悪役令嬢は復讐を選ばない ――それでも、世界は私を悪に仕立てた
「父上は、狂ってなどいなかった」
その言葉は、誰にも届かない。
処刑台の前、レティシア・ヴァルメリアはただ一人、沈黙の中に立っていた。
王都ヴァルメリアの空は、鉛のように重く垂れ込めていた。
群衆の罵声は、正義の名を借りた娯楽。
王太子の冷たい視線は、かつての愛情を完全に否定するもの。
そして、“聖女”クラリスの慈悲の仮面は、最も残酷な嘲笑だった。
レティシアは叫ばなかった。
涙も流さず、ただ静かに、父の最期と同じように、沈黙を貫いた。
――この世界は、真実を語る者を狂人と呼ぶ。
ならば私は、狂人として生きよう。
それが、父の遺した“理性”を守る唯一の方法なのだから。
その瞬間、彼女の中で何かが音を立てて崩れ、そして再構築された。
それは復讐ではない。赦しでもない。
“語らぬこと”によって、世界を欺くという選択だった。
処刑台から生還したレティシアは、王都の片隅にある古い屋敷に幽閉されるように暮らしていた。
表向きには「療養」、実際には「忘却」。
王族も貴族も、彼女の存在を“なかったこと”にしようとしていた。
屋敷には鏡がなかった。
誰かが意図的にすべてを外したのだろう。
だがレティシアは、窓に映る自分の影を見て、こう思った。
――これは、私ではない。
かつての自分は、王太子の隣で微笑み、父の理想を信じていた。
だが今、彼女の中には“沈黙”だけが残っていた。
ある日、屋敷の書庫で一冊の本を見つけた。
それは、父が生前に読み込んでいた哲学書だった。
ページの隅に、鉛筆でこう書かれていた。
「言葉は、時に真実を殺す。
沈黙は、時に真実を生かす」
その言葉が、レティシアの中で何かを決定づけた。
彼女は、語らないことを選ぶ。
復讐の言葉も、無実の叫びも、すべて飲み込んだ。
その代わりに、彼女は“観察者”となった。
王都の動き、貴族たちの噂、王太子の演説、聖女の布教。
すべてを記録し、分析し、沈黙の中で“劇”を構築していった。
そして一年後。
王太子と聖女の婚約が発表される。
舞踏会が開かれると聞いたとき、彼女は静かに立ち上がった。
「幕が上がるのね」
それは、復讐の始まりではなかった。
それは、“語られぬざまぁ”の開幕だった。
王太子アレクシスと“聖女”クラリスの婚約を祝う舞踏会。
それは、王国の“正史”を完成させる儀式でもあった。
その場に、レティシア・ヴァルメリアが現れたとき、空気が凍った。
「おや、レティシア様。まだこの都にいらしたのですね」
クラリスの声は、甘く、柔らかく、そして残酷だった。
まるで、彼女の存在そのものが“過ち”であるかのように。
「ええ。私はまだ、“物語”の終わりを見届けておりませんので」
レティシアは微笑んだ。
その笑みは、仮面のように完璧だった。
だがその奥には、誰にも見せぬ炎が静かに燃えていた。
彼女は知っている。
この舞踏会は、ただの祝賀ではない。
“正史”を固定し、“異端”を完全に排除するための舞台装置だ。
そして彼女は、その舞台に“狂人”として立つ覚悟を決めていた。
「本日、特別に一幕劇をお届けいたします」
「題して――《沈黙の王》」
舞台に現れたのは、かつて“悪役令嬢”と呼ばれた女、レティシア・ヴァルメリアだった。
黒のドレスに身を包み、仮面をつけたその姿は、まるで“真実を語る亡霊”のようだった。
劇は、かつて理想を掲げた王が沈黙を選び、処刑されるまでの三日間を描く寓話。
登場人物は三人。沈黙の王、道化、そして影(王の良心の化身)。
【沈黙の王】
「私は語らぬ。語れば、民は混乱し、血が流れる。
だが語らねば、偽りが王座に座る。
ならば私は、沈黙の中に真実を埋めよう」
【道化】
「王よ、なぜ語らぬ? 沈黙は、真実を埋める墓か?」
「いや、沈黙は、真実を腐らせぬための氷室だ」
【影】
「語らぬことは、逃避か、誇りか。
お前の沈黙は、誰に届く?」
【沈黙の王】
「届かずともよい。
私は、理解されるために語るのではない。
残すために、沈黙するのだ」
最後、王は処刑台に立ち、何も語らずに首を差し出す。
だがその沈黙が、後に“真実の証”として語り継がれる――という結末。
その瞬間、レティシアは仮面を外し、観客席を見渡す。
その視線は、まっすぐに王太子アレクシスと聖女クラリスを射抜いていた。
彼女は何も言わない。
だが、その沈黙こそが、最も雄弁だった。
アレクシスは、椅子の肘掛けを強く握りしめていた。
冷や汗が背中を伝う。
彼は理解していた――この劇は、父を見殺しにした自分への告発だ。
「これはただの寓話だ。そうだ、寓話にすぎない……」
そう自分に言い聞かせる。
だが、レティシアの沈黙が、彼の心の奥底に突き刺さる。
「あなたは、語らなかった。
だからこそ、あなたの沈黙は“共犯”なのよ」
彼女の目がそう語っていた。
アレクシスは、初めて自分の沈黙が“罪”であることを知った。
クラリスは、微笑みを崩さなかった。
だがその手は、ドレスの裾を握りしめ、爪が白くなるほど力が入っていた。
「これはただの劇。私のことではない。
私の“聖性”は、民が望んだもの。私は何も悪くない」
私は語らない。
語れば、彼らは言い訳を始める。
語れば、真実は“私の主観”として処理される。
だから私は、沈黙する。
その沈黙の中で、彼ら自身に“気づかせる”ために。
舞台の幕が下りる直前、レティシアは観客に向かって静かに言った。
「この物語に、真実があるかどうかは――あなたが決めなさい」
「私は、ただ沈黙を選んだだけ」
「それが、私のざまぁよ」
深く一礼し、彼女は舞台を去った。
拍手はなかった。
誰も声を上げなかった。
ただ、沈黙だけが、そこにあった。
だが、観客のざわめきが耳に刺さる。
「まさか……」「あの劇、王太子と聖女のことでは……?」
彼女は気づく。
“正史”という名の仮面が、今まさに剥がれかけていることを。
そして、レティシアの沈黙が、
自分の“語られた虚構”を静かに崩していくことを。
数日後、王都はざわめいていた。
《沈黙の王》の内容が密かに広まり、
王太子と聖女の“正史”に疑念が生まれた。
「聖女は、王政の正当性を保証するために作られた偶像ではないのか」
「王太子は、父の死を黙認していたのではないか」
「レティシア・ヴァルメリアは、本当に“悪役”だったのか?」
民衆の支持は揺らぎ、
クラリスは“偽聖女”として告発され、
アレクシスは退位を余儀なくされた。
王政は崩れ、王国は混乱の渦に飲まれた。
──
退位後、アレクシスは王都を離れ、辺境の屋敷に幽閉された。
彼は何も語らない。
だが、夜ごと夢に見るのは、沈黙の王の処刑台と、
あの劇でレティシアが向けた“何も言わぬまなざし”だった。
「私は、語らなかった。
だから、私は“共犯者”だったのだ」
その言葉を、彼は誰にも言えない。
彼の沈黙は、もはや“誇り”ではなく、“呪い”だった。
──
クラリスは、聖女の称号を剥奪され、
民衆の前で“偽りの奇跡”を演じた罪を問われた。
彼女は叫んだ。
「私は、信じていたの!
私が“聖女”であることを、誰よりも信じていたのよ!」
だが、その声は誰にも届かない。
彼女の言葉は、もはや“真実”ではなく、“演技”としか受け取られなかった。
沈黙の劇が、彼女の“語る力”そのものを奪ったのだ。
王政が崩壊したあと、王都は混乱に包まれた。
だがその混乱の中で、静かに、しかし確かに新たな秩序が芽吹いていた。
それは、誰か一人の“血筋”や“神託”によって支配されるものではない。
言葉ではなく、行動と記録によって築かれる、理性の共同体。
その中心に立ったのは、かつて“悪役令嬢”と呼ばれた女――レティシア・ヴァルメリア。
彼女は王座に座らなかった。
代わりに、円卓の中央に席を設け、すべての議論を“記録”と“証拠”に基づいて進めた。
それは、父がかつて夢見た「理性の国」の実現だった。
──
ある夜、評議会の会議が終わったあと、レティシアは書庫で一人、古い戯曲を読み返していた。
《沈黙の王》。
あの劇が、すべての始まりだった。
「まだ、その本を読んでおられるのですね」
声をかけてきたのは、彼女の右腕――ユリウス・グレイ。
父の元部下であり、今は評議会の筆頭補佐官。
「ええ。何度読んでも、結末が変わらないのが不思議で」
「ですが、あなたは結末を変えました。
沈黙の王は処刑されましたが、あなたは……生きて、語らずに勝った」
レティシアは微笑む。
「勝ったのではないわ。
ただ、“語らなかった”という選択が、誰かの心に届いただけ」
ユリウスは一歩近づき、静かに言った。
「あなたが愛を拒むなら、私は忠誠を捧げましょう。
それが、あなたの孤独を少しでも和らげるなら」
レティシアは、しばらく黙って彼を見つめた。
そして、そっと本を閉じた。
「それは、愛よりも誠実ね。
……ありがとう、ユリウス」
──
レティシアは誰の腕の中にもいない。
だが、彼女の沈黙は世界を変えた。
それこそが、彼女にとっての幸福だった。
そして、彼女の物語は終わらない。
語られぬ真実は、沈黙の中に宿り、
やがて誰かの声となって、未来に届く。
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