水精姫と手記
大教会の奥深く、幾重もの厳重な扉と結界を抜けた先に、その空間は広がっていた。
「こちらが当教会の中枢資料室です」
オーフェン司祭が静かに扉を開け放つと、マリエルの口から感嘆の声が漏れた。
「おおー」
「これはまた、凄い蔵書量だな」
隣に立つルカもまた、目を見張ってその広大な空間を見渡している。
天井まで届く巨大な書架が迷路のように入り組み、そこには古びた羊皮紙の巻物から装丁の施された分厚い魔導書まで、数え切れないほどの書物が隙間なく収められていた。
空気は適度な湿度と温度に保たれ、古書の放つ独特のインクと埃の匂いが静寂の中に漂っている。
魔法学園の大図書室の深部書庫にも引けを取らない、あるいは歴史の長さで言えばそれ以上の知識の宝庫だ。
「魔術書や神学書、歴史書に雑学まで多種多様な書物を所蔵しております」
オーフェン司祭は、まるで自分の子供たちを紹介するかのように誇らしげに書架を見上げる。
「聞けば、ここで調べものをしたいとか。どのような本をお探しですかな。これだけの中から全てを探し出して読むのは大変でしょう。微力ながら、お手伝いさせていただきますよ」
「マリエル嬢、どんな本が良いんだ?」
ルカがマリエルに尋ねる。
彼の目的はマリエルに同行し、あわよくば親交を深めることだ。彼女の調べ物を手伝うことに異論はない。
「ええっと、そうですね……」
マリエルは口元に手を当てて思案する。
(ここで馬鹿正直に『天へ登る手段、あるいは神界への行き方が書かれた本を』なんて言えば、絶対に胡乱な目で見られるよね)
いくら大教会の司祭とはいえ、生きたまま神の国へ行こうとする人間など、正気を疑われても仕方がない。
彼女の目的はあくまで秘密裏に情報を集めることだ。
そこでマリエルは、先ほどの回廊でのオーフェン司祭の言葉を思い出した。
――『勇者は勇敢にも単独で魔王を仕留め、その功績を称えられて天へと昇ったとか』
自分の父である先代勇者は、確かに天へ昇り、神界へと至った。
ならば、長い教会の歴史の中で、過去に同じような奇跡を起こした人物が他にもいたのではないか。
その人物の記録を辿れば、天へ至る何らかの法則や手段が掴めるかもしれない。
「……先ほど、勇者が天に登ったというお話がありましたが、過去の歴史において、他にそのような奇跡を起こした方はいらっしゃいますか?」
マリエルは、あくまで歴史への純粋な興味を装って尋ねた。
「む? そうですな……」
オーフェン司祭は顎の髭を撫でながら、記憶の糸を手繰り寄せる。
「確たる証拠があるわけではありませんが、神話や伝承の類を含めれば、幾人かは天に召されたと記録されている者はいたかと存じます」
「教会の偉人を調べたいのか? ならば、向こうの宗教史や聖人伝の本棚かな」
ルカが自身の持つ知識を頼りに目星をつける。
「はい、それをお願いします」
こうして、二人の協力を得ながら、マリエルは神界への手がかりを求めて書物の海へと潜ることになった。
◆◆◆◆
それから数時間が経過した。
中枢資料室の閲覧テーブルには、うず高く積まれた古書や羊皮紙の山ができあがっていた。
「……」
マリエルは微動だにせず、目の前の分厚い歴史書に食い入るように目を落としている。
その横顔は真剣そのもので、周囲の音など一切耳に入っていないかのようだ。
そんな彼女の様子を向かいの席から眺めながら、ルカは誰にも聞こえないように、こっそりと深いため息を吐き出した。
(セリア嬢……。教会なら静謐な雰囲気の中で良い雰囲気になるかもしれないと言っていたが、全然そんな空気にならないぞ……)
ルカの脳裏には、数日前に平民用食堂でセリアから吹き込まれた言葉が繰り返されていた。
『教会ってなんか意味深なシチュエーションだし? こう静謐な雰囲気の中で良い感じに……』
確かに雰囲気は静謐だ。静謐すぎるほどに。
だが、目の前の少女は色恋の駆け引きなど微塵も意識しておらず、ただひたすらに活字の海を泳ぎ続けている。
声をかける隙すら与えないほどの凄まじい集中力だ。
ルカは頬杖をつき、無意識のうちにマリエルの顔をじっと観察してしまっていた。
(こうやって改めて見ると、本当に美しい顔立ちをしているな……)
普段は冷徹な『闇の貴公子』として他者を寄せ付けず、女性にも全く興味を持たなかった彼だが、セリアの言葉を意識してしまったせいか、どうしても彼女の容姿が気になってしまう。
色素の薄い柔らかな銀髪がランプの光を受けて絹糸のように輝いている。
伏せられた長い睫毛、形の良い鼻筋、そして真剣に文字を追う少しだけ開いた桜色の唇。
小柄で可愛らしい外見でありながら、五天星を圧倒する強大な魔力と自分以上の魔法知識を併せ持つ天才。
普段は少しダウナーで感情が読みにくいが、平民用食堂で食事をしている時は人が変わったように無防備で幸せそうな笑顔を見せる。
そのギャップがたまらなく愛おしい。
そして、セリアの余計な一言がルカの理性を激しく揺さぶる。
『ついでに言うと、おっぱいも大きいです。普段の制服だと小柄だからわかりにくいけど意外とトランジスタグラマーなんだよ。一緒にお風呂入って実際に直で見てるから間違いない』
ルカの視線が無意識にマリエルの胸元へと――。
(やめやめ! そのような不埒な感情は、真剣に学問に向き合っているマリエル嬢に対して失礼極まりない!)
ルカはカッと熱くなった顔を両手で覆い、ブンブンと頭を振って邪念を強制終了させた。
自分は由緒正しきレグナス魔法伯家の次期当主である。
図書館という神聖な場で、何というはしたない妄想をしているのか。
ルカは無理やり思考を切り替えるため、自身の手元にある資料へと視線を戻した。
(それにしても彼女は教会の偉人を調べて、一体何をしたいのだろう。何か特別な目的でもあるのか?)
彼が今読んでいるのは、オーフェン司祭が用意してくれた『歴代聖人伝』と『勇者討伐録』のまとめ資料だ。
教会という場所柄、どうしても「勇者」や「聖女」と呼ばれる人物の記録が多くなる。
(勇者か……。確か、魔王を倒した英雄がそう呼ばれるんだったな。これまでの歴史上、魔王が現れた回数は20回を超えている、か……ん?)
ルカは資料の年表を指でなぞりながら、ふと奇妙な違和感に気付いた。
そして、少し離れた本棚で蔵書の整理をしていたオーフェン司祭に声をかける。
「オーフェン司祭。少々よろしいですか」
「はい、何でしょう、ルカ様」
司祭が穏やかな足取りで近づいてくる。
「この記録を読んでいて気になったのですが……魔王というのは、何故討伐しても、時代を経て何度も繰り返し現れるのですか?」
魔王と呼ばれる存在が、単一の種族なのか、あるいは何らかの役職なのかは定かではない。
だが、歴史上何度も現れては勇者に倒されている。
これほど強力な存在が、なぜ湧いて出るのか。
「原因不明ですね」
オーフェン司祭は困ったように首を横に振った。
「教会の長年の研究課題でもありますが、発生のメカニズムは全くわかっておりません。発生源と思われる地域の地脈を調べても魔力的な異常はなく、ある時など、何の前触れもなく突如として街中に現れたことすらあるようですよ」
「ふうむ……。魔王が現れる法則性や、発生条件のようなものはないと?」
「私は聞いたことがありませんなあ。時期も数十年から数百年とまちまちですし、現れる場所も大陸の端から中心まで規則性がありません」
オーフェン司祭は少し考え込み、やがて何かを思い出したようにぽんと手を打った。
「ああ、ただ……すべての魔王に共通している特徴といえば、彼らは全て『人型』の姿をしており、そして凄まじい『呪詛』を放っているそうです」
「呪詛?」
ルカが眉をひそめる。
「ええ。彼らが纏う魔力そのものが、どす黒い呪詛となっており、相対した者、あるいは触れた者を瞬時に死に追いやるほどの猛毒だと記録されています」
その言葉にルカの背筋に冷たいものが走った。
呪詛。
それは闇魔法の中でも最も禁忌とされる、負の感情を魔力に変換して相手を蝕む技術。
それが常時垂れ流されている存在など、歩く災害以外の何物でもない。
「当教会には150年前に現れた最後の魔王の遺した『書』とされるものが、厳重に封印されておりましてな」
オーフェン司祭の声が、一段と低くなる。
「その書自体が強力な呪詛を放っており、手に取っただけで呪いを受けるため、地下の特別庫に隔離しているのですが」
ピタリ、と。
それまで本の世界に没頭していたマリエルの手が止まった。
彼女はゆっくりと顔を上げ、オーフェン司祭の方を向いた。
「……その書って、読むことはできますか?」
静かな、だが確かな意志の込められた声。
その問いに、司祭は少しだけ難色を示した。
「封印は接触を防ぐための結界型ですから、少し離れた場所から眺める程度なら不可能ではありませんが……しかし、長い年月のせいで文字の劣化が激しく、ロクに読めませんよ? おまけに、使われている文字も見たことのない奇妙な象形文字のようなものでして、歴代の教皇や学者でも解読できなかった代物です」
「構いません。お願いします」
マリエルは席を立ち、真っ直ぐな瞳で司祭を見据えた。
その有無を言わせぬ気迫に押され、オーフェン司祭は「……わかりました。では、こちらへ」と頷き、二人の若き魔術師を地下への階段へと案内した。
◆◆◆◆
大教会の地下深く。
一般の信徒はもちろん、下位の聖職者でさえ立ち入ることを許されない、冷たく湿った石造りの空間。
その最奥にある、幾重にも重厚な鎖と護符で封印された鉄扉の前に、三人は立っていた。
「くれぐれも、結界の線から内側へは近づきすぎないように。大変危険ですからね」
オーフェン司祭が手にした鍵束から最も大きく古い鍵を選び出しながら、厳重に注意を促す。
「はい、わかっています」
マリエルが頷くのを確認し、司祭は重い音を立てて扉を開いた。
ギィィィィ……。
扉が開かれた瞬間。
ルカは思わず顔をしかめ、一歩後ずさった。
「うっ……結界越しでこれか……」
部屋の中から漏れ出してくるのは、空気が重く粘り気を帯びているかのような、圧倒的なプレッシャー。
ただそこに立っているだけで、肌がピリピリと痛み、息苦しさを覚えるほどの濃密な「呪詛」の気配。
部屋の中央には堀のように聖水で満たされた円形の溝があり、その中心の台座の上に厳重な透明の魔力結界に覆われて、一つの紙束のようなものが置かれていた。
本、というよりは何枚かの羊皮紙を綴じただけの簡素な手記のように見える。
マリエルは司祭の忠告を守り、結界の境界線ギリギリの位置に立ち、ガラス越しにその紙束を覗き込んだ。
ルカも隣に立ち、目を凝らす。
「なるほど、これは読めないな。紙の劣化も激しいが、何よりこの文字の形……見たことがない法則性だ」
ルカは魔法学者としての知識を総動員して解読を試みるが、すぐに諦めて首を横に振った。
まるで幾何学模様を無作為に並べたような、既存のどの言語体系にも当てはまらない文字列。
「これでは何の収穫もない。マリエル嬢、戻ろう」
ルカが声をかけるが、マリエルからの返事はない。
「……マリエル嬢?」
不思議に思って隣を見るとマリエルは目を見開き、信じられないものを見るような顔で、その紙束に釘付けになっていた。
彼女の顔からは血の気が引き、肩が小刻みに震えている。
「バカな……」
マリエルの口から、震える声が漏れた。
ルカにとっては見たこともない未知の言語。
だが、マリエルにとっては違った。
その文字は彼女が幼い頃から読み書きし、この下界の魔法学園でも当然のように使われていると思っていたが、実は全く別の言語体系だったと気付かされたもの。
――『神界文字』だ。
この下界の人間である魔王が、なぜ神界の文字で手記を残しているのか。
いや、そもそも魔王とは何者なのか。
マリエルは結界越しに、劣化して掠れた神界文字を必死に目で追う。
文章の大半は削れ、意味を成していなかった。
だが一番最後の行。
まるで、恨みを込めて血で書き殴ったかのような、その一文だけが、奇跡的に読み取れる状態で残っていた。
マリエルの瞳孔が、極限まで収縮する。
「……なんで、その名前が」
彼女の震える唇が、その神界文字が示す『意味』を、無意識のうちに音読していた。
『フーラース』
マリエルにとって神界での唯一の理解者であり、優しかったあの老神人の名前が。
150年前の魔王の遺した呪詛に満ちた手記の最後に、明確な怨念と共に刻み込まれていたのだった――。
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