第3話『婚約破棄とスコアカード』
断罪イベント(のはずだった)
麗しき社交界の庭園。噴水のきらめきとバラの香りが漂う午後、貴族令嬢たちは今日も優雅に紅茶を嗜んでいた。
――そのはずだった。
「……コーデリア様って、最近おかしくないかしら?」
「おかしいなんてレベルじゃないですわ。昨日なんて、魔法で芝を生やしてお茶会会場にグリーンを……」
「婚約者がいながら、あんな奇行……フィリップ殿下もさぞお困りでしょうね」
ひそひそと、陰で囁かれる声。視線の先には、優雅に椅子へ座るはずのコーデリアの姿が――地面に膝をつき、真剣な眼差しでボールの転がり具合をスコアカードに記録しているという異様な光景があった。
「ふむ……湿度の変化で、転がりが1.3センチほど右にズレたな。となると、このベント芝は朝と昼でスピードが……」
貴族令嬢としての威厳などどこ吹く風。
それはまるで、神聖な儀式のように真剣な分析だった。
「お、お嬢様……!」
そっと耳打ちする侍女・エミリアは、完全に青ざめていた。
(……流れが完全に“断罪イベント”なのですが……! 今ここで何も言わなければ、殿下が婚約破棄を口にしてしまうはず……!)
本来の乙女ゲームでは、ここで“正ヒロイン”が登場し、コーデリアが嫉妬にかられて敵意をむき出しにし――
結果、王子・フィリップから「お前とは婚約を解消する」と言い渡される。
すべてが予定された、いわば“シナリオ通り”の展開だった。
だが、現実のコーデリア=中身・耕作には、そんな予定調和など一切通じない。
「……ボールに対して直角に構えても、地面が湿ってたら意味がねぇ。芝が全てなんだよ、芝が……」
その目に映るのはヒロインではなく、わずか数グラムのボールとその下の芝だけ。
己の魂を込めた一打の記録に、すべてを懸ける女の姿であった。
「……このお嬢様、やっぱり何かを目指しておられる……ゴルフの神位とか……」
エミリアは、もはや小声でしか呟けなかった。
こうして、断罪イベントの幕は――静かに、しかし決定的にズレ始めていた。
スコアで決着を
そのとき――社交庭園に重く、そして劇的な声が響き渡った。
「コーデリア、お前の行いは見過ごせぬ! この場をもって……婚約は破棄だ!」
高らかに告げるのは、王子フィリップ・グランベリア。
金髪碧眼の気高き青年が、怒気をはらんだ瞳でこちらを睨みつけている。
空気が一気に張り詰め、周囲の令嬢たちはざわめきを飲み込み――
全員が、次の瞬間に起こる「断罪の劇場」を待ち構えていた。
だが。
コーデリアは、まったく動じなかった。
「……なるほど。そう来ましたか、殿下」
スッ――と彼女は右手を上げる。その所作はあくまで優雅で、そして堂々としていた。
「ですが、私はこの世界の理を知っています。貴族とは、何よりもフェアであるべき存在。
スコアで勝った方が正義――それが、私たちのあるべき姿ですわよ」
「……」
場が、止まった。
風が吹き抜け、紅茶のカップがカチャリと音を立てる。
その静寂の中、誰かがぽつりと呟いた。
「……スコア……?」
「……まさか、ゴルフで決着をつけるというの……?」
周囲の令嬢たちが、騒然とし始める。
「で、でも……王子との婚約破棄に、ゴルフの勝敗を使うなんて……」
「でも聞いたわ。あのクラリッサ様が、“芝と会話ができた”と感動していたって……」
「一打に魂を込める、神聖な儀式らしいですわよ……!」
令嬢たちの心の温度が、じわじわと変化していく。
コーデリアの放った言葉が、確実に世界の“常識”を揺さぶり始めていた。
「ふざけるな!」
フィリップ王子が声を荒げる。
「これは貴族社会の話だ! お前の奇行に付き合っている暇など――」
「奇行……? 違いますわ、これは“文化”です」
コーデリアは一歩前へ進み、芝の上に立つ。そして、ゆっくりとクラブを手に取り――
カップへ向けて、なめらかなストロークを放った。
コロン。
ボールが吸い込まれるようにカップインする音が、沈黙の中に響いた。
「この一打に、私の覚悟が詰まっていますの。殿下、貴族たるもの――覚悟と誇りを賭けて、勝負をなさってはいかが?」
「…………っ!」
フィリップ王子は、明らかにうろたえていた。
だがそれ以上に、周囲の空気がすでに“こちら側”へ傾き始めているのを、彼は気づいていなかった。
乙女ゲームの“婚約破棄イベント”。
本来ならここで全てが終わるはずだった。だが――
この世界は、すでにフェアウェイの上にある。
即席コース、魔法で誕生!
空気が変わった。
断罪の舞台が――
決闘のグリーンへと姿を変えようとしていた。
「仕方ありませんね、お嬢様……」
エミリアが小さくため息をついたかと思うと、スッと前に出て、手のひらを軽く掲げた。
「【地形形成・芝展開・地属性改質】――《エレガント・ショートコース》」
瞬間、庭園に金色の魔法陣がいくつも浮かび上がる。
次いで、緑の光とともに地面が隆起し、芝が広がり、風が流れ、傾斜が生まれ――
貴族邸の庭に、見事な手製ゴルフコースが現れた。
「なっ……な、なんですの……これは……!?」
「きゃっ、芝が! うちの庭がコースに!?」
令嬢たちが次々と悲鳴を上げるなか、コーデリアは冷静に、その緑へと一歩踏み出す。
ひざを曲げ、芝に手を伸ばし――優しく撫でた。
指先に伝わる、柔らかな感触。絶妙な刈り高さ。微細な葉の向きまでコントロールされている。
手間を惜しまず整備された、プロのグリーンの感触。
「……やるじゃん、エミリア」
コーデリアがニッと笑う。
「ベント芝の再現度、過去最高だな。これは朝イチのピン位置でも勝負できる」
エミリアはくすっと微笑みながら、控えめにカーテシーを返す。
「お褒めにあずかり光栄です。今日はグリーン速めに設定しておりますので、お気をつけて」
王子フィリップはと言えば、すっかり置いてけぼりになった顔で周囲を見回していた。
「な、なんだこれは……!? 決闘というのは、剣と魔法で行うものではないのか……?」
「時代は進化しているのですわ、殿下。芝の読み合いこそが、現代貴族の戦い方なのです」
周囲からどよめきが起こる。
「傾斜までついてる……! あれ、グリーンの端、植木鉢がホールになってる……!」
「第1ホールは距離3メートルのフックライン、第2ホールはバンカー越え、第3ホールはティーショットから直角ドッグレッグ……!?」
まるで魔法バトルの実況のようなゴルフ解説が飛び交うなか、
“令嬢用3ホールショートコース”決戦の幕が上がった。
王子の反則技連発
王子・フィリップは、魔法で形作られたショートホールのティーグラウンドに立っていた。
右手に握るのは――新品同様のゴルフクラブ。が、握り方がすでにおかしい。
「う……む、こうか? いや、こうか……?」
手元でグリップがぐるぐる回っている。
それを横から冷静に観察していたコーデリアが、ぽつりと口を開いた。
「そのライ角……殿下には合ってませんね。そのまま振ったら手首、痛めますわよ」
フィリップのこめかみに青筋が浮かぶ。
「う、うるさい! 貴様に言われずとも……!」
無理やり構えを取った王子は、クラブに魔力を注ぎ込みながらスイング。
放たれたボールは――
ゴオォォォッ!!
火の尾を引いて空を駆け、爆音とともにバンカーの向こうへ吹き飛んだ。
「うおおおお!?」「……すごい!……のか……?」
観客の令嬢たちも困惑混じりの歓声を上げる。
だが。
「それはゴルフじゃありません。ただの火球魔法ですわ」
コーデリアの声は冷ややかだった。
「そもそも、ティーアップの際に魔法干渉を入れるのは規定違反。
第一打でボールが燃える競技、聞いたことありませんわ」
「黙れぇぇぇぇぇぇッ!!」
完全に逆上したフィリップは、さらに魔力を集中。
次のホールでは、クラブすら使わずに魔法陣を展開――
ボールが“ワープ”してカップの脇に瞬間移動した。
ざわ……ざわ……
「今、見た?」「えっ、打った? 今、何が起こったの?」
騒然とする観客たち。だが、コーデリアは一歩も動かない。
ボールをじっと見つめ、ため息をひとつ。
「……マナー違反ですわ」
風が止まったかのような静寂。
その言葉に、王子の顔が真っ赤に染まる。
「な、何が“マナー違反”だ! 貴様はいつからそんな偉そうに……!」
コーデリアはスコアカードを手に、落ち着いた声で返す。
「これは貴族の嗜みであり、魂の闘い――“芝の上の決闘”ですの。
ルールを破る者には、勝利も名誉もありませんわ」
王子の握るクラブが小刻みに震えていた。
冷静なコーデリア、圧倒的勝利
コーデリアは静かにクラブを構えた。
庭に魔法で生成された令嬢用3ホールショートコース。そこに、ただひとり“ゴルフ”をしている人間がいた。
観客の視線、王子の怒気、ヒロインの困惑、令嬢たちのざわめき――
全てのノイズを切り離し、彼女は芝と語り合う。
トン……
クラブが地面をなぞるように音を立て、アプローチショットが宙を舞った。
「グリーンはやや湿っている……転がりが鈍る……ならば強めに……」
小声でつぶやき、パターを構える。
「……転がれ。祈れ。芝と心を通わせて……」
スッ。
わずかに力のこもったストロークで打ち出されたボールが、まっすぐ、まっすぐ……そして――
コロン。
カップイン。
――バーディー。
一同、沈黙。
空気が凍るほどの静けさ。
誰もが、ただコーデリアを見ていた。まるで、目の前に魔女が現れたかのように。
「……今の……本当に、人力で?」
「魔法じゃ……なかったわよね……?」
呟く令嬢たちの声が震えていた。
一方、対する王子・フィリップはというと。
1ホール目――ボール、爆発。
2ホール目――クラブが魔法で折れる。
3ホール目――打つ前に魔力が暴発、ティーが消滅。
「……ば、馬鹿な……この私が……なぜ……!」
震える声で地面に膝をつくフィリップ。
その背後で、スコアカードを確認したエミリアが、ぽつりと呟いた。
「3ホールの合計スコア、コーデリア様が**−2**。殿下が……記録不能ですわね」
パターを拭きながら、コーデリアはひと言。
「この勝負、グリーンが証人ですわ」
冷静なコーデリア、圧倒的勝利
夕暮れの光が、魔法で整えられた即席ショートコースを照らす。
芝はきめ細かく、微かな風すらもラインを狂わせる緻密な設計。
その静寂の中、コーデリア・エルフェリア伯爵令嬢は、ひとり集中していた。
クラブを軽く持ち上げ、芝にそっと接地させる。
**「コツ」**という微かな音。
それが、彼女にとっての情報だった。
「……グリーンは、やや湿っている……」
指先で芝を撫で、湿度と転がりの抵抗を確かめる。
「……ラインは右に微妙な傾斜……でも、風は左から。相殺して、強めに――」
スッ――
腰のブレはゼロ。視線はボールの真上。完璧な姿勢。
繊細かつ正確なパッティングモーション。
――コロン。
ボールが吸い込まれるようにカップへ落ちた。
「……バーディー、いただきましたわ」
それは、まるで祈りが通じたかのような美しい音だった。
一瞬の沈黙。
誰もが言葉を失い、ただその転がりの残像を見つめていた。
コーデリアは冷静にスコアカードを記入する。
3ホール中2バーディー、1パー。計**−2**。令嬢用とはいえ、初見コースでのスコアとしては異常なレベル。
――対して、王子フィリップ。
「くっ……!行けッ!!」
魔力をこめて放った一打目。ボールは空中で突然加熱し、**ポン!**と爆ぜた。
「……爆発しましたわね……?」
二打目。今度は魔力で強引にボールをワープ。カップの横に転がったが、当然ノーカウント。
三打目では、魔法制御を誤って地面がえぐれ、クラブが手の中で溶けた。
「う、うぅ……こ、これはその……」
観客の視線は冷たい。
「なにあれ……魔法頼りすぎでは……?」
「王子って……あんなにゴルフ下手だったんですの?」
そして、静かにスコアカードを手に取ったエミリアが宣言する。
「コーデリア様、スコア−2。王子殿下……記録不能。全ホール無効です」
王子、ガクッと膝をつく。
その背に向けて、コーデリアが一歩近づき――
「……これが、貴族の嗜みですわ」
静かにクラブのヘッドを磨きながら、微笑んだ。
スコアカードが運命を刻む
勝負は、終わった。
王子フィリップは、敗北を認めるかのように沈黙したまま、魔法で焦げ跡の残るスコアカードを見つめていた。
その指が、震えている。
ゴルフのスコアを記すはずの欄に、彼はゆっくりと、そして確かに――
「婚約破棄」
と、記した。
「……こ、これが……貴族の……嗜みだと……いうのか……」
何かが崩れ落ちる音がした気がした。
王国第一王子の尊厳か、それとも“乙女ゲームの筋書き”か。
しかしコーデリアは動じない。
ただ静かに、優雅にスカートを翻し、芝生の上にパターをそっと置いた。
「バーディー、いただきましたわ」
そして歩き去る後ろ姿は、まるで勝利を知るプロゴルファーのそれ。
その日以降、王都の社交界では奇妙な噂がささやかれるようになる。
――“真の貴族とは、いざというとき芝の上で己を示す者のことだ”
――“礼儀作法も、財力も、魔力すらも……スコアカード一枚の前では意味をなさぬ”
――“貴族の実力は、グリーンでこそ試されるのだ”と。
かくして、乙女ゲームの“断罪イベント”は崩壊し、代わりに新たな伝説が誕生した。
【婚約破棄とスコアカード】――コーデリア、9フィートの革命。