1.追憶――十五の春
「……リア、――ユリア!」
「――!」
その声にハッと顔を上げると、エリオットが向かいの席から心配そうにこちらを見ていた。
わたしの手の中のカップは、いつの間にか温くなってしまっている。
「さっきからずっとぼんやりしているけど……どうかした?」
「……あ……えっと……」
ここはエリオットの住む町の、たった一軒しかない飲食店だ。わたしたちはその店のテラス席でお茶の時間を過ごしていた。
けれど、わたしはいつの間にか考え事をしていたようで……。
――あぁもう、わたしったら。せっかくエリオットと久しぶりに会えたのに、彼の話も聞かずにぼうっとしてしまうなんて……。しっかり、しなくちゃ。
「ごめんなさい。何でもないの」
わたしはなんとか微笑んでみせる。
けれどエリオットには、わたしの作り笑いなんてお見通しのようで……。
「なんでもないわけないだろう。君、やっぱり顔色が良くないよ。ちゃんと寝られてる? おばあさまの具合、そんなに悪いのかい?」
「――っ」
彼の言葉に、わたしは咄嗟に目を伏せた。
――あぁ、駄目ね。彼には隠し事なんてできない。
「……そう、……そうね。ナサニエル先生は……もうあまり長くはないだろうって……」
「そんな……」
「仕方ないわよ。もう、ずいぶん歳だもの」
――半年前、年が明けた頃、おばあさまは体調を崩してしまった。今年の冬はここ数年のうちでも特に寒かったから、年老いた身体には堪えたのだろう。
おばあさまの体調は季節が春に移り変わっても良くなることがなく、それどころか日に日に悪くなり――ついにはベッドから起き上がることもままならなくなってしまった。
「……今日はありがとう、エリオット。わたし、もう帰らなきゃ……」
わたしはエリオットにお礼を伝え、一人静かに席を立つ。
あの日――クリスマスから半年が過ぎ、わたしたちは以前にも増してお互いを想うようになっていた。
けれどここ最近は会う回数がめっきり減った。
おばあさまが心配で、離れられなくて――こうやって月に二、三回、生活に必要なものを町に買いに来るときと、そして彼が仕事の合間を縫っておばあさまのお見舞いに来てくれる短いひととき、それだけが、今のわたしに許された彼と過ごせる時間。
寂しくないと言えば嘘になる。それはきっと、彼の方も同じだろう。
けれどそれでもエリオットはわたしを気遣って、いつも優しく見守ってくれている。それが最近とても心苦しくなってきて――でもそんなことを口にしてしまっては彼を傷つけてしまうだろうと――わたしは段々と、彼に笑顔を見せられなくなってしまっていた。
でもきっと、エリオットにはそんな気持ちすら見透かされてしまっているのだろう。
彼は、席を立ったわたしにすぐに追いついて、わたしが抱えた荷物の袋を軽々と持ち上げた。
「送るよ」
そう言って、彼はいつも以上に真剣な顔でわたしを見つめる。その瞳に、わたしの心臓がとくんと跳ねた。
「でも、まだ仕事があるんじゃ……」
「君以上に大切なものなんてない。ねえユリア、僕はそんなに頼りないかな」
「――っ」
彼の瞳が、わたしを捕らえて離さない。その視線が苦しくて、痛くて、わたしは思わず俯いてしまった。――本当は、嬉しいはずなのに。
けれどそんなわたしに、尚も優しく落ち着いた声で語りかけるエリオット。
「顔を上げて、ユリア。君の気持ちは理解しているつもりだよ。僕たち、何年の付き合いだと思ってるの?」
「…………」
その言葉に顔を上げると、そこにはいつものように微笑む彼の姿があって。
それは凛々しくも穏やかな、初夏の太陽のように温かい笑顔。
彼はわたしの右手を、大きくたくましく成長した左手で優しく包み込む。
「帰ろうか」
わたしの愛しいエリオットが、その瞳にわたしだけを映してくれる。
わたしはその優しさに心癒やされながら、彼に手を引かれて歩き出した。
*
町を出て広い草原を抜け、わたしたちは通り慣れた緑の道を進んでいく。
木々の隙間から降り注ぐ金色の光に目を細め顔を上げれば、そこにはいつもよりも澄んだ高い空が広がり、数羽の鳥たちが大きな羽を広げていた。
その羽ばたきが枝葉を揺らし、そこから吹き抜ける青い風が隣を歩くエリオットの髪をさらりと揺らす。同時にきらりと光る、彼の美しいヒスイ色の瞳。
記憶のある頃からずっと過ごしてきた、ここはわたしの庭のようなもの。一人でも寂しくはない、怖くはない、むしろ心地よく感じるほどに、わたしはこの森を愛している。
けれど慣れたこの道も、この景色も、エリオットと一緒だと不思議といつもと違って見えた。彼と並んで歩くこの道は、まるで初めて通る場所であるかのように全てが輝いて見えるのだ。
わたしはエリオットと右手を繋いだまま、彼の横顔をじっと見上げる。
すると彼はすぐに気が付いて、微笑んでくれた。
「なんだか久しぶりだね。こうやって手を繋いで二人で森を歩くの」
エリオットはそう言って、わたしの手を握る左手に少しだけ力を込める。
わたしより少しだけ高い、彼の体温。それがとても、心地いい。
「そうね、確かにそうかもしれないわ」
わたしが微笑み返すと、彼は懐かしそうに目を細めた。
「子供の頃はいつも手を繋いで散歩したよね。二人でこの森を走り回って、果実や木の実を拾ったり、木登りをしたり、リスやうさぎを追いかけたり……。小川で魚を捕まえたりもしたね」
「そうね。木登りはわたしの方が上手かったわ」
「はははっ、確かに。木登りは今でも君には勝てないだろうな。でも足なら僕の方が速い」
「もう、当たり前でしょ! わたしたちいくつになると思っているの? 今でもわたしの方が速かったらそっちの方がおかしいわ!」
「ふむ、それは確かにそのとおりだ」
彼はそう言うと、すっとぼけたような顔をしてわざとらしく口角を上げた。
そのどこか不敵な笑みに、わたしの心臓がきゅうっと締め付けられる。
――あぁ、わたしは本当に……この人には敵わない。
エリオットの声が、笑顔が、その眼差しが……いつだってわたしの心をときめかせ、強く掴んで離さない。眩しくて眩しくて、その存在自体が愛しくて……。
「ねぇユリア、覚えてる? 僕たちが初めてここで出会った日のこと」
エリオットの栗色の髪を輝かせる木漏れ日。彼の柔らかい前髪を揺らす爽やかな春風。彼の瞳の色を一層深く美しく彩る青々とした木々。
そのどれもが、まるで彼のためだけに存在しているのではないかと錯覚してしまうほどに。
「八歳のときだったよね。僕が森で迷って困り果てているところに、突然空から君が降ってきた」
「空って……。それはあなたが大声を出すからじゃない」
――そうだ。あの日もわたしは木の上でうたた寝していて。でも急に叫び声が聞こえたものだから、驚いて落ちてしまったのだ。見事に――エリオットの上に。
「あのとき僕は天使が舞い降りてきたのかと思ったよ。町の教会の天井に描かれている天使の絵と、本当にそっくりだったから」
「――っ。それは……初耳ね」
「そう。君の下敷きになって頭を打って。地面に倒れた僕の顔を覗き込む君の瞳があまりに美しくて――あぁ僕は死んだんだ。空からお迎えが来たんだな、って思ったよ」
「…………」
これは褒められているの? それともからかわれているのかしら……。
わたしが返事に困っていると、エリオットはふわりと微笑む。
「僕はね、あの日、君を一目見て一瞬で恋に落ちたんだ。あぁ、なんて可愛い子だろうって」
「――っ」
眩しげに細められる、彼の瞳――。
「君は知らなかっただろう? 君が僕のことを好きになるよりもずっと前から、そう、初めて会ったあのときから、僕はずっと君のことが好きだったんだ」
「――っ」
――あぁ、どうしてこの人は、いつもわたしの欲しい言葉をくれるのだろう。まるで心が読めるみたいに……。
「僕はね、すごく努力したんだよ。君に好かれたくて、好きになってもらいたくて。だから君の考えてることは大抵わかるようになった。――好きだよ、ユリア。僕は君を愛してる。君の笑顔も泣き顔も、僕に後ろめたいと悩むいじらしいところも、本当はちょっとがさつなところも、全部全部ひっくるめて、君の全てを愛しているんだ」
「――っ」
エリオットの熱い眼差しが、甘い声が、わたしの心を包み込む。彼の言葉が嬉しくて、切なくて、愛しくて――言葉が出てこないほどに。
「だからユリア、お願いだ。どうか僕には君の全てを見せてほしい。僕の前ではいつだって、ありのままの君でいてほしい。君が僕のいない場所で涙を流しているなんて、想像するだけで耐えられないほど辛いんだ。だからユリア、僕の願いを聞いてくれ。君が僕のことを愛してくれているのなら――いつも僕の隣で笑って、僕の腕の中で泣いてほしいんだ。どんなときも、僕を君の傍にいさせてほしい」
「――エリオット……」
エリオットの美しい微笑み、熱を帯びた眼差し。――その奥に見え隠れする燃え上がるような彼の強い気持ちに、息をすることさえ忘れてしまいそうになる。
「僕はどんな君だって受け入れるよ。君の全てを愛したいんだ。――ユリア、僕は誓うよ。何があってもこの手を決して離さないと。たとえ世界の全てが君の敵になろうとも、僕だけは君の味方でいると――」
「――っ」
あぁ、あぁ、エリオット。わたしの愛しいエリオット。わたしにはあなただけ――。あなたさえいれば……わたしはここで生きていける……。
――愛している、愛しているわ、エリオット。
そしてわたしたちは、お互いの愛を確かめるように、強く強く抱きしめ合った。




