セリアがシチューの肉を頬張りながら面白そうにニヤニヤと笑う。
「ああ、マリエル嬢、可愛い……」
ルカは完全に出来上がった状態で、うっとりとした顔でマリエルの横顔を見つめ続ける。
「食べてしまいたいほどに可愛い。その銀色の髪も、少し怒ったような目も、すべてが愛おしい……」
「ど、どうも……」
マリエルは引きつった笑いを浮かべるしかない。
普段は「闇の貴公子」などと呼ばれて真面目で堅物気味、他者を寄せ付けない冷徹なオーラを放っている男だ。
そんな彼が酔ってリミッターが外れ、こんなにも積極的になって甘えてくる。
そのギャップがマリエルにとって得体の知れない誘惑と恐怖になって襲い掛かる。
怖い。
このまま強引に押し切られそうで、怖い。
神界の理不尽な神人たちの圧力には屈しない自信があるが、こういう方向の圧力への耐性はマリエルには全く備わっていないのだ。
「他の男を見ないで俺だけを見てくれないか? ……ダメだろうか……?」
ルカは甘えるような声でマリエルの袖口をキュッと掴む。
上目遣いで懇願するその姿は捨てられた子犬のように庇護欲をそそるが、同時に雄としての危険な色気も孕んでいる。
「いや、学園だとそういうわけにもいかないというか……授業とかあるし……」
マリエルがしどろもどろになって言い訳をひねり出そうとした、その時。
スリッ。
ルカがマリエルの肩に寄りかかり、そのまま彼女の柔らかな頬に自身の頬をスリスリと擦り寄せてきたのだ。
「ひゃっ!?」
「はあ……マリエル嬢のほっぺた、柔らかい……。温かい……ずっとこうしていられる……」
ルカは幸せそうに目を閉じ、子猫のように頬ずりを繰り返す。
微かな酒の匂いと彼の体温が直接伝わってくる。
「か、顔近っ……近っ……!」
マリエルの顔面が今度こそ爆発しそうなほどの熱を持つ。
心臓が口から飛び出しそうなほど激しく鳴り、全身の血が逆流するような感覚。
神界から堕とされる時でさえ、こんなにパニックになったことはない。
「おっと、面白くなってきましたねバーバラさん」
「これは素面になった時に教えたら、面白そうだねえセリアちゃんや」
セリアがパンを齧りながら野次馬根性丸出しで実況を始め、バーバラもまたゲラゲラと笑いながらジョッキを呷っている。
「はずかちい……はずかしぬ……」
マリエルはルカの頬ずりから逃れることもできず、両手で顔を覆って小さく呻く。
あまりの羞恥に思考回路がショートして言葉すらまともに紡げなくなっている。
「そういうのは『愧死』って言うんだよマリエルちゃん」
「へー、ひとつ賢くなった」
バーバラが親切に語彙を補足し、セリアが感心したように頷く。
そんな混沌と甘酸っぱい空気がダイニングを支配していた、その時。
コロンッ。
マリエルが床に置いていた革製の鞄から、何かの拍子に一つの小箱が転がり出た。
厳重な魔力防護が施された、その透明なケース。
「おっと、何か出てきたよ」
バーバラが身を乗り出し、転がったケースを拾い上げる。
「ん? 『天声の雫』じゃん。持ってきてたんだ」
それは魔法研究所の魔王研究部門に保管されていた神界の遺物。
天と交信するための遠距離通信機だ。
教会からの特別な許可を得て貸与された貴重品であり、誰もいない部室に放置しておくのも不用心なため、マリエルが念のために鞄に入れて持ち歩いていたのだ。
だが、それを説明できる当の本人であるマリエルは。
「んんっ……マリエル嬢……好きだ……」
「あわわわわ……」
現在、ルカにがっちりと抱きしめられた上にエンドレスで頬ずりをされ続け、羞恥の限界を突破してフリーズ中である。
それを尻目にセリアとバーバラは特に気にする様子もなく、通信機のケースを間に挟んで会話を続けている。
「見た感じ、壊れてるね」
バーバラがケース越しに遺物の状態を鋭い目で観察する。
中心の青い宝玉を囲む複雑な金属のリング。
その何箇所かが割れて無残な断面を晒している。
「そうそう。そのリングの内側にすっごい細かく術式が刻まれてるでしょ? それを直せる人が学園にもいなくて困ってるんですよね~」
「ふーん」
バーバラは興味深そうに目を細めた。
「ちょっと、中身の術式の記録、見せてもらえるかい?」
「あ、はい。マリエルが研究所で書き写したメモが鞄の中にあるはずです」
セリアがマリエルの鞄をごそごそと漁り、丁寧に書き写された術式の模写の束を取り出してバーバラに渡す。
一緒に鞄に入っている術式記録と実物を見比べながら、バーバラは顎をさすった。
その目は先ほどまでの豪快な鍛冶屋の女将のものではなく、真剣な職人のそれに変わっている。
「……なるほどね。こりゃあ、確かに人間業じゃない緻密さだ」
バーバラは感心したように呟き、そして。
「良ければ私が直そうか? 時間はかかるだろうけどね」
「えっ……直せるんですか?」
事も無げに提案するバーバラに、セリアが驚いて聞き返す。
魔法研究所のトップであるバートン主任でさえ「普通の人間じゃ絶対無理だ」と匙を投げていた代物だ。
いくら凄腕の鍛冶師とはいえ、辺境の街の武器屋のおばちゃんが直せるようなレベルのものではないはずだ。
「昔、細工職人をやっててね。ちょっとは名が知れてたんだよ」
バーバラは懐かしそうに目を細め、フッと笑う。
その時。
マリエルに頬ずりし続け、夢の世界にいたはずのルカがふと反応を示した。
ルカはマリエルの柔らかな髪に顔を埋めたまま、ろれつの回らない声で呟く。
「……細工職人でバーバラというと、まさか『神の御手』のバーバラ?」
「ん? 知ってるの、酔っぱらいのルカ君」
セリアが面白そうにルカを突っつく。
ルカはマリエルにスリスリと頬ずりしながら、途切れ途切れに解説を始める。
「ああ。随分昔に王都で有名だったと聞く凄腕の細工職人だ。王侯貴族の豪奢なアクセサリー細工も請け負っていて、その技術は魔法に頼らずとも神の業に等しいと言われていた。……それに見目も大変麗しかったから、その腕前と美貌を見込んで各国の貴族からの求婚が絶えなかったと聞くが……」
「昔の話だねえ。そういうのが煩わしくなって辺境に引っ込んだロートルだよ、私は」
バーバラは苦笑いを浮かべ、手をひらひらと振って謙遜する。
「信じられない? ほれ、ちょっと待ってな」
バーバラは立ち上がり、部屋の隅にある古い戸棚をごそごそと漁る。
そして一枚の小さな絵姿を取り出し、テーブルの上へと広げた。
「ちなみにこれが、王都にいた頃の昔の絵姿」
そこに描かれていたのは。
「超美少女じゃん」
豪快な今の姿からは想像もつかない儚げで可憐な、絵に描いたようなドワーフの美少女の姿がそこにあった。
透き通るような肌と繊細なガラス細工のような顔立ち。
確かに、これほどの美貌と技術があれば貴族たちが放っておくはずがない。
「ふっ……マリエル嬢には負けるな」
ルカが絵姿を一瞥し、マリエルをさらに強く抱きしめながら誇らしげに言い放つ。
「それ、当人に言ってあげなよ。……って、あれ? マリエル気絶してない?」
セリアがマリエルの顔を覗き込む。
ルカの過剰な愛情表現とキャパシティを超えた羞恥によって、マリエルは目を回して意識を手放していた。
顔は茹でダコのように赤く、口からは魂の抜けたような微かな息が漏れている。
「この通信機の修復は、おばちゃんに任せときな! ちょっと時間はかかるだろうが必ず元の形に直してやるよ! あっはっはっはっは!」
バーバラはマリエルの様子を見て、再び豪快な笑い声を上げる。
こうして。
マリエルの思いもよらないところで彼女の最大の懸案であった『天声の雫』の修復の目途が立ち、辺境の街の夜は賑やかに更けていくのであった――。




