第9話 魔族とラウンドを
境界の森にて
陽光が森の上に斜めから差し込み、葉の隙間を縫って柔らかな光を落としていた。
ここは、人の村と魔族の領地を隔てる“風裂きの境界森”。緑と風の静謐に包まれた場所だが、その空気の下に流れる緊張は、どこかピンと張り詰めている。
「……やはり、このあたりがいちばん風が踊っていますわね」
コーデリアは地面に片膝をつき、草の揺れ方や木々の鳴らす音に耳を澄ませる。
隣で杖を携えたエミリアが魔力探知の魔法陣を展開していた。
「風のホールにはうってつけですね。ただ、魔族の領域に近すぎるのが……」
その瞬間だった。
ザシュ。
風を裂くような音とともに、茂みの向こうから何かが飛び出した。
「お嬢様、下がってください!」
エミリアが咄嗟に展開した魔法障壁が、目にも止まらぬ速さで現れた影の前に立ちはだかる。
現れたのは、長身の青年――だが、人ではなかった。
褐色の肌に、月光のように輝く白銀の髪。
瞳は鋭く、獣じみた黄金色。手には、黒鋼の槍を構えている。
「……魔族、ですね」
エミリアの声が緊張にわずかに震える。
男――ザラドは一言も発せず、コーデリアたちを睨みつけていた。
その構えに、殺意はなかったが、警戒と拒絶の意志がはっきりと宿っている。
「敵意ではない、と言いたいのですが……通じませんね」
エミリアが障壁の内側から、冷静に様子を伺う。
だが、コーデリアは一歩、前に出た。
「戦うつもりはありませんわ。ただ……これを、見て」
そう言って、彼女はバッグから一本のクラブを取り出した。
シャフトは銀色に光り、先端のヘッドには魔力反応を帯びている。
ザラドの瞳がわずかに細められた。槍を構えたままだが、その視線はクラブの形状に注がれている。
「風の音を、感じて」
コーデリアは構えに入った。両脚を開き、体を回旋させて――
ブゥンッ!
空を切る風がうねり、強烈な音とともに風圧が森を駆け抜けた。
木の葉が舞い、草がなぎ倒される。
その瞬間、ザラドの目が見開かれる。
――槍ではない。剣でも魔法でもない。
ただの“棒”が、空間を裂いたのだ。
「これは、戦いではありませんわ。けれど、技ですの」
静かに、コーデリアはドライバーを肩に担いで言った。
ザラドは、無言のまま槍を下ろした。だが、それは“敵意の解除”というより、“理解への第一歩”だった。
沈黙のルール提案
緊張の空気が、ゆっくりとほどけていく。
ザラドは槍を地面に突き立てたまま、警戒の色を残しながらも動かない。
その金色の瞳が、じっとコーデリアの手元――クラブとボールに注がれていた。
「言葉が通じなくても、伝えられることはありますわ」
コーデリアは穏やかに微笑みながら、芝地の一角に小さな円を描く。
それは即席のホールだった。ティーの代わりに短く切った木片を挿し、その上に白球を乗せる。
静かに構えに入る。背筋を伸ばし、足を軽く開き、クラブを振る動作をゆっくりと、はっきりと見せる。
「これが、“打つ”。そして……“進む”。」
彼女はショットを打ち、ボールは美しい弧を描いて前方の草地へと転がっていった。
ザラドの視線が、それを追い、そして再び彼女へと戻る。
表情は変わらないが、その瞳の奥に、理解の光が宿っている。
「打って、追い、また打つ。それだけですの」
コーデリアは微笑を絶やさず、クラブを差し出す。
ザラドはそれを見つめたまま、一歩踏み出す。
無言のまま、彼はクラブを受け取る――いや、“掴んだ”。
その手は逡巡の末の行動ではなく、“確信の握り”だった。
彼はボールの前に立ち、先ほど見たコーデリアの構えを再現しようとする。
ぎこちないが、手の位置、足の向き、腰の回転……いずれも不思議な正確さがあった。
シュッ。
振り抜かれたクラブにより、ボールはやや斜めに飛び出し、右へ逸れて草むらへ。
だが、ザラドは顔色一つ変えず、前へ歩き出す。
「……言葉は通じずとも、あれは“真似る”意志ですね」
エミリアが小声でつぶやく。
コーデリアは小さく頷いた。
二打目。ザラドは今度、わずかにフォームを修正した。
腰を低くし、腕の振りに緩やかな弧を加える。
シュパァッ。
ボールが勢いよく飛び、正面のホールに向かって一直線に転がっていく。
エミリアが驚きの目を向けた。
「……あの構え、戦士の経験を感じます。訓練の賜物でしょうか」
そしてもう一つ。ボールがインパクトを迎えた瞬間――
風が微かに震えた。
木の葉がざわめき、芝がふわりと持ち上がるように波打つ。
「魔力と……連動している?」
エミリアが目を細めた。
コーデリアは口元に手を当て、愉しげに笑う。
「彼の中にある“力”が、ゴルフという器に乗り始めているのかもしれませんわね」
そのときザラドが、ちらりと彼女を振り返る。
――無言。けれど、どこか、問いかけのような眼差し。
コーデリアは静かにうなずく。
「そう、その調子ですわ」
かくして、言葉を交わさぬままの“ラウンド”が、静かに始まった。
ラウンドの進行と交流の芽生え
――静かだった。
言葉ひとつ、交わされない。
けれど、そこに“無”はなかった。むしろ、その場は、言葉に勝る何かで満ちていた。
即興のラウンドは、3ホール目に差しかかっていた。
コーデリアは小高い丘の上で立ち止まり、風の向きにそっと指先をかざす。
微細な気流の流れと匂いを読み、目を細めた。
「……北西から三、切り立った崖の影。スピンで巻き込めば……」
彼女はクラブを静かに引き抜くと、スッと構える。
風を切る軽やかな音、そして鋭いインパクトの響き。
打ち出されたボールは一瞬風に逆らい――やがて、地形に導かれるように弧を描いた。
カーブしながら、目標地点へとしなやかに落ちる。
ザラドは無言のまま、その軌道を追った。
そして次の瞬間、彼もクラブを構える。
そのフォームは、力強く、だが粗雑ではない。
魔族の戦士が扱う武器に近い動きだ。
筋肉の躍動、踏みしめた大地、そして一瞬、足元に風が巻き起こる――
ズバァッ!
ザラドのショットは直線的に、鋭く地を裂くように進む。
だが不思議と、力任せではない。
その弾道には、制御された意思と、何より“思考”があった。
コーデリアは、ふっと目を細め、頷いた。
ザラドもまた、わずかに頷き返す。
たったそれだけのやり取り――
しかし、それは確かな“応答”だった。
互いの打球に込められた技術、戦略、工夫。
そしてそれらが、次第に共鳴し始める。
「……なんだか」
後ろで見守っていたエミリアが、ぽつりと微笑をこぼした。
「お二人、踊っているみたいですね」
誰も返事はしない。
ただ、鳥のさえずりが風に乗って木々の間を流れ、
風のざわめきがクラブのスイングに寄り添い、
インパクトの音が、互いへのメッセージのように響いていた。
まるで、楽譜なき二重奏――
人間と魔族。
言葉の壁を越えて、ただ“打つ”という行為を通じて。
そこに、尊敬と興奮の芽が、小さく、確かに、芽吹き始めていた。
技術の再構築
鍛冶場の裏手にある広場――
そこで、村の子どもたちが楽しげにゴルフボールを打ち合っていた。
丸太で作った即席のティー台。
木の枝で削ったクラブらしき棒。
ルールもまちまち、フォームもめちゃくちゃ。
だがその一打一打に、無垢な歓声と笑顔があった。
ランバルトは、煙草のように鉄の棒を咥えたまま、遠巻きにその様子を見ていた。
ふん……と、鼻で笑ったはずなのに。
なぜだろう。胸のどこかが、やけに熱い。
「……チッ」
火の粉を払うように、彼は無言で鍛冶場に引き返した。
煤けた扉を乱暴に閉めると、再び火床をくべ直す。
鉄の塊を炉に突っ込み、風を送る。
音を立てて赤熱する鋼。
その熱の中に、ふと――記憶が蘇った。
かつて、自分の鍛えた剣を手に戦場へ赴いた、若き剣士がいた。
まっすぐな瞳で、ランバルトの手を握り、
>「この剣があれば、必ず生きて帰れますね?」
と、笑っていた青年。
――だが、戻らなかった。
戦場から帰ってきたのは、折れた剣だけだった。
“重かった”、と仲間は言った。
鋭すぎたがゆえに、折れた。
重すぎたがゆえに、避けきれなかった。
「……俺は、武器しか知らなかった」
ランバルトは拳を握りしめた。
炉の中で、鉄が、かすかに“鳴った”気がした。
そのとき、扉の向こうから声がした。
「おや? 鍛冶場にこもってらっしゃるということは、ひらめいた証拠ですか?」
エミリアだった。
気配を悟らせずに立つ、メイドの静かな気遣いに、ランバルトは口の端を少しだけ上げる。
「……軽く、しなやかに、だ。けど芯は通す。そんな無茶、魔法抜きじゃ不可能だ」
「魔法が必要なら、私の得意分野です」
彼女はごく当たり前のように、手元に小さな魔法陣を浮かべる。
「物理の制約を逆手に取る素材、あるいは共鳴によって力を逃がす構造。組みましょう、職人さん」
「……ほう」
ランバルトは鉄塊を火床から取り出し、金槌を握る。
そして、その打撃のリズムが、変わった。
カン、カン、キィン――
ただ固いだけの鋼ではない。
音が返る、振動が生きる、新しい鋼。
彼はそれに“反応鋼”と名づけた。
叩くたび、鉄は音を返し、手の中で育っていく。
そのリズムに、エミリアの補助魔法が重なり、しなやかで鋭敏な構造を形づくっていく。
それはもはや、剣でも槍でもない。
打つための道具。壊さず、貫かず――ただ、響かせるためのもの。
ランバルトの目が細められる。
「……クラブってのも、悪かねぇな」
エミリアの感慨
陽は西に傾き、辺境の森に長い影を落としていた。
キャンプ用のテントの脇、石を囲った焚き火のそばで、エミリアは静かに腰を下ろしていた。
手にはコーデリアのクラブ――
あの、魔族の青年ザラドとの“無言のラウンド”で用いられた一本。
煤けた布で丁寧にグリップを磨き、金属のシャフトをそっと撫でる。
その動きは、どこか神聖な儀式のようだった。
そして――ふと、口を開く。
「……お嬢様、ゴルフは言葉の壁も超えました」
火がぱちりと音を立て、エミリアの頬を照らした。
背後から足音が近づく。
コーデリアが、焚き火の向こうに立っていた。
腰に手を当て、肩を揺らすように笑う。
「ええ。言葉も、文化も、種族さえも……
ルールも用語も、きっと、“心”があれば通じますわ」
エミリアは磨き終えたクラブを空に向け、月明かりにかざした。
鉄の表面に映るのは、白銀の光と、静かな火の色。
それはまるで、今日交わされた無言のラウンドの余韻のようだった。
「言葉にできないものこそ、響くのかもしれませんね」
「ふふ、詩人みたいですわよ、エミリア」
二人の笑い声が、森の静けさに溶けていく。
風がそっと吹き、クラブのヘッドが、かすかに鳴った。
空を目指す、次なる一歩
深き森の奥。古代の魔族語が彫られた巨岩の前に、褐色の青年――ザラドは立っていた。
彼の足元には、今日のラウンドで使われたスコアカード。人間の書式で記された数字の羅列が並んでいる。
その手元を、深い皺を刻んだ老魔族――部族の長老がじっと見下ろしていた。
白濁した瞳が、無言でザラドを問いただす。
「……これは、人間の“闘争”か? この数字の羅列、戦果の記録に見えるが」
しばしの沈黙。
ザラドは口を開いた。
初めて、誰かに言葉を投げかけるように。
低く、確かに。
「否。これは“遊び”だ。だが……我らが知らぬ、“強さ”の記録でもある」
長老の眉がわずかに動いた。
ザラドはスコアカードを石の上にそっと置き、ゆっくりと背を向ける。
風が彼の白銀の髪をなびかせ、闇に向かって歩き出した。
その背には、槍ではなく――一本のクラブが、背負われていた。
* * *
一方そのころ、コーデリアとエミリアは、村の丘の上にいた。
遠くを見渡すコーデリアの目は、空に向いている。
風に揺れる長髪を指で梳きながら、彼女は楽しげに告げた。
「――空中ホールの設計、始めましょうか」
その声に、エミリアの目がぱちりと瞬いた。
そして、笑みがこぼれる。
空を打つゴルフ。
次なる挑戦の地平が、いま静かに広がっていた。