2.追憶――悲しみの向こうに
――雨が降り注ぐ。
森の木々の葉に、湖に、――土の上に、とめどなく降り注ぐ無数の雨粒。
空は暗く、日差しは無い。その色を映したように、昼間だというのに辺りの景色は灰色に包まれていた。
「――そろそろ、行こう」
「……ええ」
わたしは背後に立つエリオットの声に小さく返事をして、十五年過ごしてきた家の扉を、固く閉ざした。
――おばあさまは死んでしまった。それは六月の始めのこと。ある朝わたしが目覚めて気が付いたときには、既に冷たくなっていた。
お葬式はわたしとエリオット、それからおばあさまの主治医だったナサニエル先生だけで行い――そしてわたしは今日、この家を離れる。
振り向くと、フードの下のエリオットの顔が切なげにわたしを見ていた。
彼はゆっくりと左手を差し出し、わたしが手を取るのを待っている。
わたしが躊躇いがちにその手を握ると、彼はぎゅっと握り返し、町へ向かって歩き出した。
――おばあさまが亡くなって、わたしはずいぶん泣いた。
この森に捨てられた赤ん坊のわたしを拾い、育ててくれた優しい優しいおばあさま。本当の子供でも孫でもないわたしを、とてもとても可愛がってくれた、大好きなおばあさま。
だけど……ごめんなさい。わたし、今日でこの森を出ていくの。
わたしはエリオットに手を引かれながら、頭から外套をすっぽり被った彼の後ろ姿を見つめた。
雨に濡れたその背中は、いつもよりどこか寂しげに見える。
「――後悔、してる?」
ふと、彼が呟いた。
その表情は、彼の後ろを歩くわたしからはうかがえない。わたしの靴が、泥水を跳ねる。
「……いいえ」
わたしは答える。
だって、あの家に住み続けるのは辛すぎるもの。どうしたって、おばあさまのことが思い出されてしまうもの。
エリオットはわたしに言ってくれた。町で一緒に暮らそうと。ここに一人で住むのは、寂しすぎるからと――。
わたしは、彼の言葉を受け入れた。
「わたしは……薄情かしら」
つい、そんな言葉が出てしまう。
エリオットの肩が、一瞬震えた。
「そんなことない。言い出したのは僕だから」
いつもよりも低い声で、彼はそう言う。
「それに君のおばあさまだって、君が一人でいることは望まないと思う」
前だけを向いて、迷いなく森を進むエリオット。
わたしの手をしっかりと掴んで離さない、いつもより冷たい彼の手のひら。それがどうしてか、少しだけ……怖い。
「ごめんなさい、エリオット。――わたし、自分で自分がよくわからないの」
「…………」
「わたし……本当にいいのかしら。わたし、おばあさまに何もしてあげられなかったわ。なのに、わたしはあなたの優しさに甘えて……今こうしてあなたに手を引かれて歩いている。あなたはわたしと一緒にいてくれる。――それが、なぜかわからないけど……とても、怖いのよ」
「――っ」
刹那、足を止めるエリオット。そして音もなく振り向いた彼の瞳は、雨に濡れて、まるで泣いているように見えた。
「何を言い出すの。この前僕が言ったこと、覚えてないの……?」
微かに歪む、彼の唇。それは多分、怒りの感情を表していて、わたしは思わず息をのむ。
あぁ、言わなければよかった――そう後悔しても、もう遅い。
おばあさまが亡くなってからずっと側にいてくれたエリオット。わたしを抱きしめ、慰めてくれたエリオット。そんな彼の優しさに甘えて、とうとう彼を傷つけた。
だけど……もう、どうしようもなくて……。
「……覚えて、いるわ」
わたしは必死に、その言葉だけを絞り出す。
「なら……ッ! そんな悲しいこと……言わないでよ。――僕は」
エリオットの顔が悔しげに歪んで……それを隠すかのように、俯いて……。
「僕は……こんなに君が好きなのに……」
「――っ」
――あぁ、エリオット、ごめんなさい、ごめんなさい。そんな顔をさせてしまって。わたし、本当にそんなつもりじゃなかったのに……。
「何度言ったらわかってくれるんだ。僕が君の側にいたいんだ。君を幸せにしたいんだ。――それなのに……君は僕と一緒になるのが嫌? それとも町に住むのが嫌なの?」
「――ッ、……それ、は……」
いつになく傷ついたようなエリオットの表情。それをどうにかしたいのに――どうしてわたしは即答できないの……?
わたしは悩んだ挙句、俯いた彼の顔を覗き込むようにして、見上げた。
「わたし……どうしても不安なの。わたしにはあなたしかいない。もう他に誰もいない。……わたし、考えてしまうの。あなたの言葉は、あなたの気持ちは心から信じているわ。でも人はいつか死ぬ。こんなこと言いたくないけれど、わたし、もしあなたまでいなくなったら……生きていけない、って」
――おばあさまが死んでまだ二週間。一生分の涙を流したかと思うほどに泣いたけれど、わたしの心は未だ整理がついていない。痛くて、怖くて――わたしを支えてくれるエリオットの腕が無ければ、わたしはきっともうここにはいなかった。
「エリオット。わたし……わたしね……知ってるのよ。町の人に自分が良く思われていないってこと。あなたは必死で隠そうとしていたけど……あなたがご両親から、わたしとの関係を反対されているってこと」
「――ッ!」
刹那――彼の瞳が、これでもかというほどに大きく見開く。
「あなたはわたしと一緒にいたいって言ってくれる。それはわたしも同じよ。だけど、本当にそれであなたは幸せになれるのかしらって。わたしと一緒にいることが、本当にあなたのためになるのかしらって……。今まではこんなこと一度だって思わなかったのに……どうしちゃったのかしらね、わたし……」
「……っ」
彼の瞳が、揺らめく。
「わたし、あなたを愛しているわ。心から、あなたのことを愛している。だからあなたにもちゃんと幸せになってもらいたいの。……どうしたらいいかは、まだ、わからないけれど……」
わたしの言葉に、再び眉をひそめるエリオット。
彼はわたしの両手を強く握りしめると、躊躇いつつも口を開く。
「それは……何度も伝えたよ。君が側にいてくれれば……僕は、それだけでいいって……」
その声は震えていて……彼の真摯な想いが伝わってきて、わたしは頷く。
「ええ。そうね、……そうよね。わたし、まだ不安だけど……でも、あなたの言葉は嘘じゃないってわかるから……だから、あなたを信じるわ」
「……ユリア」
「でも、あなたの優しさに甘えるだけじゃ嫌なのよ。だから、わたしにも何かさせて。あなたに貰うばかりじゃなくて、わたしもあなたに返したいの。あなたがわたしに与えてくれる幸せと同じくらい、あなたに何か返したい。あなたの愛に応えたいのよ」
「――っ」
――そうよ、わたし、エリオットにこんな顔をさせたかったわけじゃないの。本当は、あなたを幸せにできるようになりたいだけなの。
「側にいるだけでいいなんて、寂しいこと言わないで。もっと、わたしにも期待してくれる?わたし、あなたの側にいるから。ずっと側にいるから。約束……するわ」
「……っ」
わたしの言葉に、息をのむエリオット。その表情が安堵に変わり、彼は「それなら……」と、口を開く。
「僕の隣で、前のように笑っていてくれないか? 僕は本当にどんな君だって好きだ。だけど……僕は、君の笑顔が一番好きなんだ」
そう言って彼は、照れくさそうに微笑んだ。
その笑顔に、わたしの心が温まる。
わたし、本当はまだ辛いけど、でもエリオットがいてくれるなら、彼が少しでも笑っていてくれるなら、その温かい眼差しをわたしに向けてくれるなら――。
「わたし、笑うわ。だってわたしも、あなたの笑顔が大好きだから――」
――雨が止む。
雲に隠れていた太陽が顔を見せ、森に日差しが降り注ぐ。
わたしたちはその眩しさに目を細めながら、唇を重ねた。




