2.真夜中の庭園で(前編)
――ああ……温かい。それに、なんだかとても安心する。どうしてかしら……。
そう思って瞼を開くと、そこにあったのはウィリアムの胸板だった。
「ウィリアム……?」
私はベッドに横たわった状態で、ウィリアムに抱きしめられていたのだ。
彼の静かな寝息が、私の耳元をくすぐる。その状況に、混乱する私の思考。
「……ええっと」
どうして、彼がここに?
混乱する頭で記憶を辿る。そうだ、私は確か熱を出して……。
彼を起こさないよう、慎重にその腕をすり抜ける。
身体を起こすと、あれほど酷かった頭痛は嘘のように消えていた。熱もすっかり下がっている。
私はベッドを降り、カーテンの隙間から外の様子を窺った。
窓の外は既に夜の闇に沈んでいる。空には煌々と輝く月だけが冷ややかに浮かんでいた。その光を見上げた途端、先ほどまで見ていた夢の残滓が脳裏に蘇る。
エリオットと過ごした、幸せな日々。
けれど、その結末は私の記憶とは異なっていた。
「……おかしいわ」
夢の中で私は、森を包む赤い炎に巻かれ、死んでいった。だが、そんな記憶は私の中にはない。私が覚えているのは、エリオットが目の前で殺されたことだけだ。
それなのに、なぜあんな夢を?
「先に死んだのは、私の方……?」
まさか、私の記憶の方が間違っているとでもいうのだろうか。私がエリオットを置いて、自ら死を選んだと?
千年もの間、私はあの日の記憶を封印してきた。そのせいで、記憶が摩耗し、変質してしまったのだろうか。
答えは出ない。
胸のざわめきを抑えようと、私は窓の外へ視線を戻した。
その時、暗い敷地内を歩く人影が目に入る。
闇夜に溶け込むような黒い姿。あれは紛れもなく――。
「……ルイス?」
こんな時間に、どこへ行っていたのだろう。
不審に思うと同時に、ある考えが浮かぶ。彼なら、この不可解な夢の意味を知っているかもしれない。
私は羽織を掴むと、静かに部屋を抜け出した。
*
使用人用の裏口を出たところで、ちょうど戻ってきたルイスと鉢合わせた。
彼は私に気づくと、驚いたように足を止める。
「……あなたでしたか」
ルイスは小さく溜息をつく。
「このような時間にどうされました? お加減はもうよろしいのです?」
彼は私をじっと見下ろす。漆黒の瞳が、一瞬だけ揺れたような気がした。
「ええ。もう熱は下がったわ」
私が答えると、彼は「ああ」と小さく声を上げる。
「声、戻られたのでしたね。良かったです」
けれどその声はあまり嬉しそうではない。というより、心ここにあらず、といったところか。いつも完璧な彼にしては珍しい。
もしやこんな真夜中に出かけていたことに理由があるのだろうか。
「あなた、こんな時間にどこに行っていたの?」
「…………」
私の問いに、躊躇うように俯くルイス。
彼は視線を夜空へと逃がし、輝く月を見上げたまま、唐突に言った。
「少し……歩きませんか?」
「え……こんな暗い中を?」
「ええ。多少の夜目は利くでしょう?」
「それは……そうだけど」
――何だろう。やっぱり様子がおかしい……。
私はルイスの横顔に形容しがたい不安を感じながら、「いいわ」と小さく呟いた。
*
月明かりに照らされた広い庭園を、二人並んで歩く。
常人なら足元もおぼつかない暗闇だが、私たちには昼間のように見通すことができた。
庭の中央まで来たところで、ルイスの足がふいに止まる。
「どうしたの?」
私が尋ねると、彼はゆっくりとこちらを振り返った。
夜風が、彼の黒髪をさらりと揺らす。
「ウィリアム様から、お心が通じ合ったと聞きました」
「…………」
「あなたは僕に、何か聞きたいことがあるのでは?」
核心を突く言葉に、私は息を呑む。
やはり彼は知っているのだ。私がウィリアムと結ばれた直後に見た、あの不可解な夢の意味を。
「……私、夢を見たの。千年前に、私が死んだときの夢……。でも覚えが無いの。そんな記憶、私の中にはどこにもないのよ。あれはただの夢だったのかしら。私の作り上げた、ただの夢だったのかしら。――それとも……」
私の言葉に、ルイスが一歩、こちらへ近づく。
月の光を背負った彼の表情は影になって見えない。ただ、漆黒の双眸だけが妖しく光っていた。
「夢ではありませんよ」
冷ややかな声。
「決して、夢ではありません」
彼から放たれる冷たい重圧に、思わず後ずさる。
あの契約のときと同じ、底知れない闇の気配。けれど、私はもう逃げないと決めたのだ。
「どうしてそんなことがわかるの? あなたは本当に、何者なの?」
私の問いかけに、ルイスは目を細め――静かにその名を紡いだ。
「エリオット」
「――っ」
心臓が跳ねた。
それは、私が誰にも話したことのない、かつての恋人の名前。
「……どうして、その名前を」
「さぁ、どうしてでしょうね。――なんて、意地悪をするつもりはありませんよ。アメリア様、どうぞこれを」
ルイスが右手を差し出す。
その掌に乗っていたものを見て、私は言葉を失った。
月光を弾いて鈍く輝く、二本の銀色の髪飾り。
一本は昼間、私がニックの太ももに刺したもの。そしてもう一本は――。
「……これ」
刹那、背筋が凍り付く。
もう一本は、そう。私を襲ったあの男の背中に、私が突き立てたはずのものだ。
なぜ、ルイスがこれを?
「あの男には、あなたを傷つけた相応の報いを受けて貰いましたよ」
「……っ」
――それは、殺したと……そういうこと?
ルイスの口がにやりと歪んだ。けれどもう私は、そんなことでは驚いたりしない。
「その男とエリオットに……何の関係があるのよ」
震える声で問いただす。ルイスの表情から、すっと感情が抜け落ちた。
「その男が言ったのですよ。あなたを襲うように指示したのは、『エリオット』という男だと」
「――ッ!」
「やはり、そうなのですね。エリオットとは、かつてのウィリアム様の名前なのですね」
ルイスの瞳が、探るように揺らめく。
「そんな……あり得ないわ。だって私、誰にも彼の名前を教えたことがないのよ。千年の間、ただの一度だって! なのに今さら……誰が、何の目的で彼の名前を語る必要があるっていうのよッ!」
「あり得ない? あなたがそれを言いますか? それを言うなら僕らの様な存在こそあり得ない。それに、誤解しないでください。僕は、誰かがその名前を語っているのだと言っている訳ではありません」
「――ッ」
ルイスの声が、低くなる。
「僕は、エリオットが生きているのでは、と言っているんですよ」
「――そん……な。それこそ……それこそ有り得ないわ! だってそしたら、ウィリアムは? 彼の魂は確かにエリオットのものなのよ! それは間違えようの無い事実だわ!」
もしエリオットが別に存在するとしたら、私が愛したウィリアムは何者だと言うの?
動揺して取り乱す私を、ルイスはどこまでも静かに見つめていた。
「アメリア様、落ち着いて聞いてください。あなたの夢――そこに答えがあるはずです。あなたとウィリアム様の距離が縮まれば、おのずと答えは見えてくるはず。思い出してください、アメリア様。そうすれば僕が、あなたをそこから解放して差し上げます」
ルイスは悲しげに、けれど慈しむように微笑む。
「ウィリアム様か、エリオットか。どちらが本物で、あるいはどちらも偽物なのか……それだけは僕にもわからない。あなたにしか、知ることができない真実です」
「どういうこと? あなたは何を言っているの? ウィリアムが偽物かもしれないですって? どうしてそんなことがわかるのよ!」
悲鳴のような私の問いに、ルイスは答えない。
ただ、その瞳に深い哀愁を滲ませて、黙って私を見つめ返すだけ。




