水精姫と魔王研究部門
魔法研究所のさらに奥深く、強固な魔力結界と何重もの物理的な扉に守られた区画。
「こちらが、我が魔王研究部門のメイン資料室兼、作業エリアだよー」
バートン主任がパスコードと自身の魔力を鍵穴に流し込み、分厚い鋼鉄の扉を開け放つ。
その瞬間マリエルたちの視界に飛び込んできたのは息を呑むような、いや物理的に息苦しくなるような光景だった。
セリアが目を丸くし、マリエルも呆然と立ち尽くす。
「うわあ……」
「これは……」
「……見事に、書類だらけですね」
ルカが的確に状況を言語化する。
広大な空間の至る所に書類、羊皮紙、古い巻物、そして解読途中の石板の欠片などが文字通り山のように積み上げられていたのだ。
本棚はすでに飽和状態で、床から天井に向かって積み上げられた資料の塔がいくつも林立している。
その隙間を縫うようにして、白衣を着た研究員たちが、埃とインクにまみれながら悲鳴のような声を上げて作業に追われている。
大教会の静謐な中枢資料室とは全く異なる熱気がそこにあった。
「そうなんだよー」
バートンは頭を掻きむしり、大きなため息を吐いた。
「何しろ、対象が3000年分の歴史だからねえ。全部が全部綺麗に製本されて残っているわけじゃない。特にずさんな管理をしていた時代もあって、書類の保存状態が極めて良くないものも山ほどあってさあ」
バートンは近くの机からボロボロに崩れかけた羊皮紙の束を拾い上げ、恨めしそうに見つめる。
「君たちも歴史の授業で聞いたことない? 150年ほど前、教会がひどく腐敗して権力闘争ばかりしていた暗黒の時代があるって」
「そういえば大教会を案内してくださったオーフェン司祭も痛ましく仰っていましたね……」
マリエルが相槌を打つ。
「まさにその時代だよ! そういう権力腐敗の時代だと真面目な学術記録の付け方や重要な遺物の管理方法とかも適当すぎて、本当に困っちゃうんだよ。自己保身のための改ざんとかも多いしね」
バートンは羊皮紙の束を机に戻し、忌々しそうに吐き捨てる。
「きちんとしている時代は紙自体に劣化を防ぐ保護術式が施されていたり、魔王の拠点から回収した危険な遺物への封印処理や、保存方法の引き継ぎとかもちゃんとしてるんだけどねえ……」
ため息を吐くバートンにルカが質問を投げる。
「確か直近の魔王が現れたのは150年前でしたか。教会の腐敗とちょうど重なる時期ですが……その時代の遺物や魔王に関する詳細な記録は、あまり残っていないと?」
「無いねえ、これが本当に。全くと言っていいほど無い。唯一、呪詛まみれの手記が発見されたくらいかなあ」
バートンは肩をすくめ、お手上げといったポーズをとった。
「なにしろ当時の教会が全く機能していなかったせいで勇者一人が単独で魔王の拠点に突入して倒して、そのまま相打ちになっただろ? あ、教会の公式見解だと『奇跡を起こして天に登った』んだっけ? まあ結末はどうあれ、ともかく」
バートンの口調が少しだけ早口になる。
「肝心の拠点を突き止めて魔王を倒した当人が討伐直後にそのままいなくなっちゃったもんだから、当時の魔王の拠点が具体的にどこだったのか正確な位置が誰にもわかんなくてさあ」
「えっ……拠点の場所すら、わかっていないんですか?」
マリエルが驚いて問い返す。
魔王という強大な存在が潜んでいた場所なのだ。
討伐後に国や教会が大々的に調査に入り、根こそぎ情報を持ち帰っているものだとばかり思っていた。
「そうなんだよ。我々の研究部門が発足してから、わずかな記録の断片や地脈の異常、呪詛の残留痕跡なんかを頼りに調査を進めて、いくつか『かつての拠点らしいところ』は見つけたんだけどね。どれが最後の決戦の地となった『本命の拠点』なのかは、さっぱりってのが本音かな」
バートンは顎に手を当て、考え込むように視線を宙に彷徨わせる。
「ひょっとしたら当時の魔王は一箇所に留まらず、複数拠点を持って広範囲を移動していた可能性もあるね。だからこそ当時の軍や教会も居場所を特定するのにあれだけ苦労したのかもしれない」
「そうなんですか……」
マリエルは少しだけ落胆した。
大教会の地下で見た手記の続きや、父が魔王と戦った痕跡を見つけ出せれば神界に関する重要な手掛かりになると思っていたのだが。
現場が特定されていないのでは調査のしようがない。
ルカが視点を変えて尋ねる。
「では直近の150年前ではなく、他の時代の魔王の遺物は、ここに保管されているんですか?」
「あるにはあるけど……さっきも言った通り、直近の時代の教会の管理体制がずさんすぎただろ? 過去の時代から受け継がれてきた貴重な遺物も、あの暗黒時代に適切な魔力補給やメンテナンスを怠ったせいで現在に至るまでに劣化が激しく進んじゃってるんだよねえ……」
「腐敗してた時代が現代の研究の足枷過ぎる……」
セリアが心底呆れたように呟く。
過去の権力者たちの怠慢が今の真面目な研究者たちの首を絞めているという、なんとも世知辛い構図だ。
「ほんとそれね! セリアちゃんの言う通り! おかげで今の時代の俺らが復元と解析に本当に血の滲むような苦労をしてるんだよ!」
バートンは我が意を得たりとばかりにセリアを指差し、深く同意した。
「いくつか、どうにか原型を留めている遺物は教会からうちの研究所に届けられて修復と機能解析の依頼をされてるんだけど……これがまた尋常じゃなく手先が器用で、かつ高度な魔力制御ができる人間じゃないと修復は到底無理な代物ばかりでね。ちょっと実際に見てみるかい?」
「是非!」
マリエルが食い気味に答える。
神界の技術が使われている可能性のある遺物だ。
自分の目で確かめない手はない。
バートンの案内で、三人は書類の塔を掻き分け、部屋のさらに奥に設けられた『遺物修復エリア』へと進んだ。
そこには巨大なルーペや精密な魔導工具、細いピンセットのようなものを手にした何人もの研究者たちが机に向かって張り付くように作業をしている。
だが彼らの表情は一様に険しく、時折「ああ、また術式が崩れた……」「この素材、魔力への反発が強すぎる……」といった悲痛な声が漏れ聞こえてくる。
素人目に見ても、あまり進捗は良くなさそうだ。
「皆、苦戦してるねえ……。まあ無理もないけど。で、あっちの特別ケースに入ってる遺物が今のところ一番修復の目があるかな、って期待されてるやつだ」
バートンが指差した先には他の作業台とは少し離れた場所に、厳重な魔力防護ガラスに覆われた一つの箱が置かれていた。
彼がパスコードを入力してガラスのケースを開けて慎重に、まるで割れ物を扱うようにして、その遺物を三人の前に取り出した。
「これだよ」
バートンの手のひらに乗せられた遺物。
それは中心に淡く光る青い宝玉が据えられ、その周囲を何枚もの精巧な金属のリングが球状に囲っている、手のひらサイズの奇妙な形状のアーティファクトだった。
リングはそれぞれが独立して回転するような構造になっており、天球儀を極小サイズにしたようにも見える。
「この遺物は、わずかに残された文献との照合と魔力解析の結果、『天声の雫』と呼ばれるものだという話だ」
バートンが、その遺物の名称を告げる。
「天声の雫……」
ルカがその名を反芻する。
「なんでも、これを正しく起動すれば天に座する神と直接交信ができる……神の声を聴くことができる通信機のようなものだとか、なんとか。まあ当時の狂信的な連中が作ったおとぎ話の類だろうけどね。眉唾もいいところだ」
バートンは苦笑しながら信じていないという態度を示す。
だが。
その遺物を一目見た瞬間。
マリエルの心臓が、早鐘のように激しく鳴り始めた。
背筋を冷たい汗が伝い、呼吸が浅くなる。
(――見たことがある)
彼女の目は、その遺物の形状に釘付けになっていた。
(型はだいぶ古くて装飾も下界の様式に合わせてカモフラージュされてるみたいだけど……あれは間違いなく神界で使われている遠距離通信機だ!)
神人たちが離れた区画同士で連絡を取り合うために使用する、ありふれた魔道具。
なぜ、そんな神界の技術の結晶が魔王の遺物としてこの下界の研究所に存在しているのか。
謎は深まるばかりだが、そんなことよりも今のマリエルにとって圧倒的に重要な事実が一つある。
(これを修復できれば……神界との通信が下界からでも可能になるかもしれない……!)
神界の状況を探る。
あるいは、彼らの通信を傍受する。
使い道はいくつもある。
これ以上ない最高の手札だ。
だがルカが目を細めて遺物の状態を冷静に分析する。
「……惜しいな、壊れている。周囲のリング状の部分が何箇所も割れて欠損しているようだ」
「本当だ。ヒビが入ってて、なんか痛々しいね……。直せないんですか、主任さん?」
セリアが心配そうにバートンに尋ねる。
「外側のリング状の金属部分を物理的に修復するだけなら、うちの優秀な錬金術師たちにかかればどうとでもなるんだ。同じ素材を合成して繋ぎ合わせればいいだけだからね」
バートンは遺物をゆっくりと回転させ、内側を見せるように傾けた。
「でも問題は外側じゃない。一番重要なのは内側の術式部分なんだよ」
バートンが巨大なルーペを遺物にかざし、三人に覗き込むよう促す。
マリエルたちがルーペ越しにリングの内側を見ると、そこには微細な幾何学模様のような線が整然と、かつ息を呑むほど美しく細やかに刻み込まれていた。
ルカが自身の魔術師としての常識を根底から覆されるような衝撃を受ける。
「……これは凄いな。こんな極小の面積に、これほど膨大な情報量の術式を……しかも魔力の流れに一切の淀みがない」
「私、魔法の術式とか全然わかんないけど……人間の手で彫刻刀とか魔力ペンを使って手作業で刻めるものなの? コレ」
「無理だね。ミリ単位の誤差も許されない尋常じゃない器用さが必要だ。いくら優秀な魔術師や細工師でも、普通の人間じゃ絶対に手作業での再現なんてできないよなあ」
セリアはあまりの細密さに顔を引きつらせ、バートンが完全にお手上げといった様子で肩をすくめた。
それもそのはずである。
元々神界において、この通信機に術式を刻む工程は手作業などではない。
『術式の転写』と呼ばれる、特殊な機材を用いた高度な転写技術によって金属に直接魔力回路を焼き込み、自動生成しているのだ。
人の手で再現できるようなアナログな代物ではない。
「まあ、無理でしょうねえ」
マリエルもこの通信機の修復は難しそうだと、ため息を吐いた。
その時。
突如として研究所の地下施設内に、耳をつんざくような甲高い警報音が鳴り響いた。
赤い照明が回転し、室内の空気が一瞬にして凍りつく。
「な、なんだ!? 警報……?」
バートンが遺物を慌ててケースに戻し、天井の拡声魔道具を見上げる。
他の研究員たちも作業の手を止めて顔を見合わせている。
魔法研究所での警報。
それは実験中の魔法の暴走か、あるいは危険な魔獣の脱走を意味する。
直後、ノイズ混じりの緊急放送が施設全体に響き渡った。
『緊急報告! 緊急報告! 第6倉庫から保管中であった古代遺物……巨大ゴーレム仮称『巨神兵』が突如として起動! 倉庫の扉を破壊し外へと動き出しました!』
「なっ……!?」
バートンの顔から一気に血の気が引いた。
「『巨神兵』って……あの100年以上前に発掘されたバカでかい石と鉄の塊か!?」
「魔力をいくら注いでも完全に沈黙してて絶対動かなかったって聞いてるぞ! なんで急に!?」
周囲の研究員たちがパニックに陥り、ざわつき始める。
放送は追加で絶望的な状況を告げる。
『対象は現在、敷地内を一直線に南棟を目指して進行中! 迎撃部隊の魔力砲撃、効果なし! 繰り返す、効果なし! 各員、至急避難されたし! 繰り返す――』
「そんな! 南棟って、ここの棟じゃないか!」
バートンが絶叫する。
100年の眠りから目覚めた巨大な古代兵器が、一直線にこの場所を目指して進撃してきている。
ただの石の塊ではない。
迎撃部隊の魔法が通じないほどの強固な防壁と破壊力を持った「巨神兵」だ。
それがこの建物に到達すれば甚大な被害は免れない。
「……っ!」
マリエルは、考えるよりも早く、自身の足で床を蹴っていた。
「マリエル!?」
彼女が突然、開け放たれたままの鋼鉄の扉に向かって飛び出したのを見て、セリアが驚愕の声を上げる。
「マリエル嬢! どこへ行く!」
ルカが制止の声を張り上げるがマリエルは止まらない。
彼女は振り返ることなく廊下へと飛び出していった。
逃げるためではない。
この施設が破壊されれば神界との通信機である『天声の雫』も、魔王の手記を読み解くための他の資料もすべて失われてしまう。
それだけは絶対に阻止しなければならない。
「マリエル! 待って!」
セリアが親友を一人で危険な目に遭わせるわけにはいかないと、すぐさま彼女の背中を追って駆け出す。
「くっ……無茶をするな!」
ルカもまた舌打ちをしながら、二人の後を追って廊下へと飛び出していった。
警報が鳴り響く中、それぞれの想いを胸に。
三人の若き魔法使いたちは迫り来る巨大な厄災へと向かって、その身を投じていくのであった――。




