水精姫と信仰
大教会の重厚な扉を潜り抜けると、そこには外の喧騒が嘘のような、水を打った静寂が広がっていた。
石造りの冷たい空気が肌を撫でる。
だが、その静けさは決して冷酷なものではない。
天窓から、そして壁一面を覆う巨大なステンドグラスから差し込む光が、堂内を優しく、そして神々しく彩っていたからだ。
赤、青、緑、金。
色とりどりのガラスの欠片を繋ぎ合わせて描かれた、創世の神話や天使たちの姿。
そこに太陽の光が透過し、磨き上げられた大理石の床に万華鏡のような光の絨毯を敷き詰めている。
マリエルは立ち止まり、その光のシャワーを見上げて息を呑む。
「美しい……」
思わず口から漏れた感嘆の言葉に、隣に立つルカが静かに同意する。
「ああ。これだけの規模のステンドグラスを、魔力を使わずに人間の手と技術だけで組み上げる……。その途方もない時間と情熱には敬意を抱かざるを得ないな」
二人が光の芸術に心を奪われていると、祭壇の奥から、ゆったりとした足音を響かせて一人の人物が歩み寄ってきた。
白を基調とし、金の刺繍が施された神官服を身に纏う初老の男性。
目尻には深い皺が刻まれているが、その瞳は澄み切った湖のように穏やかで、慈愛に満ちている。
「ようこそいらっしゃいました。遠路はるばる、この大教会へ」
男性は二人の前で立ち止まり、胸の前で両手を交差させて、柔らかな微笑みを浮かべた。
「私は、この大教会で司祭を務めております、オーフェンと申します。本日は学園の外部見学ということで、お二人をご案内するよう仰せつかっております」
「魔法学園一年のマリエルと申します。本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございます」
マリエルは居住まいを正し、丁寧に頭を下げる。
隣のルカも背筋を伸ばして一礼した。
「同じく一年のルカ・レグナスです。本日はよろしくお願いいたします」
「ご丁寧な挨拶、恐縮です。五天星という栄誉ある称号をお持ちの、学園の誇る若き俊英の方々に足を運んでいただき、教会としても大変喜ばしく思っておりますよ」
オーフェン司祭は二人の腕に光る五天星の腕章に目を留め、優しく頷いた。
そして、ステンドグラスから差し込む光の筋を手で示す。
「では、そうですね。こちらの礼拝堂はもう十分にご覧いただきましたでしょうし奥の区画へとご案内しましょうか。歴史の記録や神聖魔術に関する古い文献なども保管されておりますゆえ」
「はい、お願いいたします」
マリエルの胸が期待に小さく高鳴る。
奥の区画。
そこにこそ神界へのアクセス方法や、隠された神々の記録が眠っているはずだ。
オーフェン司祭の先導で二人は礼拝堂の横にある、アーチ状の入り口を抜けて奥へと続く回廊を歩き始めた。
回廊は少し薄暗く、壁には一定の間隔で魔力灯が灯されている。
壁面には古い時代の聖人たちのレリーフや、教会の歴史を描いたタペストリーが掛けられており、歩を進めるごとに過去の時代へと遡っていくような感覚を覚えた。
「教会組織の起こりは今から3000年以上前と伺っております」
オーフェン司祭が回廊に響く足音に重ねるように、ゆっくりと語り始める。
「遥か昔、世界が闇に包まれかけた時代……『最初の魔王』と呼ばれる強大な存在が現れました。その魔王を倒すべく立ち上がった勇者一行を守護し、奇跡の力で導いた神がおりました」
司祭は立ち止まり、壁に掛けられた一枚の古いタペストリーを見上げる。
そこには、光に包まれた神の姿と、それに傅く人々の姿が織り込まれていた。
マリエルは、そのタペストリーに描かれた神の姿をじっと見つめる。
神界の神人の姿とは微妙に異なるが、人々が想像する「上位存在」の象徴としては、当たらずとも遠からずといったところだ。
「かの御方を崇め、その教えと奇跡の力を後世に伝えるべく発足した組織――それが現在の我々、教会組織の始まりです」
司祭は再び歩き出し、二人もそれに続く。
「以来、この世界に定期的に出現する魔王や、それに類する巨大な災厄に対抗すべく、勇者選定の伝承や魔王の脅威に関する情報を受け継ぎ、神聖魔術や遺物を管理する組織となっております」
「確か記録上で確認されている最後の魔王の出現は、およそ150年前でしたか」
ルカが自身の持つ歴史の知識を披露する。
「ええ、その通りです。ルカ様はよく学んでおられる」
オーフェン司祭は少しだけ表情を曇らせ、重い溜息を吐いた。
「しかし嘆かわしいことに……当時の教会は、長い平和の中で権力と私欲に溺れ、腐敗しておりましてな。魔王の出現という国難において、本来なら全力を挙げて支援すべきであった当時の勇者を十分に支援できませなんだ」
司祭の言葉には過去の教会の過ちに対する、深い悔恨と恥辱があった。
「権力闘争に明け暮れ、勇者の出身や身分を理由に支援を渋り、あまつさえ勇者を利用して己の利益を得ようとする者までいた始末。……恥ずべき歴史です」
「……」
マリエルは無言で耳を傾ける。
神界の連中と、何ら変わらない。
長い時間と権力は上位に立つ者を例外なく腐敗させるのだ。
「ですが、その勇者は勇敢にも教会の支援を待たずして、ほぼ単独で魔王を仕留めてみせたのです。そして、その絶大なる功績と高潔な魂を称えられ、彼は人間でありながら神の御手によって天へと昇ったとか……」
オーフェン司祭は、遠い空を仰ぐように視線を上げる。
「まあ、それが本当かはわかりませんがね。魔王との凄絶な戦いの末、相打ちになってその身を散らしただけだという説もあります。遺体は見つからなかったそうですから」
(お父さんだ)
マリエルは内心でハッとした。
150年前に魔王を倒し、天へと上がった人間。
それは間違いなく自分の父親のことだ。
相打ちでも死んだわけでもない。
本当に生きながらにして神界へ招き入れられたのだ。
そして母と出会い、自分が生まれた。
ルカが静かに先を促す。
「その後、教会はどうなったのですか?」
「魔王討伐後、勇者を支援できず、あまつさえその足を引っ張った教会に対し王家と民衆の怒りが爆発しました。『国難において勇者を助けられない組織に存続の価値無し』とされ、王命によって大規模な粛清が行われたのです」
司祭は、まるで昨日起こった出来事のように痛ましげに語る。
「当然の報いですな。多くの高位聖職者が地位を追われ、教会の財産は国に没収されました。それ以来、教会は政治的な権力を失い、衰退の一途を辿り……現在のような細々とした勢力となったわけです」
オーフェン司祭は足を止め、二人を振り返った。
その顔には悲壮感ではなく、どこか清々しい穏やかな笑みが浮かんでいた。
「神の教えを忘れ、神を信じずに己の欲ばかりを追求したばかりに権力を失った。ですが……その結果として今の教会には、権力や金銭目的ではなく神を純粋に信仰している者のみが残って集っている。皮肉なものですなあ」
何もかもを失ったからこそ、本来あるべき信仰の姿を取り戻せた。
その事実は司祭にとって誇りでもあるのだろう。
オーフェン司祭は探るような、しかし優しい眼差しでルカとマリエルを交互に見つめた。
「お二人は神の実在を、信じますか?」
その、あまりにも根源的でストレートな問い。
魔術師という世界の法則を理論で解き明かそうとする者たちにとって「神」という不確かな存在はどう捉えられているのか。
マリエルは少しだけ視線を伏せ、言葉を選んで答えた。
「神……かどうかはわからないですが」
彼女の脳裏に浮かぶのは、あの冷酷で傲慢な、自分から全てを奪った神人たちの姿だ。
あれを「神」と呼ぶことには強烈な嫌悪感が伴う。
だが、存在を否定することはできない。
「天空の遥か彼方に、世界を管理する『天に座する者』は確かにいるかと」
「ほう。マリエル様は存在を肯定されるのですね」
司祭は興味深そうに頷く。
「ルカ様は、いかがですか?」
「正直わかりません」
ルカは腕を組み、極めて論理的な魔術師らしい見解を述べる。
「魔法の源となる魔力や、世界を構成する法則が存在することは事実です。ですが、それが人格を持った神によって創り出され、管理されているのか。それとも自然発生的な理なのか。それを証明する明確な証拠が現在の魔術理論には存在しないからです」
「なるほど。理を重んじる魔術師らしい誠実な回答ですね」
司祭はルカの答えを否定することなく、静かに受け入れた。
「司祭様は……」
今度はマリエルから問いかけた。
彼女の瞳が、司祭の穏やかな顔を真っ直ぐに見据える。
「司祭様は、本当に神はいると思っているんですか?」
自分たちを見捨て、見下し、気まぐれに世界をいじるだけの、あの傲慢な連中の存在を。
こんなにも純粋な信仰を持つ彼らが、本当に望んでいるのだろうか。
オーフェン司祭はマリエルの問いに対し、少しも迷うことなく穏やかに微笑んで答えた。
「おられると、信じています。……ですが」
司祭の言葉が予想外の方向へ着地する。
「おられなくとも何の問題もないかと」
「え?」
マリエルは思わず間の抜けた声を漏らした。
隣のルカも意外な言葉に少しだけ目を丸くしている。
教会の人間が「神がいなくても問題ない」と断言したのだ。
それは信仰の根底を覆すような発言ではないのか。
「信仰とは、神という『存在の証明』ではなく自分自身の『心持ち』ですからな。実在するかどうかは実はそれほど重要ではないのです」
オーフェン司祭は自身の胸に手を当て、静かに力強く語り始める。
「祈りとは神に願いを届け、見返りとして奇跡を起こしてもらうための取引ではありません。日々祈ることで自らの行いを省み、心を正し、自身を律するためのものなのです」
その言葉は静かな回廊に深く沁み渡る。
「信仰とは道徳であり、生き方です。見返りを求めてはいけない。誰かが見ているから善行を成すのではなく、神という絶対的な善の概念を心に抱き、自らがそれに恥じないように生きる。それが今の教会の教えなのです」
マリエルは言葉を失っていた。
神は彼らにとって「すがる対象」ではないのだ。
自分を律するための「鏡」であり、より良く生きるための「道標」に過ぎない。
「もし本当に神が実在して、我々の前に姿を現されたのであれば、私は神にこう言いたい」
オーフェン司祭は少しだけ悪戯っぽく、しかし誇り高く胸を張った。
『――神よ。もう人間は自分たちの足で歩けます。ご安心ください』
その言葉は決別ではなく、成長の証明。
親離れする子供が親に向かって自立を宣言するような、清々しい響き。
「……とね。ははは、老いぼれの戯言にしては少々青臭かったでしょうか」
司祭は照れくさそうに笑い、再び歩き出そうとする。
だが、マリエルの足は、その場から動けなかった。
彼女の脳裏に、かつて神界で自分を気にかけてくれたフーラース神人長と交わした言葉が鮮明に蘇ってくる。
『……そうですね。特に最近は、下界でも神人の実在を疑う動きも出てきていると聞きますし』
神界では人間たちが神への信仰を失い、堕落していると嘆いていた。
神人たちが下界に干渉しなくなったから、人間たちは神を忘れたのだと。
(――ああ、そうか)
マリエルは全てを理解した。
(神人が姿を見せなくなったから人間から信仰が離れたんじゃない。神人が自分たちを上位存在だと勘違いして、雲の上で人間を見下してふんぞり返っている間に)
人間たちは様々な苦難を乗り越え、自分たちの力で社会を築き、魔法技術を発展させ、道徳を育んできたのだ。
(人間は、とっくに成長して自立し、神人の手を離れ始めていたんだ)
それに気づかず「我々が管理してやらねば下界は滅ぶ」などと本気で信じ込み、自分たちの特権意識にしがみついている神人たち。
(――なんて、滑稽)
人間に、もはや神人の庇護など必要ない。
それなのに神人はその事実を認めようとせず、人間に対して傲慢に振舞い、自分と人間の間に生まれた子供を「混ざりもの」と呼んで迫害している。
それがどれほど幼稚で、愚かで、取り残された存在であることか。
マリエルは隣を歩くルカを、そして前を歩くオーフェン司祭の背中を見つめた。
魔法の真理を追い求め、未来を切り拓こうとするルカ。
神にすがることなく、自らの倫理観で正しく生きようとする司祭。
彼ら人間の在り方は、あの白亜の神界に閉じこもっている連中よりも遥かに強く、美しく、そして眩しい。
マリエルは自分の内に燻っていた復讐の炎の形が、少しだけ変わっていくのを感じた。
ただ憎しみをぶつけるだけじゃない。
あの滑稽で愚かな連中の目を覚まさせ、現実を突きつけてやるための戦い。
(……見せてやる。あなたたちが見下している下界が、どれほど眩しいかを)
ステンドグラスの光を浴びながらマリエルは静かに、深く息を吸い込む。
神界への道を探るという目的は変わらない。
だが、その足取りは、先ほどよりもずっと確かな力強さを帯びていた。
そして三人は回廊のさらに奥、大教会の中枢資料室へと足を踏み入れていくのであった――。
狂信者とかは書きやすいのであちこちで見かけますが、穏当な宗教感を持っている普通の信仰者は珍しいので書いてみたかった。




