水精姫と相談
放課後の魔法学園。
西に傾きかけた太陽が、長く続く大理石の廊下にオレンジ色の光の帯を何本も落としている。
マリエルは、珍しく一人でその光の帯を跨ぐようにして歩いていた。
いつもなら隣で快活に喋り続ける親友、セリアの姿はない。
彼女は「外部見学で騎士団から教わった身体の使い方のコツ、忘れないうちに自分のものにしてくる!」と意気込み、授業が終わるや否や訓練着に着替えて実技演習場へと飛んでいってしまったのだ。
目標に向かって真っ直ぐに努力する彼女の姿は、見ているマリエルまで清々しい気持ちにさせてくれる。
(……それにしても、静かだな)
一人で歩く廊下は、少しだけ手持ち無沙汰だ。
だが、同時に思考を整理するには丁度良い時間でもある。
マリエルの頭の中は、あの大教会の地下で見た手記のことで一杯になっていた。
『フーラース』という神界の老神人長の名前。
150年前に現れ、父である先代勇者と戦ったという魔王が遺した、血を吐くような呪詛の言葉。
神界と下界、そして魔王という存在を繋ぐ見えない糸が確実にそこにある。
(教皇に直接会って話を聞くための大義名分は『魔王研究会』の活動として学園祭で成果を出すことで作れそうだけど……。それまでに、もっと手札を集めておかないと)
考えの海に深く潜り込みかけていた、その時。
「……マリエルちゃん」
背後から耳に馴染んだ声が掛けられた。
振り返ると、そこには見慣れた赤茶色の髪の青年が立っていた。
五天星の序列第二位、『大地の申し子』アラン・フォーロッドである。
だが、その様子がどうにもおかしい。
普段の飄々とした、どこか人を食ったような余裕のある態度は鳴りを潜めている。
彼は周囲の廊下をきょろきょろと見回し、誰の目もないことを確認するようにそわそわとしていた。
いつもなら第一ボタンを開けて着崩している制服の襟元まで妙にきっちりと整えられているのが、かえって不自然さを際立たせている。
「アランさん? どうしたんですか」
マリエルが怪訝そうに首を傾げると、アランはハッとして口元に人差し指を立てた。
「……シーッ。マリエルちゃん……今、一人だよね?」
「ええ、まあ」
「……場所を変えよう。少し話があるんだ」
アランの瞳には、いつもの軽薄な光はない。
真剣そのもの、あるいは切羽詰まったような焦燥感すら漂っている。
「……わかりました」
マリエルは小さく頷き、彼に従うことにした。
歩きながらマリエルの脳内では警鐘が鳴り響いていた。
彼がこれほどまでに周囲を警戒し、人目を忍んで話したいこと。
それは一体何なのか。
(もしかして……魔王関連、だろうか)
アランが魔王という存在に深く関連しているとは、あまり思いたくはない。
だが彼はこの学園のトップ層に君臨する大貴族の子息だ。
一般の生徒が知り得ないような国家の機密や教会の暗部について、何らかの情報を握っている可能性は十分にある。
現状、不透明なところが多すぎるのだ。
警戒はしておくに越したことはない。
マリエルは袖に隠した指先で、いつでも初級の水魔法を展開できるよう微かに魔力を練り上げながら歩を進める。
やがて二人は人気のない空き教室へと辿り着いた。
夕日も差し込まない薄暗い部屋の中で、机と椅子が無造作に積まれている。
アランは教室に入るなり、ピシャリと扉を閉め、念を入れるように小さな防音の魔法陣を展開した。
そしてマリエルと真っ直ぐに対峙する。
「……今から話すことは絶対にここだけの秘密にしてほしい。約束できるかい」
低く押し殺したような声。
国家の転覆か、あるいは命に関わる重大な秘密の暴露か。
マリエルは息を呑み、ゆっくりと頷いた。
「……はい。約束します」
次の瞬間。
一体どんな恐ろしい真実が飛び出すのかと身構えたマリエルの前で、アランは勢いよく深々と頭を下げた。
美しい赤茶色の髪が重力に従ってふわりと垂れ下がる。
「頼む! セリアちゃんの好きなものとか趣味とか、何でもいいから教えてくれないか!!」
「…………はい?」
空き教室にマリエルの間の抜けた声がぽつりと落ちた。
沈黙が降りる。
窓の外で、鳥がピヨピヨと長閑に鳴いて飛び去っていく音が聞こえた。
マリエルは目の前で頭を下げ続ける五天星の第二位をまじまじと見つめ、自身の耳を疑った。
「あの……セリアちゃんって、私の友人の、あのセリア……ですよね?」
「そうだよ! 君のルームメイトで、とびきり可愛くてガッツのある、あのセリアちゃんだ! 彼女と一番親しい君以外に他に口が堅そうで、こんなことを聞けそうな人がいなくて……!」
アランは顔を上げ、すがるような目でマリエルを見つめてくる。
どうやら魔王の秘密でも国家の陰謀でもなく、ただの恋の熱情のようだ。
マリエルは張り詰めていた警戒心の糸がプツンと切れ、全身から脱力していくのを感じる。
「……いったい、どういう経緯でそうなったんですか?」
呆れ半分、疑問半分で尋ねるとアランは少し頬を赤らめながら、訥々と語り始めた。
「この前の外部見学で、セリアちゃんが王城騎士団に来ただろう?」
「ええ、まあ。先ほども訓練に行ってましたし」
「僕の実家はね、代々王国騎士団長を輩出している武門の家柄なんだ。今代の騎士団長も僕の父が務めている。でも僕は剣や槍といった騎士の才能の代わりに、たまたま魔法の才能に恵まれてしまったから特例でこの魔法学園に入学したんだ」
アランは苦笑しながら肩をすくめる。
由緒正しき騎士の家系に生まれた、魔法使いの息子。
彼がどこか貴族らしからぬ飄々とした態度をとっていたのは、武闘派の一族の中で少し浮いた存在として育ってきたからなのかもしれない。
「それで、知っているかはわからないけど外部見学って一学年の君らと、二学年の僕らとでは日程が違うんだよ。だからあの日、父上から『魔法学園の一学年で珍しく騎士団を希望した変わり者が来たから、お前が案内してやれ』って言われてね。仕方なく行ったんだ」
アランの目が、あの日を思い出すように遠くを見つめる。
「会った時は本当に驚いたよ。魔法学園の生徒で、わざわざ騎士団を希望するなんて一体どんな筋肉バキバキの暑苦しい野郎が来るのかと身構えていたら……現れたのは、あんなに可憐で太陽みたいに笑う可愛い女の子だったんだからね」
「まあ、それはそうでしょうね……」
マリエルは相槌を打ちながら、内心で(騎士団をゴリ押ししたのは私なんだけどな)と密かに冷や汗を流す。
セリアの『身体能力強化』の魔法を最大限に活かすためには、騎士たちの実践的な近接戦闘技術を学ぶのが一番だとアドバイスしたのは、他でもないマリエルなのだ。
「その時にね、彼女の明るく朗らかな人柄に惹かれて……。でも、それだけじゃないんだ」
アランは胸元をぎゅっと握りしめ、言葉に熱が帯びる。
「ただ可愛いだけじゃない。周りの屈強な騎士たちの激しい鍛錬に泥だらけになりながらも、決して諦めずに必死に食らいついていくそのガッツ。何度転んでも立ち上がり、目を輝かせて教えを乞うその姿を見て……気が付いたら僕の目はもう、彼女の姿しか追えなくなってしまっていたんだ」
「凄いことになってる……」
セリアの将来のためにと思って的確な進路指導をしたつもりだったが、まさか見学先でこんな特大の恋愛事故が発生するとは、いくらなんでも予測不可能である。
「でも、アランさんは代々騎士団長を輩出してるっていう名家ですよね? セリアは平民ですけど身分の差とか、ご実家は大丈夫なんですか?」
先日、ルカから聞いた話がマリエルの脳裏をよぎる。
高位貴族の婚姻には様々な面倒な条件やしがらみがつきまとうものだと聞く。
だが、アランはあっけらかんとして首を横に振った。
「ああ、それは全く問題ないよ。一応名門伯爵家ではあるけど僕は五男坊だからね。家を継ぐわけじゃないし、そこまで嫁の家格だとか血筋だとか、うるさく言われる立場じゃない。それに、うちの家系はもう十分に親戚が多いから、これ以上政略結婚で親戚の数を増やさないと危うくなるような家柄でもないしね」
五男。
なるほど、それならば家の重圧からはかなり自由な立場にいるのだろう。
「むしろ、うちの家風で嫁に求められる一番の条件はガッツかな……。父上も常々『身分などどうでもいい! 根性の無い軟弱な嫁など我が家にはいらん!』って豪語しているような、絵に描いたような体育会系の家だからね。あのセリアちゃんの諦めの悪さと根性を見れば父上も絶対に大賛成してくれるはずさ」
「……ルカ君の家もそうですけど、高位貴族の家って嫁に求める条件が色々と妙なんですか……?」
マリエルは呆れ半分に尋ねる。
魔法の深い知識を求めるレグナス家と、とにかく根性を求めるフォーロッド家。
貴族というのも色々と面倒な生き物らしい。
「あはは。ルカの家も僕の家も貴族の中ではかなり特殊な部類だからなあ。……実を言うと僕も今まで、そういう家の期待に応えて気の強い武闘派の嫁を迎えるのがなんだか嫌で、わざとふらふらと遊び歩いているふりをしていたんだ」
アランは少しだけ自嘲気味に笑う。
彼が放っていた軽薄な雰囲気は、家からのプレッシャーを躱すための彼なりの処世術だったのだろう。
「でもセリアちゃん相手なら……あんなに可愛くて一生懸命な彼女になら、一生尻に敷かれてもいいなって本気で思えたんだよ」
「な、なるほど……」
マリエルは少しだけアランを見る目を変えた。
今までふらふらと色々な女子に声をかけていた軽薄さは確かにいただけないマイナスポイントだが、この真っ直ぐな言い分を聞く限り、今後はセリア一筋になる覚悟があるようだ。
何よりセリアの「可愛さ」だけでなく、その「努力する姿」や「ガッツ」といった本質的な部分をしっかりと見て評価している点は非常に好感が持てる。
(今後、彼が本当に誠実にお付き合いをする覚悟があるのなら、これはセリアにとって決して悪い話ではない……いや、むしろ良縁になり得るのでは?)
マリエルは冷静な目で状況を分析する。
相手は五天星の第二位であり伯爵家の息子。
実力も将来性も申し分ない。
大好きな親友であるセリアの幸せを願うなら、この縁を陰ながら結んであげるのも悪くないかもしれない。
「そういうわけで僕はセリアちゃんとは結婚を前提に真剣にお付き合いしたいんだ……! でも僕はまだ彼女と出会って日が浅いし、彼女が何が好きなのかも、どうアプローチすれば喜んでくれるのかもわからない。だからセリアちゃんの一番の友人であるマリエルちゃんの協力が、どうしても欲しいんだ!!」
アランは再び深々と頭を下げる。
その姿からは、なりふり構わぬ必死さが伝わってきた。
マリエルは少し考える素振りを見せた後、静かに口を開いた。
「……わかりました。そういう真剣な想いがあるのなら、フォローの件はなんとかしましょう」
「本当かい!? ありがとう! 本当にありがとう! 君は本当に女神か天使のようだ!」
アランが歓喜のあまり顔を上げ、手放しでマリエルを称賛した。
ピキリ。
その瞬間、空き教室の温度が氷点下まで急降下した。
「……天使と呼ぶのは、やめてもらえますか……?」
「え、あ……ご、ごめん……?」
マリエルの声は、まるで地獄の底から響いてくるようなドスの利いた声色であった。
アランは、その尋常ではない威圧感にビクッと肩を震わせ、後ずさる。
五天星の第二位である彼でさえ、本能的な恐怖を感じるほどの殺気。
神界から理不尽に堕とされて以来、「天使」といった神人を想起させる形容詞は、まだまだ彼女にとって吐き気がするほどの嫌悪感を催す地雷となっていた。
「……いいえ、こちらこそ急に大きな声を出してすみません。少し、その言葉に嫌な思い出があるだけです」
マリエルは一つ、深いため息を吐き出して心を落ち着かせる。
「それではセリアの好みを教えますから、しっかりメモしてくださいね」
「あ、ああ! もちろんだ!」
アランは慌てて懐から小さな革の手帳とペンを取り出し、真剣な生徒のように構える。
「まず食べ物ですが彼女は訓練で体を動かすので、とにかく『お肉』が大好きです。それから甘いものにも目がありません。小洒落た前菜よりもボリュームのあるステーキや美味しいケーキを喜ぶタイプですね」
「なるほど、肉と甘いもの……体育会系らしい良い好みだ」
アランがサラサラとペンを走らせる。
「次に贈り物ですが……彼女は『綺麗なもの』よりも『可愛いもの』を好む傾向があります。ただ過度に派手なものや、フリフリでピンク色全開のようなものは苦手なので避けた方が無難です」
「過度なフリフリはNG、と……」
「花を贈るなら見栄を張った大輪の薔薇の花束などよりも、もっと小振りで清楚な野花のようなアレンジメントが喜ばれます。それと高価な宝石をいきなり贈るよりは、心のこもった手作り品や実用的な小物の方が彼女の心には響くはずですよ」
マリエルは同室で過ごす中で観察してきたセリアの好みを、次々と挙げていく。
「……素晴らしい。さすがは一番の友人だ。とても参考になるね」
アランは手帳にびっしりと書き込まれたメモを見つめ、満足げに頷いた。
「あと、一つだけ忠告しておきます」
マリエルは少しだけ凄みを利かせて釘を刺す。
「私がいる時は、なるべく二人の空気が良くなるようにフォローしますけど……もしあなたが調子に乗って行き過ぎた真似をしたり、セリアを悲しませるようなことをしたらフォローしきれませんよ」
「わ、わかってる! 彼女を泣かせるような真似は絶対にしないと誓う!」
アランは姿勢を正し、力強く宣言した。
その瞳に嘘がないことを見届け、マリエルは小さく頷く。
「ありがとう、マリエルちゃん! この情報をもとに頑張ってみるよ!」
アランは手帳を大切そうに懐にしまい、嬉しそうな足取りで空き教室を出て行った。
その後ろ姿を見送りながら、マリエルはふう、と息を吐き出して窓の外を見る。
すっかり日は落ち、空は紫から深い群青へと変わりつつあった。
(最近、魔王のことや神界への復讐のことばかり考えて、少し思考が凝り固まっていたかな……)
魔王の遺したあの呪詛の言葉に囚われすぎて目の前にある下界の穏やかな日常や、友人たちの他愛のない幸せの形から目を背けそうになっていたのかもしれない。
時にはこうやって誰かの恋の応援をするような、平和な時間も悪くない。
少しだけ心が軽くなったのを感じながらマリエルも空き教室を出て、寮へと続く廊下を歩き始める。
その時。
「マリエル嬢?」
後方から、不意に声を掛けられた。
振り返ると、そこには銀糸の刺繍の制服を着た見慣れた少年の姿がある。
「ルカ君。こんなところで何を?」
マリエルが不思議そうに尋ねる。
ここは普段、生徒があまり寄り付かない廊下だ。
ルカのような優等生がウロウロしている場所ではない。
「……いや、少し探し物があってな」
ルカはそう答えながらアランが先ほど去っていった方向をチラリと見て、その端正な顔を微かに、しかし明らかに悔しそうに歪めた。
「君は、さっきまでアランと……いや」
ルカは言葉を飲み込み、何かを耐えるように拳を握りしめる。
「……なんでもない。引き留めてすまなかった。失礼する」
彼はそれだけを言い残すと、足早にマリエルの横を通り過ぎ、どこか不機嫌そうな背中を見せて去っていってしまった。
「……?」
マリエルは残された廊下でポツンと首を傾げる。
普段の冷静な彼らしくない感情的な態度。
アランと自分が誰もいない空き教室でセリアについて二人きりで密会していた。
その状況を見て彼は明らかに動揺し、そして悔しそうにしていた。
なぜ、ルカがアランとの密会を気にするのか。
マリエルは神界仕込みのズレた論理的思考をフル回転させる。
(アランさんはセリアのことが好きだ。そしてルカ君は私とアランさんが一緒にいたのを見て、ひどく悔しそうにしていた……。ということは)
マリエルの脳内で一つの完璧な推論が導き出される。
「ひょっとしてルカ君も、セリアのことを……」
あり得る話だとマリエルは深く頷いた。
だって、あんなに可愛くて、明るくて、一生懸命なセリアなのだ。
最近は三人で行動することが増えていた。
その過程でルカが彼女の魅力に惹かれるのも無理はない。
むしろ当然の帰結だ。
アランもルカも、セリアのことが好き。
だからルカは恋のライバルであるアランが、セリアの親友である自分を空き教室に呼び出し、外堀を埋めようとしている姿に焦りと悔しさを露わにしたのだ。
(……なるほど。そういうことか)
完全に点と点が繋がり、マリエルは一人で勝手に納得する。
だが、その結論に辿り着いた瞬間。
なぜか彼女の胸の奥が、チクリと今まで感じたことのないような小さな痛みでざわついた。
ルカがセリアを好き。
それは友人の幸せを喜ぶべきことのはずなのに。
図書館で真剣に魔法を語り合ったあの時間が、少しだけ遠のいてしまうような得体の知れない寂しさ。
(……うん、仕方ない仕方ない。相手はあのセリアだもの。魅力的なのは当然だよね。二人とも恋のライバルとして頑張れ)
マリエルは胸のざわつきを無理やり蓋をするように、小さく首を振って歩き出す。
自分の感情の正体にも、ルカの本当の気持ちにも一切気づかないまま。
彼女はそんな盛大な勘違いを抱きかかえて、夕闇に染まる平民寮へと急ぐのであった――。
マリエルとセリアはお互いに「女の魅力で勝てる気がしない」と思っています。




