第1話『目覚めたらグリーンがなかった』
――冒頭:現代日本、夜の打ちっぱなし
残業でくたくたになった体を引きずりながら、古橋耕作(56)は、打ちっぱなし練習場のゲートをくぐった。
ワイシャツの袖はまくり上げ、ネクタイはゆるゆる。顔には疲労がべったり張りついている。
だが――クラブを握った瞬間、その目に宿った光が変わった。
「……この一打で、今日一日のストレスをすべて浄化する……!」
真剣そのものの構え。重心は低く、スイングはブレない。
ゴルフ歴30年のサラリーマンが放つ、その一撃――
ゴォンッ!!
快音が夜空に弾け、白球は一直線に吸い込まれるように飛んでいく。
手ごたえは完璧だった。フェースの芯、ど真ん中。
「……ナイスショットだな、俺……」
その声には、どこか涙すらにじんでいた。
そう、今日こそは当たったのだ。長い一日を耐え抜いた、その最後の一打が。
だが――
次の瞬間。
ズキン、と胸が締めつけられるような痛み。
「……ん……ぐ……?」
足元がぐらりと傾く。世界が遠ざかる。
何が起きているのか、理解できないまま、視界が真っ白に塗りつぶされていく。
「……おい、ウソだろ……? やっと芯に当たったばっかじゃねえかよ……」
その言葉を最後に――
古橋耕作、心筋梗塞により即死。
数十年のゴルフ人生に、静かに幕が下ろされた。
……だが、物語はここで終わらない。
いや、むしろ、ここからが本番である。
シーン2:目覚めた場所は、見知らぬ天蓋付きのベッド
ふわふわした意識の中で、俺――古橋耕作は、ゆっくりと目を覚ました。
……なんだ、この天井。
目の前には、薄暗く重厚な装飾が施された天蓋付きベッドの布地。
鼻をくすぐるのは、かすかに甘く、どこか気品を感じさせる香水の匂い。
畳もフローリングもない。病院でもなければ、自宅でも職場でもない。
そして――何より、体の感覚がいつもと違う。
腕は細くて軽く、皮膚はやけにスベスベしていて……胸に……なんか……違和感?
恐る恐る、自分の体に手を当てる。
「……んん?」
ぷにっ。
なんか……柔らかい。
いや、まさか。そんなわけは――
次の瞬間、反射的に飛び起きて、ベッド脇の鏡に目をやった。
そこに映っていたのは――
長い金髪に深紅の瞳。
まるで宝石のような顔立ちの、上等な美少女だった。
「……誰だテメエ!?」
自分の口から飛び出した言葉に、自分が一番驚いた。
いや、ちょっと待て。声も高いし、体も完全に別物。
ついさっきまで56歳のおっさんだったはずが、なぜかティーンエイジャー女子に。
服装はフリルのついたナイトドレス。肌は透き通るように白く――
「……この乳、俺のじゃねえな?」
鏡越しに自分を見つめながら、そんな一言が口を突いて出たその時――
ガチャッ!
勢いよく扉が開き、少女――いや、俺のもとに、誰かが駆け込んできた。
「お嬢様っ! ようやくお目覚めですね! ご気分は如何ですか?」
小柄で、可愛らしいメイド姿の少女が、瞳を潤ませながら駆け寄ってくる。
白いフリル、エプロン、清楚系。それはもう、絵に描いたような「異世界メイド」そのものだ。
俺は混乱の極みだったが、その言葉に耳が止まる。
「……お、お嬢……?」
言われたのは一度きりだった。だが、その破壊力は絶大だった。
つまり、今の俺は――
異世界の美少女令嬢になっているらしい。
どういうことだ……?
あのナイスショットの直後に死んで……
で、今は……メイドに「お嬢様」って呼ばれて……?
俺の脳内で、まだ整理されていない数々の疑問が、ぐるぐると渦を巻いていた。
だがこの時の俺は、まだ知らなかった。
この先――
グリーンとカップがない世界に、パターを持ち込む地獄の始まりになるとは。
シーン3:混乱のまま庭へ(美少女の身で)
俺はまだ混乱していた。
鏡の前に立つ金髪の美少女――それが俺自身だという事実を、脳が受け入れるのを拒んでいる。
この見た目、まるで少女漫画から抜け出てきたみたいじゃねえか。
そして、先ほどから付き添っているメイド――エミリアと名乗った少女は、どう見ても本物だ。作り物じゃない。
そんな現実感のない空間の中で、俺はふと息苦しさを感じた。
「……なあ、ちょっと。外の空気が吸いてぇな」
「まあ、お嬢様。気分転換ですね? でしたらバルコニーへご案内しますわ」
エミリアがにっこりと微笑み、俺を扉へと誘導する。
メイドに手を引かれながら歩く自分に、じんわりと敗北感が滲む。
だがそれを吹き飛ばす光景が、バルコニーの向こうに広がっていた。
――見事な庭園だった。
左右対称に刈り込まれた生垣。花壇のデザインも完璧で、まるで美術品のようだ。
だが――俺の目が釘付けになったのは、そこじゃない。
「……こいつは……すげぇな」
庭の中央に、日光を浴びてきらめく一面の芝生。
深すぎず、浅すぎず、刈り込みは均一。
色も鮮やかで、見ただけでわかる手入れの良さ。
「見事な……ベント芝だな……。傾斜も緩やかだ……。これは……8フィートってとこか……?」
知らず知らずのうちに、俺はつぶやいていた。
芝を見るだけで、速度とラインを測ってしまう自分が怖い。いや、習性だ。
「……お嬢様? どこをご覧になって……?」
不思議そうに首をかしげるエミリアに、俺は無意識に指をさす。
「グリーンだよ、グリーン。あそこさ……パターで転がしたいよな、あの芝……」
「ぐりーん……?」
彼女の顔に浮かぶ、まるで異国の言語を聞いたような「ぽかん顔」。
そうか、この世界には――
グリーンもなければ、パターもない。
――つまり、ゴルフが存在していない。
「……そうか……そういう世界か」
俺はそっと口元をゆがめて笑った。
その笑みには、妙な興奮があった。
パターで転がす者がいない芝生なんて――
それはもう、俺のものじゃねえか。
シーン4:パターを作る
「お嬢様!? そのようなところを歩き回られては――!」
俺はメイドの制止も聞かず、屋敷の倉庫を開けていた。
目指すはただひとつ。
――パター。
この美しいベント芝を前にして、転がさない選択肢なんてあるか?
だが当然、ここは異世界。
ミズノも、テーラーメイドも、キャロウェイも存在しない。
自作するしかねぇ。
「……よし、まずは素材だ」
馬車の補修用に置かれていた、車輪の予備部品。
魔法使いが使うらしい飾り杖。
そして、壊れかけの椅子の脚。
俺はそれらを手に取り、じっと睨みつけた。
「この杖……トウカエデ(シュガーメープル)か。木目が緻密で重さもある。打感も悪くねぇ」
家具の脚は、シャフト代わりになりそうだ。
何本か試して、最も直線性のあるやつを選ぶ。
「ふむ……このテーパーの緩やかさ、意外とイケるな」
道具もまともにないが、そこはサラリーマンゴルファーの底力。
スプーン、ナイフ、金槌、そして魔法(主にエミリアが使ってくれた)を駆使し、数時間の格闘の末――
「できた……!」
異世界産・**ハンドメイドパター(Prototype #1 - “Coredelia”)**が完成した。
見た目はボコボコだが、フェース面はわずかに面取りし、芯はしっかりしている。
バランス調整? もちろん、感覚だけが頼りだ。
「……さて、次はボールだな」
使えそうな石や木の実はあったが、転がりがイマイチ。
最終的に選んだのは――
「……リンゴだな」
エミリアが差し出した果物かごから、やや小ぶりのリンゴを一本拝借。
皮を削って表面を滑らかにし、何とかボールっぽい形状に整える。
「空気抵抗が気になるが……仕方ねえ。今日のグリーンは湿ってないし、イケる」
エミリアは、すでに黙って俺の作業を見つめていた。
完全に言葉を失っている。
まあ、しょうがない。メイドにしてみりゃ、お嬢様が斧片手にリンゴを削ってるわけだからな。
「さあ、グリーンに行こうぜ」
「……グリーンって、あのお庭のことですか?」
「芝があって、ボールが転がる場所。つまり、グリーンだ」
「……はぁ……」
やや引き気味のエミリアを引き連れて、俺は再び庭園へと舞い戻った。
カップ代わりには、ちょうどいい植木鉢を発見。
その付近に小枝を挿してティーアップの目印を作る。
リンゴを芝に置き、即席パターを握る。
風の流れ、芝の目、傾斜……すべてを読む。
いや、読むまでもない。これは俺の芝だ。俺のコースだ。
「さて……」
ゆっくりとアドレスに入り、ワッグルをひとつ。
そして――
「……コーデリア様、ナイスインをお見せしましょう」
ストローク。
打ち出されたリンゴは、芝の上をコロコロと転がり――
コロンッ。
ちょうど植木鉢の中心に、吸い込まれるように落ちた。
俺は静かに、だが誇らしげに呟く。
「……バーディー、いただきました」
横で見ていたエミリアは、完全に引いていた。
だがいい。
これはただの異世界じゃない――
俺のゴルフライフ異世界編の、始まりなのだ。
シーン5:傾斜と芝と、ついでに婚約
――異世界での初ラウンドを終えた俺は、満足気に屋敷へと戻った。
左手には、自作の“Coredelia”パター。
右手には、かじった後のリンゴの芯。
そして顔には、まるでマスターズを制した男のような穏やかな微笑。
「お嬢様、お嬢様! お体の調子はもう大丈夫なんですか!?」
「お戻りに……! 本当によかった……!」
屋敷の執事たちが、安堵の表情で駆け寄ってくる。
その中央には、年配の執事――グレゴリーがいた。いかにも「長年仕えてきました」って感じのダンディ髭だ。
「お嬢様。お目覚めになられて何よりです。エミリアより話は伺いました。どうやら――記憶が、混乱されておられるとか」
「混乱……というよりは、転がってただけだな。いい芝だった。8フィートは出てる」
「……はい?」
俺は聞かれてもいないのに庭のグリーン状態を説明しながら、壁際のカーペットを指でなぞる。
「……こっちはやや寝てんな。芝目が効いてる。ベント芝じゃなくて、こっちはケンタッキーブルーグラス系か?」
「お嬢様……その、ご気分が優れないようでしたら、改めて医師を――」
「グレゴリー」
「はっ」
俺は神妙な表情を作り、真っすぐ目を見て告げた。
「屋敷に……傾斜計はあるか?」
「……は?」
静まり返る室内。
俺は畳みかける。
「いや、魔法でもいい。例えば“この地面の傾斜を視覚化”とか、“空気中の風の流れを可視化”とか、そういう魔法ないか? あと距離計測。レーザー式の」
「……」
グレゴリーが苦い顔をする横で、エミリアが小声で呟く。
「魔法って……そういう方向じゃないんですよね……」
そりゃそうだ。
だが、もしこの世界に魔法があるなら――ゴルフの道具として応用できないはずがない。
風読み魔法、傾斜表示魔法、距離計算、軌道予測、バックスピン制御――可能性は無限大だ。
「お嬢様……」
「ん?」
「……王子とのお見合いが、一週間後に迫っております」
「お見合い?」
「はい。第二王子フィリップ様との、婚約のお取り決めが――」
「……で、その庭の真ん中にある噴水だけどよ。あれ邪魔だから撤去してもらえる? あそこにグリーン作りてぇんだわ」
「話聞いてない!!」
エミリアが机に突っ伏す。
だが俺の興味はもう次のホールに向いていた。
世界より芝、魔法より傾斜。
これはそういう物語だ。
シーン6:魔法講義と、ゴルフクラブに宿る可能性
王都のコーデリア家は、貴族の中でも名門に属する。
よって、お嬢様である俺――もとい“今の俺”には、当然ながら魔法の個人教師が付いていた。
「それでは、本日は基礎魔法の訓練から始めましょう」
講師の名はウィンストン。中年のローブ姿で、いかにも“理論派魔導師”といった風貌だ。
「炎魔法〈ファイアボルト〉、風魔法〈ウィンドブレード〉……まずはこのふたつを小規模に展開することを目標としましょう」
「ほう」
「これらは魔法の素養を測るには最適で――」
「……風読みができるのか?」
「はい?」
俺は食い気味に尋ねた。
「風だよ風。ウィンドブレードっつったな? 風向きの変化、細かく感知できるのか? たとえば、左から1メートル先で風速2.3メートルの横風が吹いてた場合、曲がり幅は……いや、そのまま読めるならキャディいらなくね?」
「……風を斬る魔法です」
「風を斬る? 違う、読むんだよ。読んで、計算して、ボールを落とす位置を――」
「ボール……?」
ウィンストンの眉が八の字に曲がるのを感じながら、俺は指先を見つめた。
なるほど、魔力というやつは、こうやって集中すると集まってくるのか。
「炎魔法は?」
「〈ファイアボルト〉です。集中し、詠唱すれば――」
「スピンは?」
「スピ……?」
俺は真顔で語った。
「火球にバックスピンを乗せられるかどうか。それが問題だ。ちょっと打感変わるだけで、グリーン上の転がりに差が出るからな。フェースに魔法仕込めるなら、ラウンド後半でも安定するはずなんだよ」
「……お嬢様、何と戦っていらっしゃるのですか……?」
「芝と戦ってるんだよ」
呆れるエミリアと、無言でノートに何かを記すウィンストン。
たぶん“魔力はあるが方向性が異常”とか書かれてる。
「……ともかく。魔法が使えるのはわかりました。あとは応用だな。グリーンの傾斜を魔法で浮かび上がらせて……いやいっそ、自動傾斜調整機能付きの練習マットを作れば――!」
思いついた瞬間、俺は走り出していた。
目指すは、寝室のフローリング。
「お嬢様!? どこへ!?」
「静かに。今、最高のアイデアが降りてきた!!」
その夜、屋敷の一室で“魔法による自動傾斜調整機能付きパター練習マット”が試作された。
それを見たエミリアは言った。
「……このままじゃ、本当にグリーン付きで国外追放されそうですね……」
シーン7:芝と共に眠る者
夜のコーデリア邸は静まり返っていた。
だが、その一室――寝室の床だけが、奇妙な緊張感に包まれていた。
「……よし、傾斜2度、芝の密度は90%……硬さ、ちょい柔らかめか……」
魔法陣が床一面に展開され、淡い光と共に、見事なパター練習用人工芝が敷かれていく。
天蓋付きの豪奢なベッドの脇で、悪役令嬢コーデリア(中身は56歳・元サラリーマン)が正座し、手製のパターを構えていた。
「この感触……うん、悪くねえぞ。フェースの当たりはソフト寄り、だが転がりは素直。グレインは左から……よし、1カップ半外して――」
コツン。コロン、コロン……。
リンゴ製のボールが、完璧なラインを描いて、植木鉢カップに吸い込まれた。
「……ナイスイン。やっぱり、ゴルフに裏切られたことは一度もねぇな」
貴族令嬢の格好で、床に寝そべりながらラインを読む姿は、ある意味“ホラー”だった。
――そして、その様子をそっとドアの隙間から覗いていた者がひとり。
「……このお嬢様、何を目指しておられるのですか……?」
呟くメイド・エミリアの目は、どこか遠い世界を見つめていた。
この世界には“魔法”がある。
貴族には“義務”がある。
乙女ゲーム的には“婚約者との恋愛イベント”がある。
だが、この令嬢が追い求めているのは――ただひとつ、“理想のパター環境”だけ。
「やばい……このままじゃ、屋敷全体がグリーンにされる……!」
エミリアの戦いは、まだ始まったばかりだった。
──第1話・完。