水精姫とクラブ新設
大教会の外部見学を終えてからというもの、マリエルの日常には常に薄暗い靄のような思考が付き纏うようになっていた。
学園の廊下を歩いている時も、図書室で羊皮紙をめくっている時も、ふとした瞬間に彼女の脳裏をよぎるのは、あの冷たく湿った地下空間の記憶だ。
厳重な結界に守られ、聖水に囲まれた台座の上に安置されていた150年前の魔王が遺したとされる手記。
掠れ、劣化し、下界の人間には解読不能な謎の記号と化していたその文字列はマリエルの目には明確な意味を持つ『神界文字』として映っていた。
そして、その末尾に血を吐くような呪詛と共に刻まれていた一つの名前。
『フーラース』。
神界において混ざりものと蔑まれていたマリエルを唯一気遣い、庇護しようとしてくれた心優しき老神人長。
その彼の名が、なぜ下界に厄災をもたらした魔王の怨念の対象となっているのか。
魔王とは一体何者なのか。
神界とどのような繋がりがあるというのか。
(ただの偶然の一致……なんて、考えられない)
マリエルはあの日、大教会の奥から戻る道すがらオーフェン司祭にさりげなく魔王の正体や手記の詳細について尋ねてみた。
だが、返ってきたのは彼女の探求を阻む厚い壁のような言葉。
『魔王に関する詳細な情報は大教会のさらに奥深く、教皇猊下が直接管理しておられます。我々一介の司祭階級では、その真実に触れることはできませんね』
温厚な司祭の言葉は、それ以上の詮索を遠回しに拒絶しているようでもあった。
(教皇に直接会って、話を聞き出さないとダメだな……)
教会の一般公開されている書庫をどれだけ漁っても魔王の核心に迫る記述は存在しなかった。
手掛かりは教皇が秘匿している情報源しかない。
だが、いくら学園のトップである『五天星』の特権を振りかざしたところで、一国の王にも匹敵する宗教的権威を持つ教皇に、一介の学生が「魔王の資料を見せてくれ」と面会を要求することなど不可能だ。
大義名分が足りない。
どうすれば怪しまれることなく教会の最深部へ、そして教皇へと近づけるのか。
その問いの答えが出ないまま、マリエルの思考は迷宮を彷徨い続けていた。
「マリエル嬢。……マリエル嬢」
低く落ち着いた声がマリエルの鼓膜を揺らす。
ハッと顔を上げると、そこはいつもの平民用食堂の窓際の席だった。
目の前には、半分ほど手つかずになったまま冷めかけている香草焼きのプレートと心配そうにこちらを覗き込むルカの端正な顔がある。
マリエルは思考の深い海から一気に浮上し、慌てて瞬きを繰り返した。
「……あ、ごめんなさい。私、ぼーっとしてた?」
「大丈夫? 気分悪い?」
隣に座るセリアがフォークを置いてマリエルの額にそっと手を伸ばしてくる。
その手は温かく、マリエルは少しだけ申し訳ない気持ちになった。
「ううん。熱とかじゃないよ。ただ、ちょっと考え事をしてただけ」
現在は昼休み。
すでにピークを過ぎた食堂は適度な喧騒と食器の触れ合う音が入り混じる、のんびりとしたティータイムの空気に包まれていた。
マリエルは冷めかけた紅茶を一口啜り、無理に口角を上げてみせる。
「そう? 外部見学が終わってから、マリエル、なんだか考えこむことが多くなったよねえ。難しい魔法の理論でも頭の中でこねくり回してるの?」
セリアは首を傾げながら、自分のデザートであるフルーツタルトにナイフを入れる。
その何気ない言葉にルカの漆黒の瞳が微かに揺れた。
(大教会の地下で、あの読めない手記を見た時からだ……。マリエル嬢が時折見せる、あの昏い目と何か関係しているのか……?)
ルカの鋭い観察眼は、マリエルの変化を正確に捉えていた。
あの凄まじい呪詛を放つ結界の前で彼女は確かに何かを見て、何かに気づいたのだ。
だがルカはその核心に触れるような野暮な真似はしない。
もしそれが彼女が抱える深い傷や、他人に触れられたくない過去に直結するものであれば。
一番仲の良いはずのセリアにすら話していない重い事情を自分が無理に聞き出すのは彼女の負担になるだけだと慮ってのことだ。
ルカは手元のコーヒーカップをソーサーに置き、ふと空気を変えるように自然なトーンで話題を切り替えた。
「外部見学といえば、セリア嬢はどこに行っていたんだ? 先日聞きそびれていたが」
その問いにセリアはフルーツタルトを頬張る手を止め、得意げに胸を張った。
「王城騎士団だよ」
「……騎士団? 魔術師団ではなく?」
ルカは思わず眉をひそめる。
魔法学園の生徒、それも魔力の制御を学ぶために通っている者が剣と槍の専門家集団である騎士団の門を叩くというのは、いささか異例だ。
「うん、騎士団。私って魔法の適性が『身体能力強化』だからさ。魔力の使い方自体はマリエルに教えてもらってだいぶ良くなったんだけど、強化された身体をどう動かせば一番効率的に相手を殴れるか、っていう物理的な戦闘技術が足りないってマリエルに言われてね」
セリアはフォークを握りしめ、軽く拳闘のような動きを見せる。
「だから実戦的な体の動かし方や近接戦闘の立ち回りを学びに、思い切って騎士団の訓練を見学させてもらったの」
魔術師にとって、物理で殴るという発想は最も遠いところにある。
ルカが引きつった笑みを浮かべて尋ねた。
「物凄く予想外というか、君の魔法特性を考えれば逆に一番納得がいくというか。……ちなみに収穫はあったのか?」
セリアの瞳がギラリと猛禽類のような光を放った。
「実に有意義だったね」
声を発した瞬間、彼女の背後から平民の少女とは思えないような重厚な威圧感が漂ってきた。
実に有意義だったらしい。
「そ、そうか……」
ルカは僅かに上体を反らし、冷や汗を流す。
そんな二人のやり取りをぼんやりと聞き流しながら、マリエルの頭の中では、先ほどまでの停滞していた思考が急激な速度で繋がり始めていた。
(……大義名分。教皇に近づき、魔王の情報を引き出すための、誰もが納得する正当な理由……)
ルカとセリア。
この優秀な仲間たち。
そして、魔法学園という研究と研鑽を推奨する環境。
(そうだ。個人で調べるから怪しまれるんだ。学園の公式な活動として、堂々と『研究』を理由にすれば……)
マリエルの視界が開ける。
彼女はカップを置き、真っ直ぐに二人を見つめた。
「ねえ、クラブの新設のことなんだけどさ――」
◆◆◆◆
夕陽が差し込む貴族棟の第一サロン。
五天星の面々が集う優雅なお茶会の席に、マリエルは指定された通りに顔を出していた。
分厚い絨毯、アンティークの家具、そして芳醇な紅茶の香り。
相変わらず居心地が良いのか悪いのかわからない豪華な空間だ。
「『魔王研究会』?」
上座に座る第一位のクリストフがティーカップを持った手を止めて、目を丸くする。
リーズリットが興味深そうに羽扇子を揺らし、ルカは静かに紅茶を啜っていた。
「ええ。この度、学園の承認を得てクラブを新設することとなりました」
マリエルは居住まいを正し、はっきりとした口調で報告する。
「メンバーは今のところ代表の俺とマリエル嬢、そして平民クラスのセリア嬢の三人だな」
ルカが横から補足を入れる。
そう、クラブの代表という面倒な役回りは貴族であり発言力のあるルカに丸投げ――もとい一任したのだ。
「私の個人的な歴史への興味に二人を無理やり付き合わせてしまって、申し訳ないんだけど……」
マリエルが少しだけ申し訳なさそうな顔を作ってルカを見ると、彼は首を横に振った。
「気にするな。俺自身、大教会で過去の記録を見てから興味が出ていたところだしな。闇魔法の負の側面を研究する上でも、魔王という極致の存在を紐解くことは有意義だ。セリア嬢も自分の強化魔法を魔獣や魔王クラスの強敵にどう通用させるか、という想定も悪くないと言っていた」
ルカの言葉にマリエルは内心でホッと息を吐く。
彼らがすんなりと賛同してくれたおかげで、学園へのクラブ設立申請は驚くほどスムーズに通ったのだ。
「なるほど。魔王の研究か」
クリストフは顎に手を当て、感心したように頷く。
「記録に残っているだけでも、過去20回ほどだったか? それなりの数の魔王が歴史上に現れている。それぞれの時代の背景や、彼らが用いたとされる魔法、そして勇者たちの討伐記録……。確かに研究の題材に困ることはないだろうね」
「むしろ、これだけ世界に影響を与えている存在なのに、今までそれを専門に研究するクラブが無かったのが不思議なくらいです」
マリエルが沸いた疑問を口にする。
するとリーズリットが扇子をパチンと閉じ、現実的な視点から解説を加えた。
「ここは魔法学園ですもの。生徒たちは皆、限られた在学期間の中で自分の適性魔法の研鑽や将来の就職に直結する実用的な技術の習得を優先するのが普通だわ」
リーズリットは優雅に足を組み替える。
「魔王なんて、いつ現れるかもわからない不確かな災害よ。そんな歴史のおとぎ話のような存在を研究するより、明日の実技試験でどうやって点数を稼ぐか、あるいは水魔法や炎魔法の出力をどう上げるかを研究する方が圧倒的にメリットが大きいですもの。だから誰も手を出さなかったのよ」
「なるほど……言われてみれば、確かに」
マリエルは納得する。
魔法の探求よりも、生存と競争が優先されるこの学園のシビアな環境では、歴史研究は好事家の道楽と見なされがちなのだ。
「そういうわけですので先輩方。もし実家の書庫や貴族の情報網で魔王に関連した古い書籍や伝承をご存知でしたら、教えていただければ助かります」
マリエルは五天星の特権をフル活用すべく、情報提供を呼びかける。
「わかったよ。私の王家の書庫にもいくつか関連しそうな古い文献があったはずだ。探して後でリストを渡そう」
クリストフは快く承諾し、爽やかな笑顔を向ける。
「学園祭も近いしね。各クラブが日頃の研究成果を発表する大きな舞台だ。新設クラブということで研究期間は短いが、君たちならきっと面白い発表をしてくれると期待している。頑張ってくれ」
「ありがとうございます。精一杯やらせていただきます」
学園祭。
その言葉に、マリエルの頭の中で新たな計画の輪郭がはっきりと形作られていく。
学園祭での研究発表という輝かしい実績があれば、それを手土産に大教会へ赴き、「さらなる学術的探求のため」と称して教皇への面会を求める強力な口実になるかもしれない。
全てがパズルのように組み合わさっていく感覚。
穏やかで有意義な話し合いが続き、やがてお茶会は解散の運びとなった。
「では、また明日」
「お疲れ様でした」
それぞれが席を立ち、サロンの扉へと向かう。
マリエルも立ち上がり、ルカと共に廊下へ出ようとした時。
ふと、彼女の視線が円卓の隅に留まった。
序列第二位の二年生『大地の申し子』アラン・フォーロッド。
前回の顔合わせでは初対面のマリエルに対してあんなに軽薄に絡み、冗談を飛ばして場を騒がせていた彼が。
今日のお茶会の間中、ただの一度も自発的に口を開かず、出された紅茶にも手をつけずに、ずっと腕を組んで俯いていたのだ。
(……おかしい)
マリエルの直感が微かな違和感を告げる。
あの横顔は、いつもの飄々とした遊び人のものではない。
何かひどく重い考え事――あるいは、深い焦燥感に囚われているように見えた。
「……マリエル嬢? どうした」
廊下に出たルカが足を止めて振り返る。
「ううん、なんでもない」
マリエルは首を振り、アランの様子を意識の隅に追いやってルカの後を追う。
一抹の不安を胸に抱きながら、マリエルは夕闇の迫る貴族棟の廊下を歩いていくのであった――。




