水精姫と魔法研究所
秋の深まりを感じさせる冷たい風が、王都の魔法学園の敷地を吹き抜けていく。
並木道の木々は鮮やかな黄金色や赤銅色に染まり、乾いた葉が石畳の上でカサカサと音を立てて転がっている。
午後の陽光が斜めに差し込む中、マリエル、ルカ、セリアの三人は、学園の敷地の最奥に位置する魔法研究所へと向かって歩みを進めていた。
「どんな場所なのか楽しみだねえ、マリエル!」
「そうだね」
セリアが隣を歩きながら親友に語りかけ、マリエルは穏やかな笑みを返す。
少し前を歩くルカもまた、振り返って二人のやり取りを見つめながら、微かに口元を緩めている。
だが、その和やかな空気の中で、マリエル一人だけが胸の奥に重い鉛のようなものを抱え込んでいた。
(……やっぱり、不自然だよねえ)
彼女が考え込んでいるのは、これから向かう魔法研究所の設備や、そこで得られるであろう魔王の資料についてではない。
他ならぬ己自身の振る舞いについてだ。
学園祭に向けて突如として新設クラブを立ち上げ、その活動内容を『魔王研究会』と銘打つ。
それ自体は、歴史の探求という名目でごまかせる範疇だったかもしれない。
だが、クリストフから王家秘蔵の資料――過去の魔王がもたらした被害状況や、それに対抗した勇者たちの行軍記録といった、歴史研究としては一級品であるはずの文献を貸与されたにもかかわらず、マリエルはそれらにほとんど目もくれなかった。
彼女が執拗に求めているのは、ただ一点。
魔王そのものの正体、生態、そして彼らが残した不可解な遺物や魔力の痕跡に関する情報のみである。
歴史研究という建前を被りながら、そのアプローチは明らかに偏執的だ。
普通の生徒のそれとは明らかに違う。
さらに言えば、ルカには決定的な瞬間を見られている。
あの大教会の地下深く、厳重な結界に守られた特別庫での出来事だ。
下界の人間には解読不能な象形文字とされている手記、それを見た時の反応。
あの時、ルカの鋭い瞳が自分をどのように観察していたか想像に難くない。
明らかに異常だ。
不可解な言動の連続であり、マリエルという存在を訝しむには十分すぎるほどの材料が揃っている。
にもかかわらず、ルカもセリアも今日に至るまで彼女に対して何も聞いてこない。
理由はわかっている。
彼らがマリエルを信じてくれているからだ。
『彼女には何か、深く複雑な事情があるのだろう』
『いつか、彼女自身の口から話してくれる時が来るはずだ』
そんな風に慮り、無理に踏み込むことを避けて、ただ静かに寄り添ってくれている。
その優しさと不器用で温かい信頼がマリエルの心を締め付けて離さない。
(近いうちに、話さないといけないかな……)
自分が何者であるか。
遥か天空の神界から理不尽な罪を着せられて翼をもがれ、この下界へと堕とされた元神人であるという事実。
純粋な人間ではなく、人間と神人の血が混ざり合った「混ざりもの」であるという真実。
そして、この魔法学園での生活も、魔王の調査も、すべては神界へ行くための手段であるという目的。
それを打ち明けた時、彼らはどう思うだろうか。
恐れ、忌み嫌い、離れていくのではないか。
あるいは騙されていたと激怒するのではないか。
ようやく手に入れた温かな居場所。
下界に堕ちて初めて知った、損得勘定抜きの純粋な「友達」という存在。
真実を知っても彼らは自分と友達のままでいてくれるだろうか。
それがひどく怖かった。
失う恐怖が足枷となり、言葉を喉の奥に押し留めてしまう。
不意にセリアが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「マリエル、どうしたの? 足元ふらついてるよ」
「……ううん、なんでもないよ。ちょっと考え事をしてただけ」
マリエルは慌てて思考の海から浮上し、いつものように穏やかな笑顔を取り繕う。
前を歩いていたルカが立ち止まり、視線を前方へと向ける。
「着いたぞ。魔法研究所だ」
そこには、学園の講義棟とは全く異なる意匠の巨大な建造物がそびえ立っていた。
重厚に組み上げられた外壁には幾重にも複雑な魔力防護の術式が刻み込まれ、微かな青白い光の脈動を放っている。
三人は顔を見合わせ、その重々しい鉄扉の向こうへと足を踏み入れる。
内部は外観の印象以上に広大であった。
迷路のように入り組んだ廊下を白衣を纏った研究員や魔術師たちが、分厚い資料の束を抱えて忙しなく行き交っている。
まさに国家の最高機密を扱う、魔法技術の最前線だ。
受付で来訪の旨を伝えて指定された待合室でしばらく待機していると、廊下の奥からバタバタと慌ただしい足音が近づいてきた。
「やーやー、お待たせしましたお待たせしました!」
現れたのは少しヨレヨレの白衣を着たボサボサ頭の男性だった。
目元には深い隈が刻まれており、慢性的な睡眠不足らしい。
「私が、この魔法研究所にて魔王研究部門の主任を務めております、バートンと申します」
彼はペコペコと頭を下げながら、三人の前に進み出た。
「初めまして。一年生のマリエルです」
「魔王研究会代表のルカです」
「セリアです! よろしくお願いします!」
三人がそれぞれ名乗るとバートンは手元に持っていた分厚い書類の束をペラペラと捲りながら、嬉しそうに目を細めた。
「や、どーもどーも。魔法学園の生徒さんたちが自発的に魔王を研究するクラブを立ち上げたと聞いて部門の者一同、大変嬉しく思っておりますよー。近年は即効性のある魔法や魔道具開発ばかりが持て囃されて、歴史や根源を紐解く我々の部署は肩身が狭かったものですからね」
バートンは書類の束から一枚の羊皮紙を抜き出す。
「えーと、本日はクリストフ殿下の直々の見学許可と紹介状が出ているんだったねー。殿下の推薦とあらば我々も全面的な協力を惜しみませんよ」
「はい。ありがとうございます。そして俺とこちらのマリエル嬢は、五天星の席を預かっております」
ルカとマリエルが腕に巻かれた五天星の証である腕章を軽く示す。
バートンはその腕章を見るなり、おおっ、と大げさに驚きの声を上げた。
「五天星かー! それは凄いなあ。一年生でその座に就くとは末恐ろしい才能だ」
彼は白衣のポケットに手を突っ込み、どこか遠い目をして苦笑いを浮かべた。
「俺がまだ学園に在籍していた学生の時はね、五天星の連中に完膚なきまでにボコボコにされた苦い記憶があるんだよー」
「五天星と交戦経験が? 先生も彼らに挑戦でもされたんですか?」
マリエルが不思議そうに尋ねる。
研究者肌の彼が自分から血の気の多い上位陣に喧嘩を売りに行く姿は想像しにくい。
「まさかあ。そんな恐ろしいこと自分からするわけないじゃないか」
バートンはぶんぶんと首を横に振る。
「学園祭の『闘技祭』で当たってしまったんだよ。なす術もなく予選落ちさ。あいつら手加減ってものを知らないからねえ」
「闘技祭?」
マリエルは聞き慣れない単語に首を傾げる。
隣のセリアとルカを見ると、二人は当然のように頷いていた。
「ああ。学園祭では各クラブ活動の文化的な研究発表の他に、生徒同士で魔法技術を競い合う大規模なトーナメント大会があるんだ。それが闘技祭だ」
ルカが静かに解説を加える。
「日頃の魔法技巧の鍛錬の成果を披露する場として、王都中から一般の観客や有望な人材をスカウトしに来る貴族、騎士団の幹部たち等を大々的に招いて行われる学園最大の目玉イベントさ」
「へえ、そんなのがあるんだ」
マリエルは感心したように相槌を打つ。
血の気の多い人間たちがいかにも好みそうなお祭り騒ぎだ。
観客席で屋台の串焼きでも齧りながら、のんびりと見物する分には楽しそうな行事である。
そう思っていたマリエルに対し、ルカはどこか哀れむような冷ややかな視線を向けた。
「……まるで他人事のような顔をしているがマリエル嬢。五天星のメンバーは闘技祭への参加が『強制』だぞ」
「……えっ」
マリエルの動きが、ピタリと停止した。
セリアが事もなげに頷く。
「まあ、そうだよね。学園のトップに君臨する五天星が実力を披露する舞台に出ないわけにはいかないもんね。観客の目玉だし」
「うわあ……嫌だなあ、それ……」
マリエルは顔を引きつらせ、露骨に嫌悪感に満ちた声を漏らした。
目立ちたくない。
神界の力をひた隠しにしたい。
ただ平穏に大教会の資料だけを漁っていたいのに、なぜ何千人という観客の面前で見世物のように戦わなければならないのか。
しかも五天星という肩書きがある以上、無様な戦いはできない。
頭を抱えそうになるマリエルの横で、セリアがウキウキとした声を上げる。
「私も出ようかなあ! せっかく外部見学で王城騎士団の皆さんに実戦的な身体の動かし方をみっちり鍛えてもらったし。その技を披露して、どこまで勝ち上がれるか試してみたい!」
セリアはシュッシュッと軽いジャブを放ち、すっかりやる気満々だ。
魔力で強化した肉体を駆使した、生身の格闘術。
その姿を想像し、ルカが深いため息を吐いた。
「……セリア嬢の戦いは魔法戦というより、魔法使いの皮を被った戦士の戦いになりそうだな……。闘技祭の趣旨が変わってしまわないか心配だ」
「いいじゃん! 最後に立っていた方が勝ちなんだから、細かいことは気にしない!」
セリアがカラカラと笑う。
「ははは、若いって素晴らしいねえ。それでは、そろそろ案内しようか。我々の魔王研究部門は地下階にあるんだ」
バートンの案内で三人は研究所のさらに奥深くへと歩みを進めていく。
冷たい石造りの廊下に、四人の足音が反響する。
マリエルは闘技祭という新たな憂鬱の種を抱え込みながらも、これから目にすることになるであろう「魔王の真実」への期待で、静かに胸を高鳴らせていた。
◆◆◆◆
マリエルたちが研究所の地下へと降りていくのと同じ頃。
研究所の敷地内にある広大な保管エリア、その最も外れに位置する薄暗い区画で、二人の職員が台車を押しながら歩いていた。
「おい、この先日発掘された遺物をしまう倉庫はどこだっけ?」
白衣を着た職員が台車の上に載せられた泥まみれの石板のようなものを指差して尋ねる。
「ああ、それは第6番倉庫の指定だな。こっちだ、ついてこい」
若い職員が、鍵束をジャラジャラと鳴らしながら先導する。
彼らが向かったのは普段は滅多に人が寄り付かない、埃っぽい古い倉庫だった。
重い鉄扉の鍵を開け、ギィィィと錆びた音を立てて扉を押し開ける。
むわっとした、カビと長い年月が蓄積された古い空気の匂いが鼻をついた。
壁に設置されたランプが人の気配に反応して鈍いオレンジ色の光を灯す。
「うお……相変わらず、でっけえな」
職員が倉庫の奥に鎮座する『それ』を見上げて、思わず感嘆の声を漏らした。
そこにあったのは天井に届かんばかりの巨大な人型の構造物。
全身が風化した灰色の石材と、赤黒く錆びついた未知の金属で構成されている。
太い腕、丸太のような脚、そして頭部には目や鼻といった器官はなく、ただ無機質な一本の赤いスリットが走っているのみ。
全身には現代の魔法体系とは全く異なる、幾何学的で複雑怪奇な術式がびっしりと刻み込まれていたが、その大部分は苔や埃に覆われ、長い時間の中で風化しつつある。
古代文明の遺物と謳われている巨大なゴーレム『巨神兵』である。
「ただのデカブツだよ。発掘された当初はこれほどの巨体が動き出せば途方もない戦力になると期待されて、何人もの優秀な魔術師が膨大な魔力を注ぎ込んだらしいけどね。うんともすんとも言わなかったってさ」
若い職員が台車から石板を降ろしながら興味なさそうに語る。
「中枢のコアが完全に死んでるのか起動のための特殊な鍵が必要なのか。今となっては解析する手段もないそうだ。もう100年くらい、こうやってこの倉庫の肥やしになったままだってさ」
「そっか。もったいない話だが、これだけデカいと解体して捨てるのも一苦労だしな」
職員はゴーレムの足元に発掘品を乱雑に置くと、パンパンと手についた埃を払った。
「よし、今日の仕事はこれくらいでいいだろ。この後どうする?」
「そうだな。久々に酒場にでも飲みに行くか。エールが美味い店があるんだ」
「賛成だ。冷たいのが飲みたいぜ」
二人の職員はゴーレムには一瞥もくれることなく、軽い足取りで倉庫を後にする。
重い鉄扉が閉められ、外から鍵が掛けられる音が響いた。
倉庫は再び静寂と孤独の空間へと戻った。
時が止まったかのような冷たい沈黙。
100年もの長きにわたって誰にも見向きされず、ただ朽ちていくのを待つだけの巨大な鉄と石の塊。
だが。
微かな音が静寂の倉庫内に響いた。
ゴーレムの巨大な右腕の関節部分から、パラリと長年降り積もっていた埃と乾燥した苔の欠片が床に落ちたのだ。
黒く沈黙していた頭部の赤いスリットの奥底で、ごく僅かに蛍火のような赤い光の粒子が明滅を始めたのであった――。




