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3.追憶――燃え盛る業火







 燃える――燃える――燃え上がる。







 真っ黒な闇夜とせめぎ合うように、赤い赤い火柱が辺り一面を覆い尽くしていた。


 あんなに美しかった森が……木々が……草木が……大きな炎に包まれて、ごうごうと酷い音を上げながら瞬く間に朽ち果てていく。



 わたしの、庭が……消えていく。



「――あ、……あぁ……」



 わたしはそれをなす術もなく、ただ見つめていることしかできなかった。燃え盛る炎の真ん中で湖のほとりにへたり込み、一歩も動くことができなかった。



「ごめんなさい、エリオット……」



 約束したのに。あなたの側にいるって、約束したのに……。あなただけのものでいるって、約束したのに……。



 わたしは羽織った薄い毛布の下の汚された身体を、両腕で強く抱きしめる。


 まだ昼間の――見知らぬ兵士たちから受けた――おぞましい感覚が残っていた。


 こんな姿、彼には絶対に見せられない。見られたく……ない。



「ごめんなさい、……ごめん、なさ……」



 背後から襲い来る黒煙。足元には火の粉が飛び散り、わたしの素足を焼き焦がした。ただれた皮膚から血が滲み、痛くて痛くて、もう一歩も歩けない。


 けれどそれ以上に痛いのはわたしの心……。無数の針に突き刺されたように痛む、わたしの心――。


 叫びたいのに叫べない。泣きたいのに、泣けない。

 痛いのに……苦しいのに……それ以上に、エリオットに合わせる顔がなくて……。



「……ごめん、なさい」



 茫然と顔を上げれば、赤い火柱の隙間から、黒い絨毯のような漆黒の夜空にぽっかりと穴を空けたような白い月が覗いていた。


 それだけは、わたしの知っているいつもの景色で……。あの日エリオットと眺めた、美しい月が思い出されて……。


 思わず涙が溢れてくる。――けれど、それさえも熱風が一瞬で乾かしてしまう。



「……泣くことも、許されないのね」



 わたしの全身を赤い炎が包み込む。


 一歩踏み出せば、美しい月を映した湖の水が身体を癒やすだろうに――ここに浸かってしまえば、この焼けるような熱さから逃れられるとわかっているのに――わたしは、少しも動けない。


「…………」


 太ももに伝う生温かい液体が、心を黒く黒く塗りつぶす。


 ――気持ち悪い、……気持ち、悪い。今すぐ死んでしまいたい。


 こんなことになるのなら、あのとき舌を噛み切って死んでしまえばよかった。

 けれどそうしなかったのは、エリオットの顔が浮かんだから――。彼の悲しむ顔が、脳裏をよぎったから……。


 でも、結局こんなことになるのなら――どうせ死んでしまうとわかっていたのなら、綺麗なまま死んでしまいたかった。こんな苦しい思いしないで、彼のものであるうちに、死んでしまえば良かった。



「……ごめん……なさい」



 もう、それしか出てこない。


 汚い……汚い、汚い、汚い。こんな、自分。あの男たちを憎むことすらもうできない。ただ苦しい、ただ――消えたい。全部、忘れてしまいたい……。全て……全て……。



「ごめんなさい……エリオット」



 ――あぁ、わたしは何のために生まれてきたのだろう。何のために今まで必死に生きてきたのだろう。数時間前までは幸せだったはずなのに……。昨夜だってエリオットに抱かれて、本当に幸せだったのに、こんなに……簡単に崩れ去る。


 わたしはどうして生まれてきたのだろう。彼を苦しめるために生まれてきたのだろうか。わたしを愛した彼は、わたしが死んだらどれほど辛い思いをするのだろうか。きっと、想像もできないほどに苦しい思いをするのだろう……。


 けれどわたしはもう――生きることを選べない。



「……さようなら、エリオット」



 ごめんなさい、ごめんなさい。わたし、もしももう一度生まれ変われたら、きっとあなたに会いに行くわ。今度こそ、こんなことにはならないように――もっと強くなって、あなたの側にいられるように頑張るから……だからどうか、弱いわたしを、許してね。



 ――意識が遠のく――。


 喉が焼けるように熱くて……もう、声も出せない。


 わたしは土の上に横たわると、滲んだ白い月を見上げ……エリオットの笑顔を思い出しながら……精いっぱいに……ほほえんだ。







 ――声が聞こえる。


 燃え盛る炎の中で、愛しい彼女が泣いている。一人地面にうずくまり、その細い腕で、自身の身体を必死に抱きしめて泣いている。


 あぁ、どうして君は泣いているんだ? 何がそんなに君を苦しめるんだ……?


 僕は彼女に手を伸ばす。彼女を抱きしめようと、必死にこの腕を……。


 なのに、どうしたって触れることができなかった。僕の指は、彼女に少しも届かない。



 彼女に襲いかかる真っ赤な炎。焼け焦げる臭い。


 僕の耳には彼女の悲痛な泣き声が、彼女の喉から漏れる声にならない叫び声が……僕の心臓を握り潰すかのように、響き渡っていた。



 ――あぁ、駄目だ、行っちゃ駄目だ、駄目だ。お願いだ、お願いだから……!



 彼女の身体が崩れ落ちる。燃え盛る炎の中に――ゆっくりと……。


 けれど僕の足は動かない。どうしたって前に進む事ができず――僕はただ、その場に独り立ち尽くす。



「あ……あぁ……ッ!」



 ――僕のユリアが、僕の、僕の……!


 彼女の命の灯火(ともしび)が、静かに静かに消えていく。

 赤い炎に燃やされて、僕の前からいなくなる。



「駄目だ……お願いだ、ここにいて、行かないで、逝かないで……ッ!」



 必死にもがいて手を伸ばしても、決して届かない僕の指。


 炎の向こう側で、白い月を見上げて微笑む彼女の美しく可憐な姿。死にゆくその時でさえも、その輝きは失われない。



「ユリア……ッ! 待って、約束したじゃないか! ここにいるって! 僕の側にいてくれるって……!」


 僕は声を張り上げる。

 聞こえないとわかっていても、彼女にはもう届かないと知っていても……。


「愛してるんだ、君のことを心から! だからお願いだ、逝かないで! ユリア……、ユリア……ッ!」


 伸ばした手はただ空を掻き、指の隙間から零れ落ちていくように、僕の意識が薄れていく。


 炎に包まれた彼女の姿が――僕の視界から消えていく。



「ユリア……ッ!!」



 ――あぁ、ユリア、僕のユリア。


 ごめんね、本当にごめんね、僕が弱かったから、僕が非力だったから、君を守れず傷つけた。僕が君を苦しめて、僕が君を殺してしまった。


 誓ったのに――君の側にいると、一瞬だって離れないと……なのに、僕はその約束を果たせなかった。ごめんねユリア。こうなったのは全て、僕のせいなんだ。


 お願いだ、どうか自分を責めないで。君は本当に悪くない、君は本当に、何も悪くないんだ。だからどうか、責めるなら、僕を。恨むなら、僕を。その美しい君の心をそれ以上傷つけないで。君の涙は――もう沢山だ。



 僕の足元が崩れ去る。意識が、深い深い闇に沈んでいく。



 あぁ――僕は次こそ、君との約束を果たすと誓う。僕は必ず君に会いに行く。僕はもう君から離れたりしない。その手を離したりしない。


 だからユリア、待っていて。僕が迎えに行くまで、決して僕を忘れないで。


 僕が君をもう一度愛すそのときまで――君は……。





 僕は静かに瞼を上げた。暗い天井だけが僕の視界に映る。


 まだ真夜中、僕は深いため息をついてゆっくりと身体を起こした。――ベッドが軋む。



「……ユリア、もうすぐだ。もうすぐ君を、迎えに行ける」



 僕は暗い部屋の窓から――あの日の夜と同じ白い月を見上げ――愛する愛する彼女の姿を思い浮かべ、ただ一人小さく、呟いた。


次回更新は2025年春頃を予定しております。今しばらくお待ちください。

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