水精姫と放課後
窓から差し込む西日が黒板のチョークの粉を黄金色に染め上げる。
カァン、コォンと一日の座学の終わりを告げる鐘の音が、学園の敷地内に心地よく響き渡った。
「では、本日の授業はここまでとします」
教壇に立つ魔術教師が分厚い教本をパタンと閉じて宣言する。
通常であれば、この言葉を合図に生徒たちは解放感と共に席を立ち、寮へ戻るなり、実技訓練場へ向かうなりと思い思いの放課後を過ごし始める。
そして教師自身も次の授業の準備や研究のために、早々に職員室へと引き上げるのが常だ。
だが、今日――いや、ここ最近のこの教室の光景は少しばかり異なっていた。
教師は教本を小脇に抱えながらも教壇から降りようとはしない。
それどころか、まるで次の仕事を待つかのように、腕を組んで教室の入り口をじっと見つめているのだ。
「はぁ……」
窓際の席で、マリエルは机に突っ伏したまま深いため息を吐き出した。
筆記も実技も難なくこなし、授業自体は何の苦労もない。
だが五天星の第五位という、この学園における特等席に座らされてしまった彼女にとって本当の苦労――面倒くささの本番は常に授業が終わったここから始まるのである。
ガラッ。
果たしてマリエルの予想通り、教室の扉が少し乱暴に開かれた。
顔を出したのは、別のクラスの男子生徒だ。
彼は教室の中を見回してマリエルの姿を認めると声を張り上げた。
「おーい、マリエルー。またお前に客が来てるぞ」
「ですよねえ……」
マリエルは机から顔を上げ、魂の抜けたような表情で虚空を見つめる。
昨日も一昨日も、その前の日も同じだった。
もはや放課後の日課として定着してしまっている。
「マリエル、その……頑張ってね」
隣の席のセリアが申し訳なさそうに、しかし心からの応援を込めて小さな拳を握ってみせる。
彼女はマリエルの実力を知っているため心配は微塵もしていないが、連日のこの対応に疲れ果てている親友の精神状態を気遣っていた。
「うん……行ってくるよ」
マリエルはのろのろと立ち上がり、重い足取りで教室の出入り口へと向かう。
廊下に出ると、そこには案の定というべきか、腕組みをして壁に寄りかかる一人の男子生徒が待ち構えていた。
仕立ての良い貴族専用の刺繍が入った制服を着崩し、自信満々にニヤニヤと笑いを浮かべている。
「お前が新しい五天星の第五位か。編入生の平民だって聞いてたが随分と小柄で可愛らしいお嬢ちゃんじゃないか」
貴族の生徒はマリエルを値踏みするように上から下まで眺め回す。
「つまり、お前を倒せば俺も晴れて五天星の仲間入りってわけだな?」
「……ええ、ルール上は」
マリエルは無表情のまま、抑揚のない声で答える。
「ツラ貸しな『水精姫』。俺がその席、ありがたくもらってやるよ。心配するな、怪我はさせないように手加減してやるからよ」
男は前髪を気取った仕草で払いのけ、挑発的に言い放つ。
その痛々しい二つ名で呼ばれるたびに、マリエルの精神力がガリガリと削られていくが、それを顔に出す気力すら今の彼女には残っていない。
マリエルはゆっくりと振り返り、教壇で待機している教師に向かってペコリと頭を下げた。
「……先生、今日もお願いします」
「はいはい。いいですよ」
教師は待ってましたとばかりに教本を置き、慣れた足取りで廊下へと出てくる。
「その、マリエルさんも当分大変だと思いますが、あまり気落ちせぬよう。……君の実力が学園中に正確に知れ渡れば、このような無謀な挑戦者も自然と減ると思われるので……もう少しの辛抱ですよ」
「はい……ありがとうございます……」
マリエルは力なく頷き、意気揚々と先を歩く貴族生徒と手慣れた様子で審判の準備をする教師と共に、重い足取りで演習場へと向かっていくのであった。
――なぜ、これほどまでに挑戦者が後を絶たないのか。
その理由はマリエルの立場と学園のシステム、そして平民に対する貴族たちの無意識の偏見が複雑に絡み合っていた。
マリエルは平民である。
正確に言えば神界から堕とされた元神人の少女であり、魔力の質も量も下界の基準を遥かに超えた規格外の存在なのだが、学園における身分登録はただの平民の編入生だ。
そして、その平民が学園の頂点である『五天星』の座に就いた。
しかも序列は第五位という末席である。
これがどういう事態を引き起こすか。
魔法の才能に絶対の自信を持ち、日頃から特権階級としてふんぞり返っている貴族の生徒たちから見ればマリエルは、五天星のブランドを手に入れるための最もハードルの低い標的にしか見えないのだ。
「平民の女が五天星になれたのなら俺がなれないはずがない」
「あいつなら俺の魔法でワンチャンス倒せるかもしれない」
そんな根拠のない自信と功名心が、彼らを突き動かしている。
もちろん、あの実技試験でマリエルとローランドの直接戦闘を目の当たりにした貴族生徒たちは自身とマリエルの実力差を理解している。
あの日、演習場にいた者たちの中でマリエルに挑もうなどという身の程知らずは一人もいない。
だが、あの場にいなかった生徒の方が圧倒的に数が多いのだ。
彼らに伝わっているのは「平民の編入生がローランドを倒して五天星になった」という結果の噂だけ。
マリエルがどのようにして勝ったのか、その魔法の異常性や魔力制御技術の恐ろしさを彼らは知らない。
「どうせローランドが油断した隙を突いて、まぐれで勝ったんだろう」
「相性が良かっただけの一発屋に違いない」
そんな都合の良い解釈で現実を歪め、己の実力を過信した挑戦者たちが毎日のように「俺に席を譲れ」と列をなしてやってくるのである。
その頻度たるや、もはや異常なレベルだった。
最初は律儀に職員室から駆けつけていた教師たちも毎度毎度、放課後になるたびに「五天星への挑戦状が出ました、審判をお願いします!」と呼び出されるのが心底億劫になり、今では担当の教師が授業が終わった後、そのまま教室で待機してマリエルと共に演習場へ直行するというシステムが確立してしまっているほどだ。
そして、演習場。
「ぐああああああっ!!」
水球が貴族生徒の腹部に直撃し、その場で凄まじい水蒸気爆発を引き起こす。
質量を極限まで高められた水球の一撃は生徒の身体を空高く吹き飛ばし、そのまま結界の壁に叩きつけた。
ズシャアッ、と。
泥にまみれて地面に崩れ落ちた貴族生徒は演習場の地面に倒れ伏す。
「勝者、マリエル」
教師が欠伸を噛み殺しながら、慣れた口調で淡々と勝敗を告げる。
もはや勝敗宣言すらルーティーン化してきている。
「バ、バカな……初級魔法を、ここまで高度に……圧縮して……」
気絶の淵で貴族生徒が信じられないものを見たという顔で、うわ言のように呟く。
彼の魔法に対する常識が、たった一つの水球によって粉々に打ち砕かれた瞬間だった。
「じゃあ、これで終わったので私は教室に戻りますね」
マリエルは倒れた相手を一瞥することすらなく、スカートの裾の土埃を軽く払って踵を返す。
「はい。お疲れ様でした。あとはこちらで治癒術師に引き渡しておきます」
「よろしくお願いします」
もはや聞き飽きた驚愕の声と、敗者の情けない呻きを背に受けながら。
マリエルは重い足取りで演習場を後にし、今日も今日とて誰にも聞こえない深いため息を夕暮れの空へと吐き出すのであった――。
挑戦者のわんこそば状態。




