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1.いざ劇場へ


 今日もまた、夜が訪れる。

 私はウィリアムと共に、オペラ座へ向かう馬車に揺られていた。


 ルイスと庭園で二人きりで話をしたあの夜、部屋に戻った私は再びウィリアムと同じベッドで眠り、静かに朝を迎えた。

 あれから三日。ルイスはそれまでと何ら変わりない様子で私に接してくる。まるであの夜のことなど無かったかのように。

 けれどあれは決して夢ではなかった。

 エリオットが生きているかもしれないという言葉も、もうすぐ自分は死ぬという悲痛な告白も。

 時が経つ程に、それらは(おり)のように私の中に溜まり、心を締め付けていく。


 当初はルイスとここを去るつもりだった。ウィリアムとの思い出を大切に胸にしまって……彼の前から姿を消すつもりでいた。けれど、その道は閉ざされた。

 ルイスは最初から私をここに残すつもりだったのだろう。

 二カ月前の契約……あれはきっと、私がウィリアムと向き合うようにさせるためだけのもの。

 きっとルイスは、そのころからエリオットのことを知っていたのだ。その名前は知らずとも、彼の存在に気付いていた。

 その上で私にウィリアムを愛させ、記憶を呼び覚ますように仕向けた。

 そして彼の思惑どおり、私は千年前の記憶を夢に見た。忌まわしい、思い出したくもないあの日の記憶を――。


 ――ルイス。あなたはいったい誰なの?

 私の千年の記憶のどこにもいないあなたが、アーサー様が、すべての原因ってどういう意味なの? 真実って、いったい何?


 考えてもわかるはずがない。それでも、考えずにはいられない。

 今の私は確かにウィリアムを愛している。けれど、もしルイスが言ったようにエリオットが目の前に現れたら、私はウィリアムを選ぶことができるだろうか。

 どちらかだけを選ぶなんてことが、本当にできるのだろうか。


「…………」

 ふと顔を上げれば、こちらを案じるようなウィリアムの瞳と視線がぶつかった。

「アメリア、やはりまだ身体の具合が良くないんじゃないのか。今からでも屋敷に戻ったっていいんだぞ?」

「――ウィリアム」

 いけない。ウィリアムの前でこんなことを考えるのは止めよう。彼をこれ以上心配させてはいけない。

 それに今夜はカーラ様に会えるのだ。笑顔でいなければ。

 私は努めて明るく微笑んでみせる。

「本当にもう大丈夫よ。あまり心配されすぎても困るわ」

 その言葉に、ウィリアムは真顔で目を細めた。

「わかってはいるんだ。――しかし……」

「私、昔から身体は丈夫なの。実際、熱だって一晩で下がったでしょう?」

「確かにそうだが……。なら、具合が少しでも悪くなったらすぐに言うんだぞ。何かあってからじゃ遅いんだ。今日はルイスもいないし、オペラ座に医者はいないから――」

「ウィリアム。本当に大丈夫だから」

「――っ」

 私は彼の言葉を遮って、唇に人差し指を立てる。

 するとウィリアムはようやく口を(つぐ)み、気まずそうに視線を泳がせた。

 その表情がなんだかおかしくて、私は思わず吹き出してしまう。

「もう、ウィリアムったら。そんなに私のことを心配してくれるのなら、ずっと隣にいてちょうだいね」

 そう言って悪戯っぽく微笑むと、彼は一瞬驚いた顔をして、次いで艶やかに目を細めた。

 ふわりと彼の腰が座席から浮き、白手袋をした右手が私の後頭部に回される。

 彼の甘い笑顔が、眼前に迫る。

 そして私の唇を、音もなく塞いだ。


 *


 しばらくすると、馬車はゆるりと速度を落とし、オペラ座の正面玄関前に止まった。

 私はウィリアムのエスコートで馬車から降り、荘厳な造りの劇場に足を踏み入れる。

 王都一の劇場なだけあり、中は王宮にも引けを取らない絢爛豪華な造りをしていた。深みのある赤と金色で統一された壁と柱。高い天井から下がるいくつものシャンデリアが、眩いばかりに玄関ホールを照らしている。

 ――それにしても。

「人、多いわね……」

 ここ数年はほぼ引きこもりの生活を送っていたからか、ここが人の多く集まる場所だということをすっかり忘れていた。正直、私は人混みが苦手なのだ。

「そうだな。この劇場の客席数は三千を超えるし、今夜のソプラノはアイリーンだ。立見席まで満席だろう」

 そう言って、少し困ったようにウィリアムが笑う。

「そう言えば俺はまだ君のことを何も知らないな。君はオペラが好きなのかと思っていたが、その様子ではそうでもなさそうだ。劇場にはあまり来たことがないという顔をしている」

「ええ、そうね。オペラは好きなのだけど、自分が人の多い場所が苦手だってことを忘れていたの。でも、今夜はあなたが一緒だから平気よ」

「――っ」

 私の言葉に、ウィリアムの口元が緩む。

 その頬が、シャンデリアの光の下で微かに赤く染まったような気がした。

「そう、か」

「ふふっ。あなた、照れてるの?」

「君があまりにも率直だから」

「でも、本当のことだもの」

「…………」

「……ウィリアム?」

「いや、何でもない。……とにかく、まずはエドワード達と合流しよう」

「そうね。カーラ様にも早く会いたいし」

「ああ」


 こうして私はウィリアムにエスコートされ、赤い絨毯を進んでいった。

 ホールへと続く階段は全部で三つ。一つは入口正面に、他の二つは正面階段を通り過ぎた突き当りの左右にある。

 カーラ様たちとの待ち合わせ場所は右階段の前だ。


 突き当りを右に曲がると、階段を挟むように開けたラウンジの壁際に三人が立っていた。

 ここまで来れば人影も疎らだ。開演まで三十分を切った今、殆どの観客はラウンジに留まることなく階段を上がって行ってしまうからだ。


「アメリア様!」

 私たちに気が付いたカーラ様が、ぱっと顔を輝かせて駆け寄ってくる。

 フリルのあしらわれた薄桃色のドレスが、彼女の可憐さを引き立ててとても可愛らしい。


「今日は来てくだって本当に嬉しいですわ!」

 華のような明るい笑顔。まっすぐに私を見つめる素直な眼差し。

 そんな彼女の姿に、私の頬が自然と緩む。

「はい。こちらこそお招きいただき、本当にありがとうございます」

「――! アメリア様、お声が……!」

「ええ、そうなんです。二日前に。本当にご心配をおかけしてしまって……でも、これでカーラ様と沢山お話できますわ」

 にこりと微笑むと、カーラ様の瞳が大きく揺れた。

 次の瞬間、彼女は人目も(はばか)らず私に抱き着いた。

「アメリア様……! 本当に……本当に良かったですわ!」

 私の胸にすがりついて、声を震わせるカーラ様。

 そんな彼女をそっと抱きしめながらウィリアムに視線を向けると、彼もまた安堵のため息をついていた。

 私たちは知っている。

 私が川に落ちて声を失ったあの日から、彼女はずっと自分を責めていたことを。自分を庇ったせいで私の声が出なくなってしまったのだと、ずっと後悔していたことを。


「カーラ様、本当にありがとうございます。これからも、どうか仲良くしてくださいね」

 顔を覗き込むと、彼女はぐすっと鼻をならして、こくりと小さく頷いた。

「勿論ですわ!」

 涙混じりの、けれど心からの笑顔。

 しかし、そんな感動的な空気を読まないのがエドワードとブライアンだ。

 二人の態度は、なんらいつものと変わらない。

「おお、アメリアの声が戻ってる」

「本当だ」

 などと言いながら、緩い笑顔を浮かべている。

「あなたたちは相変わらずね」

 この二人はいつだって変わらない。私が声を出せなくなり、そのお見舞いにきたときも、二人は顔色一つ変えなかった。

 それに二人は私に何も聞かなかった。あれほど社交界を避けていた私がウィリアムと婚約した理由や、私が態度を変えた理由も、彼らは深入りしてこない。

 それはきっと、二人なりの気遣いなのだろう。そんな彼らだからこそ、私は再び友人として付き合うことができているのだ。


 それにしても――今夜もまた、全く同じ服装だわ。

 紺ベースのタータンチェックのスーツに身を包んだ二人は、ネクタイの色こそ違うが、どちらがどちらかわからない程にそっくりだ。

「あなたたち、今日はプライベートじゃないの? 同じ格好をするのは社交だけじゃなかった?」

「――ん? ああ。まぁそうなんだけど、こういう場所は知り合いが多いからさ」

「そうそう。会いたくない知り合いが大勢いる」

 この二人、普段は各々好きな服を着ているのだが、公式な場では必ずといっていい程お揃いのファッションで攻めてくる。つまり、この二人にとって劇場は「戦場」ということなのだろう。

 貴族の世界は狭い。見知った顔を見かけたらプライベートだろうと声をかけるのが礼儀である。

 それを回避するため、二人は同じ服装をし、お互いに成りすますのだ。

 それはこと恋愛についても例外ではない。

 二人は際立った特徴はないけれど、顔立ちもスタイルも整っている侯爵家の令息だ。女性たちが放っておくはずがない。実際に私はこの二カ月の間に、二人を慕う女性が多くいることを知った。

 けれど当人らは結婚に興味がないらしく、敢えて服装を揃え、お互いに成り代わって女性の誘いを断るのだ。

 かつて夜会でその現場を目撃した私が理由を尋ねると、彼らは悪びれもなく言ったものだ。「女性に名前を呼ばれたら、それは自分ではないと言うんだ。そうすると大抵は向こうから引いてくれる」と。

 さすがの私も呆れたが、彼らには彼らなりの苦労があるのだろう。


「そんなに面倒な場所なら、来なくてもよかったのに」

「――うわ。その棘のある言い方、健在だな。しょうがないだろ、うちのボックス席に招待するわけだし。カーラ一人じゃ行かせられない」

「そうだよ、保護者がいるんだよ。――にしても懐かしいよな。最近の君はすっかり丸くなったと思ってたけど、そんなことなかったな」

 そう言って、どことなく嬉しそうに笑う二人。

 これが彼らなりの喜び方なのだと、私はちゃんと知っている。

「っていうかカーラ。お前いつまで泣いてるんだよ。化粧が落ちるぞ」

「な……っ、嘘言わないで! 泣いてませんわ!」

 エドワードの言葉に、私に抱き着いていたカーラ様が顔を上げた。

「そうかー? お前は昔っから泣き虫だからな。アメリアのコートを汚すなよ」

「そっ、そんなことしませんわ! いつまでも子供扱いするのはやめて!」

「いや、そう言われてもな」

「実際まだ子供だろ」

「子供ではありませんわ! もう十六ですもの!」

 こんな場所にも関わらず、妹をからかい始める二人。

 さすがに時と場所を選んでほしい。――そう思うと同時に、ウィリアムが呆れたように言い放つ。

「お前たち、こういった場所ではよさないか。誰が見ているかわからないんだ」

「――あぁ、そうだった。悪い悪い」

「つい――な」

 そして二人はいつもの様に顔を見合わせると、にんまりと悪戯っ子のような笑みを見せた。

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