水精姫と友達の定義
貴族棟の奥深くに位置する第一図書館。
高い天井まで届く書架に囲まれた閲覧スペースには、古い羊皮紙とインクの匂いが静かに漂っている。
窓から差し込む午後の柔らかな光が、分厚い魔導書が積み上げられたテーブルを淡く照らし出していた。
静寂の中、カリカリと羽ペンが羊皮紙を走る音だけが小気味よく響いている。
『闇の貴公子』ことルカ・レグナスは、眉間に深い皺を刻みながら複雑な魔法陣の構築に没頭していた。
「……ここまでは良い。だが、空間を固定するための術式構造はBタイプを補助に使えばいいだろうか……?」
ルカがペンを止め、正面に座る少女に意見を求める。
彼が構築しようとしているのは、先日マリエルから教わった「闇属性の魔力の中に収納空間を作る」という、下界の常識を覆す画期的な魔法の術式だ。
「うーん。空間の容量を維持しつつ、出し入れの際の魔力抵抗を減らすなら、闇属性の固定にはペルス式補助術を噛ませた方が安定すると思うよ」
マリエルはルカの描いた陣形を指先でなぞりながら、的確なアドバイスを返す。
「ペルス式か……。確かに、あれなら魔力の循環が滞らない。よし、組み込んでみよう」
ルカの顔にパッと明るい光が差し、再びペンが勢いよく走り始める。
その横顔には未知の知識を吸収する喜びがあった。
マリエルはそんな彼を眺めながら内心で小さく息を吐き出す。
神界の高度な知識を持つマリエルにとって、ルカが今苦労して組み上げている「収納空間」の魔法など、かつての自分であれば呼吸をするのと同じくらい簡単に発動できる代物だ。
だが、それを他者に教える、あるいは新たな術式として構築するとなると、話は全く別次元の難しさになる。
何故なら、マリエルの頭の中にある術式は神界において数万年の歴史を経て極限まで洗練されきった、完成された理論だからだ。
その神界の術式をそのままルカに与えれば、確かに魔法は一瞬で完成するだろう。
しかし、それは絶対にしてはならない禁忌であるとマリエルは理解している。
下界には存在しない、過程を全てすっ飛ばした洗練されすぎた術式をポンといきなり世に出現させる。
それは魔法文明そのものを破壊する行為に等しい。
基礎理論の積み重ねを無視したオーバーテクノロジーの流入は、それまでの研究者たちの努力を無に帰し、魔法の体系を一気に廃れさせ、大混乱を招くことになる。
文明とは先人たちが一段一段、階段のように積み上げていくからこそ価値があり、安定するのだ。
ゆえにマリエルは神界の完成された術式を一度頭の中で分解し、それを「下界に現存する古い技術と理論」という粗削りなパーツだけを使って、一からパズルのように再構築しなければならない。
それは例えるなら最新鋭の魔道具の構造を理解した上で、それを木と鉄と歯車だけを使って再現しようとするような途方もなくもどかしい作業だ。
目指すべきゴールがはっきりと見えている分、方向性に迷うことはない。
だが、使用できる手札が限られているがゆえに、難易度は依然として極めて高かった。
ルカが「天才」と呼ばれるほどの理解力と応用力を持っているからこそ、なんとか形になりつつあるのだ。
(とはいえ、少し疲れたな……)
根を詰めた作業にマリエルはそっと肩を回す。
ふと、彼女の脳裏に以前からずっと抱え込んでいる「ある重大な懸案事項」が浮かび上がった。
魔法の数式よりも遥かに複雑で、神界の知識を総動員しても全く解の見えない難問。
マリエルはペンを置き、正面で熱心に羊皮紙に向かっている少年に声をかけた。
「そういえばルカ君。ひとつ相談があるんだけど」
「なんだろうか」
ルカはペンを走らせたまま、心地よい相槌を打つ。
彼はマリエルに対して、自分の魔法の道筋を大きく広げてくれた多大な恩を感じている。
彼女からの頼みであれば大抵の無茶は聞くつもりでいたし、どんな高度な魔術的課題が提示されるのかと心のどこかで期待すらしていた。
だが、マリエルの口から飛び出した頼みは彼の予想の斜め上、いや遥か宇宙の彼方へと飛び去るような代物だった。
「セリアと友達になるには、どうしたらいいだろう」
「は?」
ピタリ、と。
ルカの手が止まり、ペン先から零れ落ちたインクが羊皮紙の上に黒い染みを作った。
彼はゆっくりと顔を上げ、信じられないものを見るような目でマリエルを見つめる。
対するマリエルは、なぜルカがそんなに驚愕しているのか全く理解できないといった風に小首を傾げて彼を不思議そうに見つめ返していた。
静寂が図書館の片隅を包み込む。
「……すまない。君が何を言っているのか理解できない。もう一度聞いても良いか。俺の聞き間違えかもしれない」
ルカは眉間を揉み解しながら、震える声で確認を求める。
「いや、だから、セリアと友達になるのはどうしたらいいかって話なんだけど……。ルカ君なら、そういう人間関係の構築にも詳しいかと思って」
「聞き間違えじゃなかった……」
ルカは両手で顔を覆い、深いため息を漏らした。
頭痛がしてくる。
あの距離感で。
毎日一緒に食堂でご飯を食べ、休日は一緒に街へ出かけ、同じ部屋で寝起きし、他愛のないことで笑い合い、挙げ句の果てには実技試験で傷ついた彼女のために五天星を完膚なきまでに叩きのめしておきながら。
まだ「友達のつもりはなかった」とでも言うのか、この少女は。
もしセリア嬢が今の言葉を聞いたら、ショックのあまり泣き出すのではないだろうか。
ルカは本気でそう思った。
「……マリエル嬢。君は、セリア嬢と現在どういう関係だと思っているんだ?」
「え? 凄く親切にしてくれる、可愛くて気の良い同室のクラスメイト」
「それが世間一般では『友達』と呼ばれる関係なのだが」
「えっ! 嘘!」
マリエルは目を見開き、両手で口を覆う。
「でも、私、まだ友達申請しようとしてる段階なんだけど。タイミングが掴めなくて、なかなか上手くいかなくて……」
「……友達申請ってなんだ」
ルカの顔がさらに引きつる。
未だかつて聞いたことのない、恐ろしく事務的で無機質な単語が飛び出してきた。
「え、ほら。友達になるなら、まず相手に『友達になってください』って申請して許可を貰わないとダメじゃない? 勝手に友達だなんて思ってたら相手に迷惑がかかるかもしれないし」
マリエルの脳内は神界での階級社会の常識に深く侵されていた。
上位の者に話しかけるには許可が要る。
派閥に入るには誓約が要る。
他者と関わる上で明確な契約や同意の手続きを経ない関係性など、彼女の辞書には存在しなかったのである。
神界はとても堅苦しい世界のようだ。
「どういうことなんだ、それは……」
ルカは頭を抱える。
この天才的な魔法の頭脳を持つ少女は人間関係という一点においてのみ、致命的なまでにポンコツであった。
「いいか、マリエル嬢。よく聞いてくれ。普通、友達になるのに『許可』など必要ないんだ」
ルカはまるで幼子に説明するように、ゆっくりかつはっきりと告げる。
「まさかの無許可友達……!?」
マリエルは雷に打たれたような顔をした。
「え、友達って、そんな勝手に名乗って良いものなの!? 訴えられたりしない!?」
「名乗るという発想がまずおかしい。そもそも裁判沙汰になるわけがないだろう」
ルカ自身、決して友達が多いタイプではない。
貴族としてのしがらみや魔法研究に没頭するあまり、他者との交流を避けてきた節はある。
だが、そんな彼でさえ流石に『友達の定義』くらいは常識として知っている。
「友達というのは申請して許可を得るような契約関係じゃない。相手を『親しい』と思うかどうか、それだけで決まるんだ。君が相手を大切に思い、相手も君といて心地よいと感じる。そうやって自然と距離が縮まり、お互いが『親しい』と思ったら……その瞬間から相手はもう友達なんだよ」
ルカの静かな、しかし確信に満ちた言葉がマリエルの胸の奥にストンと落ちる。
「なんと……!」
マリエルは感銘を受けたように固まった。
目からボロボロと鱗が落ちる音が聞こえそうだ。
許可も、申請書も、誓約の儀式も必要ない。
ただ心を寄せるだけで成立する関係。
下界の人間たちは、なんて温かく、そして自由な繋がりを持っているのだろうか。
「じゃ、じゃあ……セリアは、もう私のことを友達だと思ってくれているのかな……!」
マリエルの瞳が期待と微かな不安に入り混じってキラキラと輝き始める。
「あの距離感で友達だと思っていないことは絶対にないから安心しろ。俺が保証する」
ルカは断言した。
セリアがマリエルに向ける視線や態度は、疑いようもなく親愛の情に満ちている。
「なんなら今日の夜にでも直接聞いてみると良い。……ただし」
ルカはここで非常に重要な、絶対に外してはならない忠告を付け加える。
「今まで友達だと思っていなかった、あるいは友達の手前だと思っていたことは、絶対に言うなよ? 絶対に、だ。セリア嬢が悲しんで泣くぞ」
「わ、わかった。気をつける。……聞いてみる」
マリエルは真剣な顔でコクコクと何度も頷く。
その素直な反応に、ルカは思わず口元を綻ばせた。
(本当に……魔法の知識は底知れないのに、こういうところは不器用で、可愛らしいな)
ルカは咳払いをして表情を引き締め直すと、真っ直ぐにマリエルの目を見つめた。
「それと、だ」
「ん?」
「俺も、マリエル嬢のことを『友達』だと思っている。そこも、しっかりと覚えておいてくれ」
少しだけ耳の端を赤くしながら、しかし逃げずに告げられた言葉。
それは彼なりの不器用な歩み寄りであり、確かな親愛の証。
マリエルは一瞬きょとんとした後、パァッと花が咲くような満面の笑顔を浮かべた。
「――うん!!」
その眩しい笑顔にルカは思わず目を逸らし、再び羊皮紙に向かって慌ててペンを動かし始める。
彼の胸の奥で先ほどまでの魔法理論とは全く違う、制御不能な熱が静かに渦巻いていた。
◆◆◆◆
その日の夜。
平民寮、マリエルとセリアの相部屋。
窓の外には満天の星が輝き、穏やかな夜風がカーテンを微かに揺らしている。
部屋の中では魔力灯の柔らかな光の下、セリアが日課である寝る前のストレッチに励んでいた。
「いーち、にーい、さーん……」
床に広げたマットの上でセリアが柔軟な身体を折り曲げ、筋肉をほぐしていく。
魔法の出力を高めるための、彼女にとって欠かせない重要なルーティンだ。
マリエルは自分のベッドの上に体育座りをして、そのセリアの背中をじっと見つめていた。
心臓が早鐘のように鳴っている。
頭の中で、昼間のルカの言葉が何度もリフレインしていた。
『相手を親しいと思うかどうかで決まる』
『聞いてみると良い』
マリエルは膝を抱える腕にぎゅっと力を込め、意を決して口を開いた。
「……ねえ、セリア」
「んー?」
セリアは開脚したまま上半身を前に倒す姿勢を維持しつつ、首だけをこちらへ向ける。
「そのさ……」
マリエルの声が微かに震える。
神界の理不尽な裁判にかけられた時よりも、ずっと緊張している自分がいる。
「私たち、友達……だよね?」
恐る恐る、確認するように放たれた言葉。
それを聞いたセリアはストレッチの動きをピタリと止めた。
そして、不思議そうな顔をして上体を起こす。
「どったの急に」
「いや、その、ちょっとね。気になって。……それで友達、だよね?」
マリエルは上目遣いでセリアの反応を窺う。
もし「え? ただの同室だけど?」と返されたら、ショックで窓から飛び降りてしまうかもしれない。
だが、セリアの反応はマリエルの不安を木端微塵に吹き飛ばすほど明るく、そして朗らかなものだった。
「当たり前じゃん!」
セリアは心底不思議そうに、しかし満面の笑顔で即答した。
「マリエルは私の最高の友達だよ! なにを今更当たり前のこと聞いてるのさ」
その言葉に偽りはない。
一点の曇りもない、純粋な好意。
「あ……」
マリエルの胸の奥で、つかえていた重い塊がすっと溶けて消えていく感覚があった。
無許可でもよかったのだ。
申請書も、誓約の魔法も必要ない。
ただ互いがそう思っているだけで、この温かい関係は成立する。
マリエルの顔に自然と柔らかい笑顔が広がる。
「……うん、そっか。そうだよね」
「それで、何々? 改まって急にそんなこと言うってことは……さては、秘密の相談?」
セリアがストレッチを中断し、ニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべながらマリエルのベッドへと這い寄ってくる。
「や、そういうんじゃなくて……ただ確認したかっただけで……」
マリエルが慌てて後ずさるが、セリアの動きの方が速い。
「言ってみなさいよ~。ひょっとして、好きな人でもできた~? あのルカ君とか? 最近よく一緒にいるし!」
「ち、違うってば! ルカ君とはただの魔法の研究仲間で!」
「えー、本当にー? 顔赤いよー?」
セリアが面白がって、マリエルの脇腹を指先でこちょこちょと突き始める。
「ちょ、セリア、くすぐったい……! やめてってば!」
「吐けー! 乙女の秘密を吐くのだー!」
「あはははは! ほんとに何もないから! あははは!」
ベッドの上で二人の少女がじゃれ合い、笑い声が部屋に響き渡る。
神界の冷たい静寂の中では決して得られなかった温かく、騒がしく、そして何よりも人間らしい時間。
その夜の平民寮の一室はいつもより少しだけ騒がしく、そしてこの上なく幸せな空気に包まれていたという――。




