1.真夜中の企て
夜の帳が静かに街に降りていく。
月明かりの届かぬ暗い路地裏。漆黒の外套を目深に被った人影――ヴァイオレットは、足早に石畳の上を進んでいた。
懐には小瓶に入った毒薬、そして護身用の短刀。
不意に、彼女の足が止まる。曲がり角の先から漏れ出る、薄暗いランプの光。
彼女は壁に背を預け、息を殺してそっと様子を窺った。
崩れかけた石壁の前で、一人の男が座り込んでいる。間違いない、標的だ。
確認した瞬間、ヴァイオレットの唇が弧を描く。
彼女は被っていたフードを払い、豊かな髪を夜風にさらすと、先ほどまでの忍び足を捨てた。
カツ、カツ、と。あえて高くヒールの音を響かせて、男の前へと姿を現す。
「――誰だ」
男の鋭い声と共に、殺気立った視線が飛んでくる。
だが、ヴァイオレットは怯える素振りも見せない。それどころか、安堵のため息を一つ吐いてみせた。
「あぁ、良かった。人がいらしたのね。少し、道をお尋ねしたくて」
警戒する男へ、無防備を装って歩み寄る。
「――あぁ? こんな吹き溜まりで迷子だと? 寝言は寝て言え」
男は地面に座り込んだまま、不機嫌そうに舌打ちをした。
だが次の瞬間、ランプの光に照らされた彼女の顔立ちを見て、男の目が卑俗な光を帯びて細められる。
「……へぇ」
男は足元の酒瓶を掴むと、残っていた中身を乱暴に喉へ流し込んだ。
空になった瓶を放り投げ、下卑た笑みを浮かべる。
「あんた、知ってるぜ。ヴァイオレット・フラメルだろう」
その名が呼ばれた瞬間、ヴァイオレットの表情が一瞬強張った。
「あら。わたくしをご存じなのね」
「そりゃあな。この界隈で知らねェ奴はいねェよ。王子様をパトロンにして贅沢三昧……流石、元『お貴族様』は商売がお上手だ」
嘲笑を含んだ男の言葉。
しかし、ヴァイオレットは優雅に首を振る。
「今の、誉め言葉として受け取っておきますわ。けれどその名前は、とうの昔に捨てましたの」
「へェ、そうかよ。なら今は何て名だ?」
「ヴィオレッタ――とでも呼んでいただこうかしら」
彼女は艶やかに微笑む。
「……なるほど。確かに『道を踏み外した女』だな」
「ふふ、そうでしょう? ――ねぇ、わたくし、あなたにお聞きしたいことがあるの」
「フン。その為にわざわざ一人でおいでなすったか。……ま、内容によっちゃ答えてやってもいい。が、礼は弾んでくれるんだろうな?」
「ええ、勿論。言い値をお支払い致しますわ」
「ハッ、金か。生憎と金には困ってねェんだわ」
男はゆらりと立ち上がると、ヴァイオレットの逃げ場を塞ぐように立ちはだかった。
荒れた指先が彼女の手首を掴み、壁際へと追い詰める。
酒と汗の臭いが鼻をつく。だが、ヴァイオレットの仮面は崩れない。
「金はいらねェが……なァ?」
男の顔が眼前に迫る。
ヴァイオレットは抵抗しなかった。それどころか、待ち望んでいた獲物を見るように、くすりと微笑んだ。
「では――一晩、わたくしのお相手をしてくださる? 退屈はさせませんわ」
「交渉成立だな」
男の口角が吊り上がる。
ヴァイオレットは妖艶に目を細め、吸い寄せられるように男の唇へと口づけた。
*
凍てつくような月光が、石畳の街を青白く染め上げている。
街外れにある一軒のパブ。扉を開けると、紫煙と酒精の混じった空気がヴァイオレットを包み込んだ。
客はまばらだ。彼女は濡れたような黒い外套を脱ぎ、左手に抱えながらカウンターへと進む。
目指す男の、二つ隣の席へ。
「いつものを」
バーマンに短く告げると、程なくして血のように赤い液体の入ったグラスが置かれる。
ヴァイオレットはバーマンが厨房へ消えるのを見届けてから、ふぅ、と小さく息を吐いた。
「――全て、滞りなく」
独り言のように呟き、胸元から銀色に輝く髪飾りを取り出す。
テーブルの左端、男に近い側へそっと置いた。
瞬間、隣から伸びた蒼白い手が、その銀細工を攫っていく。
男の姿は、影そのものだった。
夜よりも深い黒の衣服。髪も、瞳も、この国の人間が持ち得ない不吉な漆黒。――ルイスは奪った髪飾りを弄ぶこともなく、無造作に胸の内ポケットへ滑り込ませた。
「それで?」
抑揚のない声が先を促す。
「エリオット――と、申しておりましたわ」
「エリオット?」
「ええ。偽名でしょうけれど、探しても無駄という口ぶりでしたわ。……心当たりは?」
問いかける彼女の視線に、ルイスは一、二秒、虚空を見つめた。
思考の海に沈み、すぐに浮上する。
「ありませんね。……ですが、そうですか。エリオット、と」
「…………」
「これは私への宣戦布告でしょう。やはりあちらは、私の正体に気付いているとみて間違いない」
ルイスの唇が、三日月のように歪む。
「だが……どうやらそのエリオットとやらは、私のことを少々誤解しているようだ」
楽しげですらあるその横顔に、ヴァイオレットの背筋が粟立つ。
得体の知れない怪物。
けれど、だからこそ彼女はこの男に従っているのだ。恐怖と、それを上回る渇望のために。
ルイスは酒には口をつけず、視線だけで彼女を射抜く。
「あの方の様子は」
「変わりありませんわ。少しずつですが核心に近づきつつあります。最近は王立図書館に入り浸りで……神話の話が効きましたわね」
「それは良かった。では引き続き監視を。彼が『目覚める』その時まで」
「承知しております」
会話が途切れる。グラスの縁を指でなぞりながら、ヴァイオレットは迷いを振り払うように口を開いた。
「……一つ、お尋ねしても?」
「何でしょう」
「……お返しされたのですか、あの方のお心を」
「ええ。それが何か?」
「お言葉ですが、時期尚早ではありませんこと? このままではあの方は命を落とされることとなりましょう?」
「そうですね。これまで通りの運命ならば、死は免れないでしょう」
「……っ」
あまりに淡々とした物言いに、ヴァイオレットは言葉を詰まらせた。
人の命を、主の命を、まるでチェスの駒のように語るその冷徹さ。
「それでも……あなたは……。十五年も側にいて、何とも思わないんですの?」
震えそうになる声を、グラスを握る手に力を込めて抑え込む。
ルイスは、煩わしげに微かに息を吐いた。
「今さら何を。あなたには既に伝えたはずです。殿下の幸福を願うなら、速やかに計画を進めなければならないと」
「ええ。それは勿論……理解しておりますわ」
「でしたら、余計な思索は不要です。彼のためなら他の何を犠牲にしても構わない――そう誓ったのはあなたの方だ。私の言う通りに動いてくれさえすればいい」
「…………」
責めるような、それでいて赤子を諭すような声音。反論を許さぬその響きに、彼女は唇を噛んで押し黙った。
椅子が軋む音がして、ルイスが立ち上がる。
「では。私はお先に」
背を向け、店を出ようと一歩踏み出し――不意に足を止めた。
振り返りもせず、背中越しに言葉を投げる。
「一つ言い忘れていました。あなたの右腕の袖口、汚れていますよ」
「――っ」
弾かれたように右手を返し、袖口を見る。上質な生地に、赤黒い染みがべっとりと張り付いていた。
――うっかりしていた。路地裏で男を仕留めた時の返り血だ。
ヴァイオレットはごくりと息を呑み、背後を振り返る。
だが、そこにはもう誰の姿もなかった。ただ開いたままの扉から、夜風が冷たく吹き込んでくるだけだった。




