第2話『貴族令嬢と9フィートのパッティング』
シーン1:朝のコーデリア邸
朝日が差し込む寝室のカーテンの隙間から、一筋の光が人工芝を照らしていた。
その芝は、昨夜コーデリア(の中身・元サラリーマン古橋耕作)が魔法で床に再現したものだ。素材の密度、転がり抵抗、摩擦係数まで調整され、限りなく“あの世界”のパターマットに近い。
そして現在。
寝巻き姿のまま、一本のパターを握った令嬢が、無言でボール(リンゴの芯を削って丸めたもの)を転がしていた。
コロン。カップに見立てた銀のティーカップに収まる。
「よし……9フィート。完璧だ」
汗を拭いながら、パターをそっと芝に立てかける。そして、まだ薄暗い天井を見上げて、つぶやいた。
「今日は“パット感”がある日ね……」
その瞬間、ドアが開いた。
「お嬢様!? ま、また芝の上で寝ていらしたのですか!?」
飛び込んできたのは忠実なる侍女・エミリアだ。寝間着のままクラブを握りしめるコーデリアを見て、悲鳴をあげる寸前の顔で固まった。
「……お嬢様……その、“パット感”とは……?」
「ん? ああ、ボールとの対話の感触だよ。今日は芯に当たる気しかしねぇ」
にっこりと笑うコーデリア。昨晩ろくに寝ていない目が血走っている。
エミリアは震えた。「そ、それよりも! 本日は社交界のお茶会がございます! しかも、王子がお越しになる可能性が高いと……!」
その言葉に、コーデリアはぴたりと動きを止めた。
「王子……?」
――一瞬、空気が凍る。
エミリアの顔に安堵が広がる。
(ようやく、現実に向き合ってくださった……)
だが次の瞬間、コーデリアはパターを構え直し、芝を指さした。
「じゃあ、余計に練習しなきゃな。勝負はすでに始まっているんだよ」
「…………」
もはや突っ込む気力も失いかけたエミリアだったが、必死に礼儀作法の帳尻を合わせようと口を開く。
「お嬢様……社交界では“グリーン”という言葉は、政治バランスを指すのです」
だが、返ってきたのは即答だった。
「ならなおさら傾斜の読みが大事だな」
エミリアの目から、すっと光が消えた。
シーン2:お茶会の準備中
中庭に設えられたティーパーティー会場は、慌ただしく華やかに整えられていた。
白いテーブルクロス、金縁のティーセット、咲き誇る初夏の花々。
どこを切り取っても貴族らしい優雅な空間――のはずだった。
「おい、テーブルをもう一歩下げろ! 芝がカップと干渉する!」
甲高い怒声が響いたのは、会場の隅。
そこではコーデリアがスカートの裾をまくり上げ、杖を地面に突き立てていた。
「《練習用地形・中傾斜モード、展開》」
バチッと空気が弾け、地面が隆起。魔法陣から広がるグリーン状の芝が、うねるように生えていく。
その質感は見事だった。まるで高級ゴルフ場のベント芝。足を踏みしめた執事が思わず「これは……」とつぶやくほど。
さらにコーデリアは、魔法を立て続けに唱える。
「《芝密度調整・スピン吸収率20%》……よし、《ボール追跡視認エフェクト・赤》もつけとくか」
次の瞬間、ボール(リンゴ製)が転がると、残像のような赤い軌跡がふわりと浮かび上がった。
「……パター練習用HUD、完成っと」
そこに、完全に常識を置き忘れた顔のエミリアが立ち尽くしていた。
「お、お嬢様……。本日は、あくまで“お茶会”でございます……。初対面の方々が集まる、繊細な社交の場でして……」
「うむ。だからこそ、“静かな戦場”で心を整える必要がある。パターは礼儀だ、心のティーセレモニーだ」
「……」
エミリアは、もう一度会場全体を見渡した。
片や、バラの花が香る優雅なティーテーブル。
片や、魔法で生成された9フィートの練習グリーン。
どう見ても同じ空間には存在してはいけない物が、堂々と共存している。
「……このお茶会、もしかして違う次元に向かっていませんか?」
そうつぶやいたエミリアの視線の先で、コーデリアはすでにパターを構えながら言った。
「違う次元に行けて初めて、バーディーは取れるんだよ」
シーン3:貴族令嬢たちを前にプレゼン開始
午後の陽光が降り注ぐ中庭。
フローラルの香りと高級茶葉の芳香が立ちこめる、貴族令嬢たちの社交の場。
本来であれば、ここで恋が芽吹くはずだった。
ゲームの中では、ヒロインが王子や騎士と“運命の出会い”を果たす、シナリオ進行のキーハブ。
だが──コーデリアは、その運命をパターでぶち壊す気だった。
「本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます」
彼女はスカートの裾を軽やかに摘まんで一礼した。美しい所作、完璧な挨拶。
……からの、
「では早速、“貴族の嗜み・パッティング”についてご説明いたしますわ」
パチンとクラブ(※家具の脚を削った自作品)を掲げながら、堂々とした宣言。
令嬢たちの間に、風が吹いた。
「……パ、ですって?」
「パッ……ティング? それは新しい魔法の分類ですの?」
「まさか“パティスリー”の打ち間違いでは……?」
困惑に包まれる中、コーデリアは真顔で続けた。
「違いますわ。これは精神と肉体の融合。芝と会話し、ボールに祈りを込める神聖な行為ですの」
令嬢たちは顔を見合わせたが、当の本人は真剣そのもの。
むしろ、貴族の威厳をかけた神聖な儀式でも始めるかのような気迫すらあった。
「皆さま、ご覧くださいませ。これが“パター”の構えですわ」
すっと構えを取り、ボールの真上に視線を落とす。
「目線は真上、手首は固定。腰の動きは最小限に抑え、ただクラブを……このように、振る──!」
スッ……コロン。
リンゴのボールが芝の上を転がり、植木鉢(仮カップ)へ吸い込まれる。
その音の静かさ、完璧なライン。
まるで、古都の茶室で一礼する武士のような所作。
「この一本のストロークが、あなたの人生を変えるのですわ」
令嬢たちは、誰も言葉を発せなかった。
「……」
「…………」
「………………この人、何を言っているのかしら……?」
だが、本人は全力だった。
それが何より恐ろしいと、誰かがそっとつぶやいた。
シーン4:参加者のひとりがパットに挑戦
場は、静寂に包まれていた。
パター講座なる異次元の宣言のあと、貴族令嬢たちはポカンと口を開けたまま固まり、まるで“氷の魔法”でもかけられたかのよう。
(……やっちまったか?)
耕作(※中身は56歳サラリーマン)は、内心でそう思いつつも、表情はあくまで涼やかな令嬢コーデリアを演じきっていた。
「どなたか、実際にストロークしてみたい方はいらっしゃるかしら?」
――シーン……。
小鳥のさえずりだけが、やけにクリアに聞こえる。
お茶会会場には、完全なる沈黙が流れていた。
だが、そのとき。
「……わたくし、やってみたいですわ」
控えめに、しかしはっきりと、ひとりの令嬢が手を挙げた。
名はクラリッサ=ミンティア。モブ枠中のモブ枠。
おっとりとした性格で、社交界でも目立たず、乙女ゲーム本編でも“背景”としてすら扱われていなかった存在。
そのクラリッサが、今──パターに手を伸ばす。
「クラリッサ様、どうぞこちらへ。まずは構えを確認いたします」
コーデリアが優しく指導しながら、クラリッサの手を添える。
その手は小さく、震えていた。
「目線はボールの真上。……芝と、会話するのよ」
「し、芝と……?」
「そう。芝の気持ちを聞いて。どこへ転がれば幸せか、問いかけるの」
……もはやゴルフを超えてスピリチュアルの域だが、クラリッサは真剣にうなずいた。
「いきます……」
緊張に息を飲む中、クラリッサは両手でクラブを握り──
スッ……
ストローク。
コロン。
ボール(※洋梨の芯を削ったもの)が静かに植木鉢へ吸い込まれた。
「……っ」
クラリッサが目を見開く。
「…………気持ちいい……」
静かな声が、お茶会の空気を切り裂いた。
「今、芝と……会話ができたような……」
その瞬間、周囲の空気が変わった。
「……えっ?」
「芝と会話……?」
「私も……転がしてみたい……」
まるで何かのスイッチが入ったかのように、令嬢たちがざわつき始める。
「ちょ、ちょっとクラリッサ様、私にもクラブを!」
「いいえ私が先よ! ティーアップはどこにあるの!?」
「果物でもいいのね!? あそこにリンゴが!」
パター練習は、貴族令嬢たちの間で突如ブームと化した。
──その頃、屋敷の厨房では。
「急げ!リンゴを丸めろ!芯は削ってなめらかに!」
「この棒、テーブル脚を切って短くすれば使えます!」
「メイド長、ティーって何ですか!?」
「地面に刺すやつよ!小枝で代用しなさい!」
急造クラブとボールが量産される中、屋敷は未曾有のパター需要に沸いていた。
その中心で、コーデリアは優雅に頷く。
「これが……ゴルフの力よ」
シーン5:そこへ王子フィリップが現れる
――王子フィリップ=アルストリア。
この国の第二王子にして、社交界の華。整った顔立ちに高潔な精神、武芸も魔法もこなす非の打ち所のない男。
乙女ゲーム本編では、今日このお茶会でヒロインと出会い、運命の恋が始まる──はず、だった。
しかし現実は。
「ナイスパットですわ!」「……入ったわ! 芝が微笑んでくれた!」
ガッ、ガッ、カコン……!
ティーパーティー会場の片隅。
ドレス姿の貴族令嬢たちが、汗をにじませながらパターを振り回していた。
その中心に立つのは、令嬢コーデリア=グリムバートン。
かつては「冷酷で高飛車」と恐れられていた彼女が、今は一打入魂のゴルフ師範と化している。
そして、その背後から登場する王子。
「……これは……一体、何の儀式だ?」
唖然とした声が響いた。
令嬢たちは気づかない。コーデリアも、背を向けたまま──
「……ふっ」
パターを振る。
コロン……。
果物ボールが静かに植木鉢へ沈み、その瞬間、コーデリアがくるりと振り返る。
「ティーアップしていただけます? 王子殿下」
「……は?」
眉をひそめる王子に、にっこりとドヤ顔のコーデリア。
「そこにある小枝でお願いね。地面に刺すの。パターの基本ですもの」
王子・フィリップは、数秒間黙って空間を見渡した。
貴族令嬢たちが、ドレスを巻き上げてフォームを確認している。
メイドたちが即席のクラブと果物ボールを配布している。
お茶会のテーブルは片隅に追いやられ、代わりにグリーンと化した魔法芝が広がっている。
フィリップは叫んだ。
「貴族の社交とは! もっと気品と教養に満ちた場であるべきだ!」
それに対し、コーデリアはまっすぐな目で返す。
「ならば一つ、問いましょう。王子殿下──」
「……?」
「パットを外してなお、平静を保てる覚悟はありますか?」
「意味がわからんッ!!」
王子の絶叫が、芝に心地よく響いた。
決闘の代わりにパット対決
王子フィリップの怒号が消えやらぬ中、コーデリアはゆるりと笑みを浮かべた。
「では、殿下。スコアで勝負とまいりましょうか」
その言葉に、場内はざわめいた。
「……えっ?」
「スコア……?」
「まさか、あの“パット”で?」
ざわ……ざわ……と、一瞬で社交界の空気が変わる。
フィリップは目を見開き、震える声で答えた。
「貴族にあるまじき挑発だ! だが……受けて立とう!」
周囲の令嬢たちは、戸惑いながらも興味津々で見守る。
そうして──
婚約破棄をかけた、二人の令嬢と王子による
“9フィートのグリーン上での決闘”
が、異様な熱気を帯びて幕を開けたのだった。